第4レース ゴール前 希望
競馬の世界では一年を締めくくる有馬記念が終わり年末が差し迫った頃、ある報せが入った。
「最後のリング。やっと完成したよー」と連絡を寄こしたのは、カジュアルショップの経営者、九条絢音さんだった。
待ちに待ったチャンピオンリングの完成。
で、一二月二十六日。なんだかんだで、オレが一人で受取に出向くことになったわけだけど………………。
寒空の下、渋谷の駅に降り立ったオレは思わず立ち尽くしていた。
年末、人、多っ!
この前来た時より、断然人が多い!
オレは小さい頃、「ひとごみ」という言葉は「人混み」でなく、「人ゴミ」と書くのだと思っていた。何と言っても、「人がゴミのようだ!」っていう某映画の名言があったからこその勘違いとしておきたい。まぁ、恥ずかしい過去だ。
とりあえずオレは、信じられない人混みの中、絢音さんの店に辿り着いた。
「こんにちはー」と入り口をくぐると、
「おー、来た来た!」
カウンター越しにピエロメイクの絢音さんが出迎えてくれた。
店内には年末セールという札がいたる所に張ってある。まぁ、クリスマスセールとの札が一枚だけ残っているのは、ご愛嬌だろう。というか、世の中はホントにセールが好きだな。と思う。
「あれ? キミ一人だけなの?」
「はい、今日はオレだけです」
「えー、残念。せっかくみんなの喜ぶ顔を見せてもらおうと思ったのになぁ」
絢音さんは、左目の下にある涙のメイクに手を当ててみせた。
「すみません」
「うそうそ! 冗談だって……んっ!?」
絢音さんの顔がぐっ、とオレに寄せられた。カウンターに手をついて、さらに寄せられる。
「ど、どうかしたんですか?」
「うーん、キミ。音梨クンって言ったっけ?」
「はい」
「キミ、なにかあったのかな?」
もう一つ、さらに絢音さんの顔が寄る。
「うん! 間違いない! ちょぴり男の子の顔になったよね!」
「えっ? そんなの分かるんですか?」
オレは素直に驚いた。
「こちとら客商売だよ、それくらい分からなくてどうしますか!」
胸を張った人生の先輩は、
「で、なにがあったのかな? おねぇさんに聞かせてみー」とニコニコ顔で訊いてきた。
それは人生の先輩というより、愚かな人間と契約を交わす悪魔みたいな顔だった。そう感じたのは、メイクのせいということにしておこう。
とりあえずオレは、実家が倒産してしまったこと。落馬して担当馬のサマーデイズを死なせてしまったこと。その後遺症かは分からないけど、ムチが振るえなくなってしまったこと。体重のリミットオーバーで大樹が学校を去ったこと。そして、チャンピオンシップの優勝は、ほぼ藤澤のものになったことを話した。
大樹のように要領がよくないので、うまく伝わったかわからないけど……。
「でも、オレはまだ諦めてません! 最後のレースはポイントが二倍になるんです!」
カウンターに身を乗り出したオレに、今度は絢音さんが身を引いた。
「オレ、もう頑張ることに手を抜かないって決めたんです!」
オレの言葉を聞いていた絢音さんは、大きく頷いた。
「なるほど。変わるわけだ」
「えっ?」
疑問を口にしたオレに、絢音さんは苦笑した。
「そうだなぁ、ちょっと厳しいことを言っちゃっていいかな?」
「あ、はい。もちろん」
「うん、じゃあ、言っちゃおう。実はこの前ね、みんながここに来た時。みんなまだ子供の顔だなーって思ったの。あっ、まぁみんな学生だから子供なんだけどね」
「はぁ」
「うーん。そうだなぁ、なんて言ったらいいのかなぁ」
絢音さんは言葉を選んでいるようだった。厳しいことを言うと言ったのにも関わらず、言葉はまとまっていないみたいだった。
顎に手をあてて考えていた絢音さんは、ぽん! と手を叩いて言葉をつづけた。
