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蒼きギャロップ  作者: 印藤ゆう
17/24

第4レース 第1コーナー  兆し

 十二月の第三週の木曜日。今年最後の模擬レースがあった。

 ちなみに今日のレースは、オレが落馬して中止になった第2回模擬レースの代替レースとして行われた。

 その日の夜、パァン! と甲高い音がフィジカルルームに鳴り響いた。

 木馬があるトレーニングルームの隣にあるフィジカルルーム。そこには、筋トレ用の様々な機器が備えられていて、ちょっとしたトレーニングジムのような感じの部屋になっている。

 その床に倒れ込み、こちらを睨んでいる藤澤にオレは声を荒げてみせた。

「オレをバカにするのは構わねぇ! けど大樹は……、大樹のヤツをバカにするのは許さねぇ!」

 藤澤のヤツは赤くなった左頬を手で押さえている。

 それを見て、オレは右手がジンジンするのを自覚した。

 オレが藤澤を平手打ちしたのだ。思いっきり、手加減なく。グーでなく、パーにするのが精一杯だった。

「3着二回。――本当に進歩が無いわねアナタは。……はぁ、端口君もホント無駄なことをしたものね」

 オレが藤澤を平手打ちする直前に彼女が口走った言葉だ。

 確かに、今日の模擬レース。オレは3着二回に終わった。それは事実だ。対する藤澤は1着と2着。その2着も、1着だった吹雪と差のないものだった。それに比べれば……、オレは確かに進歩がない。

 1レース目はスタートでミスって、2レース目は仕掛けが早すぎた。

 相変わらずムチが振るえない状況がオレの心から余裕を奪っている。……いいや、それは言い訳だ。藤澤が言うとおり進歩がないんだ。特訓に付き合ってくれていた大樹に申し訳がない。

「ふん、アンタなんかもう辞めちゃえばいいのよ!」

 吹雪に立ち上がらせてもらった藤澤は、瞳に涙をたたえてオレを睨んだ。

 謝るべきだとわかっているのに、脳裏に大樹の顔がちらつくとオレの口は動こうとしなかった。いや、謝るべきだ! と思った矢先、藤澤は踵を返してフィジカルルームを出ていった。

「あっ……」

 虚空に伸ばしたオレの手が、ただただむなしかった。


 十五分後。

 オレは教官室でサクラ教官と向き合っていた。

 藤澤を張り倒したことを、下級生が教官に報告したからだ。

 直立不動。背筋を伸ばし、まっすぐに立つ。

 顔を正面に向けて、回転イスに腰掛けているサクラ教官と視線を合わせないようにする。

 藤澤に平手をしたのは、圧倒的にオレに非がある。それくらい分かっている。

 なら、説教にひたすら耐えて、サクラ教官の怒りが収まるのを待つしかないと覚悟していた。

「なぜ呼ばれたかは分かっているな?」

 発せられたサクラ教官の声が冷たい。絶対零度、はさすがに知らないけど、北海道の真冬の屋外に放り出された方がまだマシだ。それでも答えなければ教官の心証は悪くなるばかりだろう。

「はい、分かっています!」オレは声を張った。

 オレは意図的に大きな声で答えた。でなければ、声は小さくなっていただろう。

「まぁ、こっちとしてもだいたいは話を聞いているわけだが……。いや、状況は分かっているつもりだったが……」

 あれ? サクラ教官ちゃんの声にいま一つ鋭さが無い。もっとこう、頭ごなしに怒鳴られて、正座で一時間や二時間……くらいは覚悟してきたのだけど……。

 不思議に思って目線を下に向けると、目が合った。完全に目が合った。

 いや、やっぱ不機嫌じゃーん! すっげぇ睨まれてる。……な、泣きたい!

