第1レース 第1コーナー 競馬学校のとある日常
世界が割れる! と思うほどの大歓声があがった。
その日、東京競馬場は朝から熱気と興奮に包まれ、今まさにピークを迎えつつある。天も地も、割れんばかりの歓声で満ちていた。
一年に一度、その年の三歳馬の頂点を決めるレース。芝2400メートル、東京優駿。通称、日本ダービーは、競馬関係者にとってまさに目指す頂の一つだ。
今、鮮やかな緑色の芝生の上を十八頭の競走馬たちが駆けてゆく。
オレはその中の一頭の背に跨り、手綱を握っていた。位置取りは最後方。前方には十七頭の馬と、それを操る騎手たちのお尻がある。レースはすでに終盤。残すは最後の直線のみ!
東京競馬場の直線は高低差が2.7メートルもあり、坂の下からゴールは見えない。そして、距離は525.9メートルもある。
オレ達なら最後方からでも十分に届く!
大きく鞭を水平にかざし、オレは鞭を振るった。バチンッ! と甲高い音を合図に、騎乗する四白流星の栗毛馬は速度を増した。グワッと、身体が持って行かれる。
ゴールまで――、
残り400メートル。大外を進むオレたちは他馬を徐々に抜き始める。
残り300メートル。馬群の中団に取りつく。残る敵は一〇頭だ。
残り200メートル。坂が終わり、ゴール板が見えてくる。前を行く馬は三頭のみ。
残り100メートル。横一線に強敵たちが並ぶ。
残り90、80、70、……20、10メートル……。
そして残り1メートル! わずか鼻先で強敵を制し、オレたちはゴール板を駆け抜けた。
「うおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!!」
鞍上で両手を上げ、オレはガッツポーズした。
「これでオレは念願のダービージョッキーだ! ずっと夢見てきた願いを、今、叶えたんだ!」
拍手と祝福の声が雨のように降りそそぐ。ちょー気持ちいいっ!
だがその時、「アオ君、はやく起きてよ!」という声がオレの耳朶を打った。
「はやく起きて? 何言ってるんだ、吹雪?」
声の主の名を口にして、オレは空を見上げた。そこには、巨大な邦枝吹雪が立っている。競馬場を覆うほどの巨体を持つ彼女は、右手をオレへと伸ばしてきた。一〇〇M級巨人か! と思うほど巨大な吹雪は、オレを右手で捕まえてもう一度大声で叫ぶ。
「アオ君、はやく起きてよ!」と。そこでオレの意識は完全に現実へと還った。
「な、なんだ。夢かよ……っーか。今のが現実じゃないっ!? ぐはっ! いや、吹雪に捕まった後半は別として……、オレの夢のダービー制覇がぁぁぁ! 夢の夢ってどんだけだよ! い、いや。たとえ夢であろうと中断されたのは残念でならないっ! せめてあと五分! あと五分だけでも余韻に浸っていたかった!」
オレは布団の中で号泣した。
「うん、ごめんねー、アオ君。残念だったねー」と、吹雪が慰めてくれる。
「……んっ? けどなんで、……オレたちの部屋に吹雪がいるんだ?」
枕元の時計に目をやると、六月五日、三時三四分とある。
買い食い未遂から数時間が経過している。
オレは横を向き、こちらに手を伸ばす吹雪をあらためて瞳に映した。そこには間違いなく、巨体ではないが巨乳の同級生がいる。……オレのルームメイトは池柄忍。同期の男子である。
競馬学校がいくら男女を平等に扱うからといって、さすがに男女同室なんてことはあり得ない。吹雪は同期であるもう一人の女子、藤澤カオルと同室だ。なのに今、二段ベッドの上段に転がっているオレの顔の横に吹雪の顔がある。
「なぜだ?」
オレは首を巡らせてもう一度時刻を確認する。三時三十五分。いくらオレたちの朝が早いからといっても(通常は五時起き)、まだ眠っていていい時間だ。しかし、
「もう。やだなー。忘れちゃったの? アオ君」
左手で二段ベッドの梯子を掴んだまま、吹雪は右手を口元に持ってゆく。そして、伏し目がちに顔を逸らした。
な、なぜそこで恥じらう吹雪? 顔を赤らめて朝からそんな台詞を言われたら、下半身がヤバくなるだろ……。いや、ってか。間違いなく、オレ今、布団から出れねーよ。勘弁してくれ。
「なぁ、吹雪。オ、オレ。お前と、なんか、約束してたっけ?」
いやー。喉が渇いているせいか舌がうまく回らねぇ。ってことにしておこう!