「そうそう、そうだ! たとえばだけどさ、勝負の世界に飛び出していきなり勝負ができるのは、あの背の一番高い子――端口クンだっけ。あの子だけかなぁと思っていたの」
すげっー! オレは素直に感心した。
絢音さんの言葉は間違ってない。オレもそう思う。同期で最もプロに近いのは間違いなく大樹だったと思う。逆に、オレは今でもまだまだ……足りていないように思える。
「大丈夫。キミも負けてないわよ。今ならね。これを受け取る資格十分だよ!」
カチャ、とカウンターの上に絢音さんはリングを置いた。
でっかいダイヤモンドが台座にハマったリング。その両サイドには、後ろ脚で立つ馬の姿が彫られている。まるで西洋の貴族の紋章みたいだ。
「手に取ってみてもいいですか?」
「もちろん」
手に取ったシルバーリングは、その施されて緻密な意匠もさることながら、中央の石が特に目を引いた。
「すげー、これ、ダイヤモンドですよね?」
いや、だったら代金は数百万? それくらい大きな、白く輝く石がはまった指輪だった。
「あははは、それはね。ジルコンっていう宝石よ。ダイヤモンドじゃないわよ」
満面の笑顔で絢音さんは答えてくれた。
「ジルコン? って……ジルコニアとかいう……、たしかダイヤモンドの偽物でしたっけ?」
オレは少ない知識を口にしてみた。
綺麗だけど決して本物ではなく、偽物。
まだ本物ではないオレたちにはお似合いなのかもしれない。だけど、
「ううん」
絢音さんは首を振った。
「ジルコンとジルコニアは正確に言うと違うんだけどね。たしかにキミの言うようにジルコニアはダイヤモンドの代替品――模造ダイヤモンドとされることも多いけど、ジルコンはジルコン。天然の石なのよ。つまり、ジルコンっていう本物の石なの」
「へー。そうなんだ」
「そう。宝石ってそうなのよね。採掘される量で金額が決まっちゃうの。ね、変でしょ。綺麗さだけならジルコンだって負けてないのに」
愛おしそうな目をして絢音さんは続ける。
「綺麗に磨けば、ジルコンだってダイヤモンドに負けないと私は思うわ!」
絢音さんにはそんな気が無かったかもしれないけど、まるで、自分のことを言われているような気がした。上手く言えないけど……、とにかくそんな気がした。
「でも、そうね。はやくプロの騎手になってダイヤモンドのリングを私から買ってくれると嬉しいかも」
にこりと笑うピエロな絢音さんに、オレは代金を払ってリングを受け取った。
「そうだ! ちゃんと誰が優勝したか私にも教えてよね!」
「あ、はい。でも、それだったら最終レース見に来てください。二月の第一週の土曜日、中山競馬場でオレたちの卒業レースがあるんです」
「へー、そうなんだ! それはぜひ行かせてもらおうかなぁ。なんだかキミたちのこと気になっちゃうのよねー」
見送ってくれた絢音さんに大きく手を振って、オレは帰路へと付いた。
ふと見上げると、年末の空はどんよりと鈍色だった。
絢音さんは「大丈夫。キミも負けてないわよ」と言ってくれたけど――、
オレは、まだまだだ。
強がってみせたものの、今日の空のようにオレの心はまだ曇ったままだった。
転機が訪れたのは、年末最後の特別授業でのことだった。
オレは特別教室である、隣り合わせの六畳二間にいた。そう、ここは畳が敷かれた和室である。
同期のみんなとサクラ教官の姿があり、さらにオレたちの前にもう一人、和服姿の上品なおばぁちゃんが正座をしている。
「はい。ではここまでにしましょうかね」
紺色の地に藤が描かれた和服を着た痩身のおばぁちゃん――井藤先生は、定期的にオレたちに茶道を教えに来てくれていた特別講師だ。
入学当初は、競馬学校で茶道? と思ったものだ。
姿勢を正して精神を集中させる茶道は、どこか競馬に通じるものがあると説明を受けたが――今でも、本当か? とオレは思っている。
基本的に、オレはじっとしているよりも動いている方が好きだ。