 脚を組み、さらに腕を組んで座るサクラ教官は、考え事をしているのか、しばし沈黙を守った。

 オレは針のむしろに座らされているような感覚を覚えたが、やがてサクラちゃんは意を決したように、「ところで音梨」と開口した。

「はい!」

「まだムチは振るえないか?」

「!」

 オレの目が見開かれる。

 いや、流石に知られていないとは思っていなかったけど。まさか今、このタイミングで出てくる話ではないと思っていたからだ。

「はい、まだ振るえません……」

 ムチを振るおうとすると、腕が硬直してムチが振るえない。

 それは落馬したせいなのか、デイズを死なせてしまったからなのか……。未だに分からない。 いいや、一生分かることなんてないのかもしれない。

 ただわかっているのは、デイズの死はオレの心の一部分を削り取っていったということだ。

 悲しくて、痛い。それはきっと落馬した事実よりも。

「音梨。お前が悩みを抱えているのは知っていた。それを今まで放って置いた私にも責任はある」

 すまない。と、サクラ教官は姿勢を正して頭を下げた。

「あっ、いえ、そんな……やめてください。教官」

 想定外の状況にオレは戸惑ってばかりだ。さらに、サクラ教官はオレの知らなかったことを口にした。

「実はな、お前がムチを震えないことに関しては、端口が進言してきたんだ。『蒼司のことは自分に任せて欲しい』と」

「た、大樹が?」

「音梨。お前の症状は俗にいう『イップス』という状況だと思われる」

「イップス?」

 どこかで聞いたことがあるような、無いような言葉だった。

 イップスとは、心的要因でスポーツなどの動作に支障をきたし、思い通りのプレーができなくなる運動障害だ。とサクラ教官は説明してくれた。

「イップスは厄介な症状でな、確たる治療法が確立されていない。医者にかかったからといって完治するものでもないんだ。だから端口に任せることにしたんだが……」

 サクラ教官は椅子に座ったままこちらを見上げ続けた。

「端口がいなくなったその後も、お前は一人でなんとかしようと頑張っていた。だから口を出さなかったんだが……」

「えっ、見ていたんですか?」と訊くと、

「これでも貴様らの教官だぞ」とサクラ教官ちゃんは小さく笑った。

 サクラ教官の言葉を、オレは正直ありがたいと思った。

 いつもは厳しいが、オレたちの自主性を重んじるのがサクラ教官のやり方だ。

「貴様ら、常に最善を自分で考えろ! 騎手になったら頼れるものは自分だけと知れ!」

 それがサクラ教官の口癖だ。

「そう言えば、たしかサクラ教官も落馬してますよね?」

 オレの問いに、サクラちゃんの表情が豹変した。形のいい柳眉が吊り上がっている。

 も、もしかして禁句だった?

 オレの頬を冷たい汗が流れてゆく。でも、反応がなかったのでオレは恐る恐る続けた。

「その。落馬した後に、イップスとかいうのに……ならなかったんですか?」

「……そうだな。一度目の落馬は、騎乗できるまで時間はかかったが、気持ちが勝った。とにかく騎乗したくて、競馬場で走りたくてウズウズしたものだ」

 瞳を輝かせ、サクラ教官は顔の前に握り拳を作ってみせた。

 やっぱりオレたちの教官は凄い人だ。オレでも、……いや、オレでもなんておこがましいかもしれないけれど、小さい頃から実家で馬に乗ってきたという意味では、オレも乗馬歴は長い。それでも、なのだ。落馬してしばらくは馬に跨るのが怖い時がある。まぁ、それは一過性のもので、馬に乗るのが楽しく感じるようになれば忘れてしまうけど………………。

 とにかく落馬の恐怖は、かなりのものだったりする。しかも、全治何か月なんて怪我をしたら、そこから復帰するのは正直過酷だと思う。それでも、サクラ教官は二度も復帰を果たした。

「自分で自分を誤魔化せ、音梨」

 サクラ教官は声のトーンを落としてそう言った。

「イップスを克服した例を見ると、問題がある動作を繰り返し繰り返し、反復練習してゆくのが一番だと思われる」

「サクラ教官……」

「だが、精神論だけを唱えても現実は改善しないこともある。医者に通うというのであれば許可を出そう……。もっとも、貴様の実家の状況も親御さんから聞いてはいる。それに、医者に通うにしても時間はあまりないぞ。卒業レースまでに結果が出せなければ、私は貴様を騎手にさせてやることはできない。――どうする、音梨?」