「ほら、あれだよ。あれ……」
さらに顔をリンゴみたいに赤くして、吹雪はモジモジと俯いてしまった。
「あれ? ……って、あっーー。便所掃除か!」
「うん」
「ぐおぉぉぉ、完全に忘れてたぜ! このままじゃサクラ教官の雷が降りしきる!」
思わず布団から跳ね起きたオレだったが……。Tシャツにトランクス姿だってことをすっかり忘れていた。いや、いつもなら気にすることじゃないが……。うおぉっっっ!
吹雪の視線がオレの下半身に釘付けになってる!
「だいじょうぶだよー。吹雪ねぇ、弟くんのツンツンしたことだってあるから!」
いや、それはそうかもしれんが……。って、ツンツン!? それは羨ましい。いや、お前の弟とオレのでは……。たしか、吹雪の弟は五歳とかそんなだったはず……。
とにかく、面と向かってガン見されたままはちょっと……。
「あのー、吹雪さん。ちょっとの間、部屋から出ていてくれてると助かりますよ?」
「うん。わかったー」
二段ベッドに掛かっている梯子から「うんしょ」と飛び降り、吹雪はトテトテと部屋から出て行ってくれた。
ホッと胸を撫で下ろしたオレは、ジャージの上下を着て身支度を整える。
「にしても、忍のヤツはどこいったんだよ?」
お前のせいで吹雪と気まずくなったらどうしてくれるんだ! と不満を抱かせた同居人の行方。
その答えは廊下に出て分かった。
「シノブン、こんなところで寝ちゃダメだよー」
しゃがみこんだ吹雪に頬を突かれている忍は、廊下に座り込んで見事な鼻提灯を作っていた。
およそ一時間半後。
便所掃除を終えたオレたちは、朝食を摂取するためにドタバタと食堂へと雪崩れ込んだ。
長机が並ぶ広い食堂には、朝餉のいい匂いが漂っている。
全寮制となっている競馬学校には、騎手課程の一年から三年と、厩務員課程の人たちが暮らしている。だが、いつもより少し早い時間の為か、オレたち以外の姿はない。なので、遠慮なくカウンターに駆け寄り、用意されている朝ごはんのお盆を手に、長テーブルの端からオレ、忍、吹雪の順番に座った。
「はらへったー」「やっと、飯にありつけるー」「ごはん、ごはん~」
つやつやと光る白飯、湯気を上げる味噌汁、ヒジキのお浸し、焼き魚。そして、バナナが四角いお盆の上で輝いているじゃぁないか!
「「「いっただきまーす!」」」
手を合わせるのもそこそこにオレたちは朝飯をかき込み始めた。すると、お盆を手に一人の少女が現れた。
彼女はちょっとキツメの目をさらに吊り上げ、オレの方を睨んだかと思うと、短めの髪をふわりと揺らして腰を下ろした。彼女の名は藤澤カオルと言う。五人いるオレたちの同期の一人で、吹雪と同室の女子だ。
「ねぇ、アンタたち。またバカやったみたいね」
開口一番。冷ややかな口調で藤澤は口撃してきた。こいつはいつもいつも気が強いと言うか、好戦的だ。とくにオレと忍に対しては。
「ホントに、毎回毎回、私の吹雪を巻き込まないでくれないかしら。おバカさんたち」
いや、吹雪はお前のじゃねーだろ。まぁ、オレのでもねぇけどな……。一言で言うと、天真爛漫な吹雪は、オレたち同期のマスコット的な存在だ。ほんわか、のんびり、一緒にいるとどこかホッとする。それが邦枝吹雪という少女なのだ。
「いや、吹雪は藤澤さんのじゃないでしょ」
オレの想いを代弁するかのように、忍が藤澤に意見した。
すると、藤澤はスッと目を眇める。まるでこの場の空気が凍りついたかと思えるほど、その視線は冷たい。完全形態の宇宙の帝王の視線だってもうちょっと優しいに違いないぞ!