最近は特にその傾向が強い。それは、じっとしていると不安に駆られるからだ。
なにか大きなものに押し潰されるような感覚がつきまとっている。普段は忘れていても、ふとしたことで、それはオレを覆ってしまう。
とくに追い切りの時。ムチが振れない時に嫌でもその感覚はやってくる。
身体を動かしていた方がそれを忘れられる。ムチさえ振るわなければだけど……。
だからじっとしている茶道は苦手というか、はやく終わってくれないかなぁと思う時間だった。
けど、授業は授業。出ないわけにはいかない。それに茶道と言えば、なんと言っても和菓子である! 公然と甘いモノが食べられるチャンスなのだ。
そこだけは茶道のいいところだと思う。
しかし、それも最後。そう、茶道の授業を受けるのは今日で最後なのだ。
もう和菓子を公然と食べられないのは、ちょっと残念だ。ああ、それともう一つ。優しい井藤先生と会えなくなるのも残念だ。小さい頃に祖父と祖母を失っているオレは、この普段高級車のジャガー(スポーツカー)を普段の足にしている井藤先生を、本当のおばぁちゃんのように思っていた。だから余計に残念だと思うのだが……。
この想いは、どうやら忍と吹雪も同じだったようで、
「井藤せんせー」
「井藤のおばぁちゃんー」
二人が井藤先生に飛びついてゆく。
いや、その勢いで飛びついたら井藤先生はポッキリ折れちゃうだろ。
「はい、そこ! 最後まで行儀よくしておけ!」
バチン、バチン! とサクラ教官の竹刀が二人の頭を痛打した。
白い煙を上げつつ畳の上に突っ伏した忍たちを見て、井藤先生は微笑む。
「はいはい。わたしも淋しいですよ。みなさん、どうか立派な騎手になって下さいね」
すっ、と井藤先生は茶菓子の入った箱を差し出してくれた。
とたん、忍と吹雪の瞳が輝く。
「彼方たちはわたしに会えなくなるよりも、お菓子が食べられなくなるのが残念じゃなくて?」
「「「あははは……」」」
どうやら、井藤先生は完全に御見通しだったようだ。
「今日ぐらいはいいでしょう。ねっ、東雲先生?」
井藤先生の問いに、サクラちゃんは小さな笑みを浮かべた。
「私はもう教官室に戻りますので……。どうぞゆっくりとしていって下さい、井藤先生。では、失礼します。どうぞ、良いお年を」
「はい、良いお年を。東雲先生」
正座のまま頭を下げた後、スッと立ち上がったサクラ教官はすぐに和室から退出した。
どうやら、見て見ぬふりをする。ということらしい。
「さぁさぁ、みなさん。たくさん用意していますからね。どうぞお上がりなさい。藤澤さんもいかがかしら?」
「いえ、私は結構です」
藤澤も、正座をしたまま頭を下げた。
「三年間、お世話になりました。井藤先生」
「はい。三年間よく頑張りましたね、藤澤さん。貴方は綺麗な姿勢をしていますよ。どうか、お爺さまとお父さまの名に恥じぬ、立派な騎手になってくださいね」
ぴくり。と、頭を下げたままの藤澤の身体が動いたような気がした。
んっ? なんか変じゃないか? いつもなら礼儀正しい藤澤がすぐに返答をしない。
「……良いお年をお迎えください。井藤先生」
まるでお詫びをするかのように、藤澤はさらに頭を下げた。そして立ち上がると、スタスタと和室から出てゆく。
しばらく藤澤の後ろ姿を見つめていた井藤先生が、なんだかとても印象的だった。
「ぐわっー。もう限界だー。正座きつー」
忍が足を投げ出したのを見て、井藤先生が着物の袖を口にあてて笑った。
「どうぞ、彼方たちも足を崩していいのよ」
「やったー。吹雪、もう限界だったんだよー」
えへへへ。と笑い、吹雪も正座を崩した。
「あれ、アオ君は足崩さないのー?」
「うん、ま、まあな」
オレは引きつった笑いを浮かべ、和菓子に手を伸ばした。
今、オレの足はすでに十分に痺れている。この状況で動くのはヤバイ! あえて、しばらくはこのままでいた方がいいっ!