 オレは暫く考えて、サクラ教官の目を見た。

「オレは……、大樹と約束しました。ダービージョッキーになってみせるって! だから、こんなところでつまずいてなんていられません! 必ず、イップスってヤツをやっつけてやります!」

「そうか。……音梨。肉体は克服できなくとも、精神は克服できる。五体満足なら戦えるはずだ。乗り越えてみせろ!」

「はい!」

 サクラ教官は二度目の落馬で膝をやってしまった。一度目と同じく復帰を果たしたけれど、そのシーズンは結果も振るわなかった。翌年、東雲サクラという将来を嘱望された騎手は、多くの人に惜しまれつつ競馬界ターフを去った。

 怪我を精神で克服しても、肉体はついてこなかったのだ。

 きっと、悔しさと口惜しさを胸に、サクラ教官は指導者の道を選んだのだろう。

「乗り越えてみせろ」と言う言葉には、サクラちゃんの経験と想いが込められているのだとオレは思う。

 肉体はどうしようもなくとも精神はどうにかできる!

 オレは乗り越えてみせる! 現状を! そして、騎手になるんだ!

「で。それはそれとしてだな」

 ガラリ、とサクラ教官の雰囲気が変わった。

「だからと言って藤澤を叩いたのはいただけなかったな、音梨」

「う、うっ……」

 サクラちゃんが大魔神モードへと入った。

 トレードマークのポニーテールを揺らし、赤いオーラが立ち上がる。

 そのまま教官はおもむろに立ち上がり、デスクに立てかけられていた竹刀を手に取った。

「女に手を上げるとは何事か!」

 両眼を光らせたサクラちゃんが大上段に竹刀を構えた。

 オレは目を閉じて覚悟を決めた。だが、

 ぺちんっ。と、可愛らしい音が鳴った。

 目を開けて確認すると、オレのおでこの前にサクラ教官の指があった。つまりオレは、デコピンされたのだ。竹刀を肩に担いだサクラ教官が微笑んでいる。

「藤澤に謝ってこい。音梨」

「はい、了解です!」

 オレは背筋をピンと伸ばして返事をした。

「よしっ、謝罪が済んだら報告に来い。ここで待っているからな」

「はい!」


 と言って教官室を出てきたものの、今の藤澤に向き合うのは難関だ。

 ってか、もうムリゲー? ひのきの棒あたりで竜王に戦いを挑む感覚?

 しかし、謝らなければサクラちゃんに殺されてしまう。

 いや、そもそも謝って帰らないと、サクラちゃんなら、明日の朝までも教官室で待っている恐れすらある。いやー、そうなったらイップスどころじゃないぞ。

 まさに行くも地獄。行かなくても地獄。

 仕方なく、オレはフィジカルルームの入り口から中を覗いてみた。

 いた! 藤澤は吹雪と一緒に筋トレに励んでいる。

 女子は腕力でどうしても男子に劣る。だから藤澤と吹雪は、最近特に筋トレを重視していた。恐ろしいことに、アイツらの腹筋はうっすら割れている。そんじょそこらの男子は軽く超えている状態だ。

 藤澤は、胸筋を鍛えるべくベンチプレスをしていた。吹雪はその補助について、ベンチに背中を預ける藤澤の頭の上に立っている。

「カオルン、まだ怒ってるのー?」

「ふん。べつに……、ただあのバカの心の狭さに腹を立てているのよ!」

 いや藤澤、それ怒ってるじゃん! べつにとか言って、しっかりお怒りじゃないですか!

 二〇キロ越えのバーベルを軽々と上げつつ、藤澤は怒り心頭のご様子だ。女子にしてはかなりの重量を事も無げに持ち上げる。いやー、それってオレへの怒りで上げている? ひょっとして?