「そこのバカども。黙りなさい! 黙らないと、無いこと、無いこと言いふらして貴方たちの人間としての尊厳を貶めてあげるわ!」
藤澤は右手に持った箸でオレたちを指し示してくる。
「いや、おかしいだろ! 無いこと無いことって、無いことだらけじゃないか! ふん、そんなこと言ったって誰が信じるって言うんだよ! やりたければやればいいだろ!」
自信満々にオレは言い切ったが……。
「そう。なら――、まず私たちの入浴を覗いたとして変態の烙印を押してあげるわ」
「「う、うっ、それは!」」
藤澤の第一の矢に、オレと忍は両腕を躍らせて怯んだ。
「次に。私の下着を盗んだとして変態の烙印を増やしてあげるわ!」
「「な、なんとっ!」」
第二の矢に二の句が継げないオレたちは、プルプルと身体を震わせて慄くことしかできない。
もう、蛇に睨まれた蛙。肉食獣に狙われた、生まれたての小鹿や仔馬のようにプルプルだ。
「どう? いかにも貴方たちがやりそうなことじゃなくて? 次に……」
「「い、いえ。もう勘弁してください」」
立ち上がったオレと忍は息もぴったり、深々と頭を下げた。
「そう。それなら今後、アンタたちのバカに吹雪を巻き込むのは止めなさいよね」
「それは……」と、顔を見合わせたオレたちは、自然と吹雪に視線を落とした。
ハムハムと朝餉を食べておいでであったオレたちのマスコットは、口の中の物が無くなるのを待ち、「私、止めないよ。カオルン」と言い放った。
「えっ? 今なんて言ったのよ、吹雪!」
信じられない! といった顔の藤澤は、テーブルの上に身を乗り出して吹雪に詰め寄った。
「だから吹雪は、アオ君やシノブンと一緒に行動するのを止めないって言ったんだよ」
今の今まで白米をパクパクと食べていた吹雪が、すまし顔でのたまう。
「何言っているのよ、吹雪。コイツらとつるんでいても、貴女の為になることなんて何一つないわよ!」
「そんなのカオルンには関係ない」
おおー、ハッキリとした物言い。素晴らしーデース、吹雪さま!
「なっ! わ、私は貴女の為を思って言ってあげているのよ、吹雪!」
「うん、ありがとカオルン。でも、それじゃつまんないよ! 吹雪は、アオ君やシノブンとつるんでいて楽しいから一緒にいるんだよ」
「なっ!」
藤澤の口がパクパクと空気を吐き出した。まるで水槽から飛び出した金魚みたいに。
「聞きましたかな、藤澤さん?」と、オレ。
「聞きましたよね、藤澤さん?」と、忍。
ドヤ顔のオレたちは、手を取り合うとダンスをするかのように、握り合った拳を唖然とする藤澤に突き出してみせた。だが、
「でも、吹雪はカオルンとも一緒にいたいと思うよ。だからみーんな。仲良くしてね」
御茶碗片手に、我らがマスコットはウインクをしてみせた。
どうやら、軍配はオレたちにではなく、もちろん藤澤にでもなく、吹雪に上がったらしい。
ってか、どうするよ、忍! この握り合った両手の行き場はどこに持っていけばいいっ!?
藤澤カオルの冷ややかな視線を受けつつ、黙々と朝ごはんを食べる吹雪にも援軍を求められず、オレと忍は握り合っていた両手を力なく離し、朝食の席へと戻ったのだった。
こうして、脱走未遂。罰掃除。朝食時の吹雪争奪戦と、色々とあったわけだが……。競馬学校生である、オレたちのいつもと変わらない一日が始まろうとしていた。