そのまま、オレたちはたわいのない会話に時間を費やした。
十五個近くあった和菓子が無くなった頃、
「長い間、お世話になりました。ありがとうございました」と、オレたちは声を揃えて頭を下げた。
「はい。こちらこそ。楽しい時間をどうもありがとう」
上品に井藤先生は頭を下げた。
「よし、じゃあ片付けしちゃおうか」
忍が立ち上がって和菓子の包みを集め始めた。吹雪も茶器を集め始める。だが、オレは動けない。
ダメだ、動けねぇ! このまま動くのはヤバイ! ヤバすぎる! 足が痺れて……限界だ!
「はっ!」
オレは急に殺気を感じた。とてつもない狩人の視線を感じる!
今なら、ライフゲージが少なくなったときに、痺れ罠にかかったレオリウスの気持ちが分かる気がする!
ギギギと、壊れた自動人形のように振り返ると、
キラーン。瞳を輝かせた忍と吹雪がそこにいた。
双剣と大笛を手にしたハンターのオーラが見える!
「あら、あら、絶体絶命ね。音梨さん」
「いや、そこ楽しそうに笑うとこじゃないでしょ井藤先生!」
泣きそうになるオレに向かって、菩薩様のような微笑みを浮かべる井藤先生。
くっ、どうやら援軍は期待できない!
「ぐっ、おぉぉぉ」
膝立ちから四つん這いになって逃走を試みようとするオレ。
「ふふふー、アオ君。覚悟するんだよー」
「ふふふー、アオ。傷ついた獲物を目の前にして逃がすほど、ボクたちは甘くないぜ!」
「お、お前ら――、なんて友達がいのないヤツらなんだー!」
少しでも逃げようとオレは前に進むが、痺れる脚は簡単に逃亡を許してくれない。
「今だー!」「いまだよー」
忍と吹雪が襲いかかってきった。
二人の手がほぼ同時に、オレの踵とふくらはぎに触れた。
「あぎゃぁー!」
ビリビリと電気が走った! 百万ボルト。どこぞの超電磁砲弾も真っ青の威力だ!
「や、やめてくれぇー!」
必死になったオレはほとんど反射的に右手を走らせた。
右後方、背後にいる忍を目がけオレの右手が奔る。
バシーン!
気持ちいい音を立てて忍が転がった。
「うぉ、やられたー」と、忍は大げさに転がり、やがて動かなくなった。
「……」
ゴロンと仰向けになった忍と、自分の掌をオレは交互に見くらべた。
指先に、じぃーんという感覚がある。オレの右手が忍の顔に触れた感覚がある!
「こ、これだー!」
膝立ちのまま、足が痺れているのも忘れてオレは叫んだ。
あまりの大きな声に、吹雪がキョトンとした顔をしている。
「どうしたのアオ君?」
「あははは! これだよ! 吹雪! これだ!」
なおも吹雪は小首をかしげる。救いを求めるように井藤先生、忍に視線を彷徨わせている。だが、分かっているのはオレだけだ。
さらに、ダンっ!
興奮のあまり勢いよく立ち上がったオレは、刹那に気付いた。
あっ、オレ、今足痺れてたんだ!
じじぃーん、という形容しがたい感覚が両足を駆け上がる。そのまま胴体を通り、頭の先まで。
「ぐ、ぐはぁっ!」
オレはたまらず畳の上に轟沈した。足のつま先を手で抱えて転がりまわる。
「あらあら。おほほほ……」
井藤先生の上品な笑い声を聞きながら、オレは照れ笑いを浮かべた。
けど、見えた! わずかな光!
時間は、まだある!
最後の勝負、これでオレは戦える! ……かもしれない?
オレは痺れる足を強引に黙らせて、正座をして姿勢を正した。
「ありがとうございました。井藤先生」
「はい、ありがとうございました。なにか良いことがあったようね。音梨さん」
井藤のおばぁちゃんの微笑みに、オレはにこりと笑みを返すのだった。