 ガシャン。とバーベルのシャフトを胸元に近づけ、再び持ち上げる。

「カオルン。アオ君はねー、ピアッフェしているだけなんだよー、きっと」

「ピ、ピアッフェ?」

 バーベルを持ち上げて、藤澤が怪訝な顔をした。

 ピアッフェ? オレも首を捻る。どこかで確かに聞いたことがある。イップスよりももっと身近で……。

「ああ。ひょっとして、『足踏み』のこと?」

 藤澤の呟きで思い出した。

 ピアッフェとは、『足踏み』を意味する言葉。それは、馬術用語だ。

 子供の頃から乗馬をしていた吹雪ならではの例えかもしれない。

「そう、そのピアッフェだよ。でもねー、アオ君はきっと乗り越えてくると吹雪は思うよー」

 ガシャン。

「どうして?」

 ガシャン。

 オレの名前が出てから、急にバーベルを上下させるペースが上がってないか、藤澤?

 ガシャン。

「ほら、覚えてるかなー。一年生の時の追い切り練習のこと」

 ガシャン。

「ええ、覚えてるわよ。あのバカみたいな歌もね」

 ガシャンと。藤澤はシャフトを吹雪に預けてバーベルトレーニングを終えた。そのまま上体を起こして、タオルで汗をぬぐい始める。

「ハラへったーハラへったー。今日のごはんはなんだろなー、今日のごはんはなんだろなー♪」

 吹雪は嬉しそうに、変てこな歌を歌ってみせた。

 およそ十三秒。

 競走馬の追い切りでは基本となるタイムだ。

 オレはこの十三秒を計るのが苦手だった。追い切り練習が始まった頃、よく居残り練習をさせられた。もちろん馬を走らせるわけにはいかないので、サクラちゃんはオレに走りながらタイムを計ることを課した。トラックを爆走しながら十三秒を走りきる。それを体に覚えさせようとしたのだ。だが、それでも上手くいかず、オレは歌を歌って秒数を数える方法を編み出した。

「まったく。歌を歌ってタイムを計るなんて、いかにもあのバカの考えそうな方法よね」

 タオルを手に藤澤は汗をぬぐった。

「でもねー、追い込まれれば追い込まれるほど、全力で何とかしちゃうのがアオ君なんだよー。そのへんをはっしー君も分かってたんじゃないかなぁ」

「端口君……」

 藤澤が固まるのを見て、オレも胸元からチェーンに繋がったカレッジリングを取り出した。蒼色の宝石を持つオレのリングと、赤色の宝石を持つ大樹のリングが手の中で輝く。

「足踏み(ピアッフェ)か……」

 大樹のリングを見ながらオレは呟く。

 そうだ。アイツに恥じない騎手になる! それが今のオレの目標だ。

 こんなところで足踏みしてどうする! 藤澤に謝るくらいクリアできなくてどうする! 前に進まなくてどうする! そうだ。後がないオレは、なんでも全力でやるしかないんだ!

 覚悟を決めたオレはフィジカルルームに足を踏み入れた。

「私もあのバカが……」

 藤澤の言った、あのバカ。それが自分のことだと察したオレはピタリと歩みを止めた。

「あのバカが、……なんかあったら一番初めに飛び出すし、そのくせバカみたいに止めないし……。そのうえ、小さな頃から馬に乗っているから基礎はできているし。一年の頃はアイツの方が……なのに……」

「うん!」

 にっこりと、言いよどんだ藤澤を吹雪が笑顔で促した。

「とにかく! 私は頑張ればできるのにやらないヤツが大っキライなの!」

 えっ? それってつまり、オレがやればできるってこと? 藤澤がオレのことをそんなふうに思っているのか? そういえば一年の頃は、アイツよりオレの方が成績良かった時期もあったけど……。

「あっ、――アオ君!」

 吹雪が足を止めていたオレに気付いた。

 くるりと藤澤がこちらを振り返る。

「バカ音梨! アンタまさか聞いてたっ!?」

「あん? な、何をだよ?」

 オレはおもいっきりとぼけてみせた。さすがに自分の評価を藤澤が話していたのを聞いていたなんて言い辛い。

 そこで、オレはつかつかつかと大股で歩いて行き藤澤の前に立った。

「な、なによ!」

 半身になった藤澤はタオルで胸元を隠した。

 いや、見ない。見ないよー。汗で、こう、その、シャツが透けているからといって、視線をそっちに向けたら、厄介な状況がより厄介になりそうだ。だから、青いリボンが中央に付いたブラなんて見ていない! いや、これ以上見てはいけないものを見ないためにも、オレは頭を下げた。限界まで。そのまま姿勢を維持。

「その、オレが悪かった! 張り倒して悪かった! ゴメン、藤澤!」

「……」

 頭を下げ続けるが、暫くの間、藤澤の許しの言葉はなかった。

「ふん。頭下げるくらいなら、もうちょっと頑張りなさいよ――」

 ジャージの上着を肩にひっかけて、藤澤はオレの横に立った。

「そ、その。私こそ、あれよ! 端口君のこと出して、ゴメン」

 後半部分を早口で言い切ると、藤澤は早足にフィジカルルームの出口に向かった。

 頭を下げていたオレが振り向くと、藤澤はジャージを翻してこちらを指差した。

「ねぇ、バカ音梨! 今のままじゃチャンピオンシップの優勝は私で決まりだわ!」

 そのとおり。現在のポイントだと、吹雪が1着を取り、藤澤が4着だったときのみ藤澤以外が優勝できるという状況だ。オレと忍の自力優勝の可能性はすでにゼロなのだ。

「けど、それじゃあ面白くないわ! だから、私たちだけの特別ルールよ。最後の勝負はポイント二倍よ。それなら可能性はあるでしょ。もっとも、それでも、私が必ず優勝するから!」

 大胆不敵な宣戦布告。藤澤カオルは上から目線で勝ち気な瞳を輝かせた。

 そこには、技術と実力に裏打ちされた自信がはっきりと見て取れる。けど、

「させねぇ!」

 オレは胸元に手を当てた。固いリングの感触がある。大樹の言葉を思い出す。

「諦めるな!」

 そうだ。残された最後のレース。ポイントが二倍になっても、オレが1着、藤澤が4着じゃないと優勝の目は無い。けど、

 ――ワクワクするぜ!

「ぜってぇ、させねぇ。お前の優勝、必ずオレが阻んでやる!」

「そう。せいぜい足掻きなさいよ。音梨蒼司!」

 不敵な笑みを浮かべて、藤澤はフィジカルルームから去っていった。

「ははっ、燃える! 燃えるぜ!」

 オレは藤澤の挑発を買った。

 自分がハンデを抱えていることすら忘れて。いいや、違う。ハンデがあるから燃えるんだ。攻略不可能な敵だと思えるから、ラスボスに挑む価値がある。何度負けても、何度立ち向かっても、勝てねーかも。そう思わせるヤツが相手だから、燃えるんだ!

「いいぜ! たとえ装備がひのきの棒でも、大魔王を倒してやろうじゃないか! 最後の勝負、ぜってー勝ってやる!」

 拳を握りしめてオレは叫んだ。すると、不意にドンとぶつかるものが……。

 背中に、ぽよんぽよん。と柔らかい感触がある。

「吹雪も負けないよー」

 背後から吹雪が飛びついてきたのだ。

「最後、ぜったい勝つよー。勝っちゃうよー!」

 吹雪はオレの首に左腕を回し、右腕を突き上げた。

 オレはなんとか吹雪をおんぶするような格好で踏みとどまる。

 ってか、お前はもっと自分の肉体の破壊力を知るべきだ。

 お前の柔らかい胸の攻撃力は、正直、聖剣級エクスカリバークラスの破壊力だぞ! 大魔王だってあっさり倒せる威力を秘めている!

 それに、オレの鼻血が止まらなくなったらどうする、吹雪?

 床に点々と赤い液体が落ちるのを見て、オレは反射的に鼻を押さえたのだった。




 兎にも角にも。

 今できることをしよう! とオレは決めた。それを全力で。

 最終レースに勝つために!

 授業も、自由時間も。睡眠時間すら削って。暇さえ見つけてはムチを振り続けた。

 ビュッ、ビュッ、と。今も自室にムチを振る音が響く。

 ちなみに、ムチを振るときは騎乗モンキースタイルだ。中腰を前傾して、さらに足を折りたたむ格好。その姿で、やや右下後方に向かってムチを振るのだ。

 ビュッ! 腕を振ると汗が飛ぶ。それほど長い間、オレはムチを振り続けていた。

 サクラ教官が言っていた「ムチを振る動作を繰り返す」という練習、いや、治療を行っているのだ。

 無意識にムチが振るえるようになるまで……。

 それはいつまでという区切りが無い、際限がない、傍から見れば拷問に近い練習かもしれない。それでも、信じて続けるしかない。

 腕が悲鳴を上げても、心が悲鳴を上げない限り、オレは毎晩限界までムチを振るい続ける。

「なぁ、アオ」

 二段ベッドの下段に寝転ぶ忍が声を掛けてきた。

「なんだ。忍?」

 オレは視線を向けつつ、その間もムチを振る。

「ひょっとして、マゾになっちゃったの?」

「いや」

 ふーん、と忍はちょっとの間、何ともなしにこちらを見ていた。

「でもなぁ。やっぱり、ここんとこのアオは、(はん)ぱないね」

「うん? ……まぁ、なんだ。いわゆる、マジになったのさ」

 言って、オレは首を捻った。

 うん? このやり取り、どっかで――――――?

「そうか。マジになっちゃったのか」

 寝転んでいた忍は起き上がって胡坐をかいた。

「アオ」

「おう」

 オレは尚もムチを振りながら答える。ビュッ、と、小気味いい音を立ててムチが空気を切り裂いた。

「ボクにも、なんか手伝うことないかな?」

 忍の呟きにオレは腕を止めた。

 いや、コイツがそんなことを言うなんて意外だった。どっちかと言えば、忍もちょっと前のオレと同じ。昼間の練習さえ頑張ってればそれでいい。みたいな考え方だったはずだ。その忍から助力を申し出る言葉が出るとは。

「びっくりした」

「だってさぁ。ぶっきーも藤澤と筋トレ頑張ってるし、アオまで頑張ったらボクの居場所が無いじゃん。その、なんだよ……」

 忍は鼻の頭を、指の背で擦りながら視線をあさっての方向へと向けた。

「ボ、ボクを置いてくなよ。――親友」

 ははっと笑ったオレに、忍は「わ、笑らわないでよ!」と抗議する。

「じゃぁさぁ。お前も頑張ればいいじゃん、忍」

「うーん。けど、何やっていいか分かんないし」

「そんなの簡単さ。明日から大樹がやっていたメニューを二人でしてみようぜ」

 一人より二人だ。

「たしかにオレたちが大樹のやっていた練習をやったからと言って、一+(たす)一は二にはならないかもしれない。けど二人なら、少なくともやる気は三倍にも四倍にもなるだろ。それに心の限界も確実に遠くなる」

「そうだね。いいいね、やろう!」

 で、オレたちは翌日。サクラ教官から大樹がこなしていた自主トレメニューを聞きだし、二人でやってみた。そこでオレたちは、改めてヤツの偉大さを思い知った。

「「に、人間じゃねぇ……」」

 ヘトヘトになってオレたちが出した答えがそれだった。

 けれど、人は慣れる生き物だ。そして慣れというのはたいしたものである。

 一週間も続けると、オレたちは大樹のメニューをこなせるようになっていた。

 けど、オレは未だに追い切りの時、ムチが振るえずにいる。

 何もない時は簡単にムチを振るえるというのに、……騎乗すると腕が動かない。

 最後の模擬レースまであと二ヶ月ちょっと。

 オレは……。焦りとジレンマを胸に、練習に明け暮れるしかなかった。

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