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蒼きギャロップ  作者: 印藤ゆう
15/24

第3レース ゴール前     あこがれの地で

 光陰矢の如し、とはよく言ったものだ。

 焦るオレを追い立てるかのように月日は流れて、十二月第二週、第三回目の模擬レース当日。

 ダート、芝ともに1200メートルで行われる模擬レース。

 午前に1レース、午後に1レースが予定されている。しかも、この日は東京競馬場でレースが行われるのだ。平日故にお客さんはいないが、それ以外は本物と変わらないレースが行われる。

 その日の朝、オレはいつもより早く起きた。着替えを済ませ、朝靄の中に包まれる厩舎に向かった。すでに十二月だ。正直、肌寒い。けど、感覚を研ぎ澄ましてゆくような冷たい空気がオレは好きだ。

 白い靄をかき分け厩舎に辿り着いたオレは、先客がいることに気が付いた。

「大樹か?」

 同期のライバルが、こちらを振り向いた。

「はやいな、蒼司」

 大樹が笑う。

「お互い様だろ」

 オレも笑顔を返した。

「いよいよ今日は決戦だな」

 大樹は視線を外し、担当馬の鼻面を撫で始めた。一頭を終え、もう一頭も。

 ゆらりと、湯気が大樹の身体から立ち昇る。まるでオーラだ。いいや、間違いなく大樹はオーラを発している。気迫というオーラを。その気迫にオレは息をのんだ。

 このままでは呑まれてしまうと思い、オレは声を発した。

「今日は負けないぜ、大樹!」

「ああ、自分も2レースとも勝つつもりだ。1着は譲らない。君でもだ、蒼司」

 もう一度こちらを見た大樹の眼は、燃えるように爛々と輝いていた。




 東京府中市、東京競馬場。

 厩舎エリア、馬場、検量室を見学した後、オレたちはコースについてのレクチャーを受けた。

 第1レースが始まるまであと少しだ。

 緊張する。手に汗がにじみ、心臓がバクバクする。

 結局、オレは出たとこ勝負を選んだ。

 一頭はデイズの代替馬でよくわからないので、ゲートを出て流れに任せるしかない。

 その代わり、大樹と相談して何パターンも状況を考えて、その一つ一つに対応策を用意してきた。多分、これはオレ一人じゃムリだった。大樹がいて初めてできた戦略だ。

「集合!」

 サクラ教官がパドック――レース前に、馬のデキの良し悪しをお客さんに見せるところ――で集合をかけた。サクラ教官の後ろには、他の教官たちがずらりと並んでいる。

 オレたちは、その前に横一列に並んだ。

「今日は、重大な報せがある」

 ああ、そうか。今言うのか……。オレは前を向いたまま姿勢を正した。

「東雲教官!」

 端口大樹が一歩前に出た。

「自分で話をさせてください。お願いします」

 サクラ教官はしばらく大樹と視線を交わしていたが、後ろにいる教官たちを振り向いた後、視線を戻して頷いた。「いいだろう」と。

 大樹はさらに前に出て振り返ると、オレたちの方を見た。

「実は――、自分は今日で学校を去ることになりました」

「「「ええ!」」」

 一斉に、オレ以外の同期の声が上がった。

 でも、薄々は気付いていたのかもしれない。大樹の身長はもうとっくに一七五センチを超えている。その身長と骨格が、四十七・五キロという体重を容認するのは難しい。

 競馬学校の規定では、三回規定体重である四十七・五キロをオーバーすると退学が言い渡される。厳格たる、避けられぬ決まりだ。

 大樹は言った。

「だからみんな。……今日は真剣勝負をして欲しい」

 清々しく、前を向いて、アイツは微笑んだ。「みんなとの最後のレース。真剣勝負をしたいんだ」と。

 大樹がオレに協力を申し出てくれたあの日。大樹はオレに、もう体重のリミットを下回るのが難しいと打ち明けた。

 それを聞いたオレは、心底悔しかった。

 同期の中で一番努力して、一番真摯に騎手と向かい合ってきた大樹が、体重オーバーで騎手になれないなんて。

 オレは知っている。いや、同期の誰もが知っている。カロリー制限されている食事ですら大樹は食べない時があった。我慢に我慢を重ね、努力に努力を重ね、それでも報われない。それでも届かない。

 なのに、大樹は……。

「現実は残酷だ。人生は思うようにいかないことばかりだ。でも、それでも、道は開ける! 諦めず、前を向き、進んでさえ行けばきっと!」

 まるで自分に言い聞かせるように。ムチを振るえないオレに向かって大樹は言ったんだ。

 自分の道は閉ざされてしまったというのに。

 それに比べたらオレは……、どれだけ中途半端なんだよ!

 オレにハンデがあるのは知っている。努力を怠ってきたというハンデだ。

 そのオレが大樹に勝とうなんておこがましいのかもしれない。でも、オレは……!


 ゲートの前。

 五頭の馬がスタート時間を待つ輪乗りの最中、オレは馬上でみんなに宣言した。

「今日は2レースとも、オレが1着を取る!」

 吹雪にしろ、忍にしろ、根が優しい。唯一の例外、冷血女の藤澤のヤツは知らないけど。

 とにかく、オレは気落ちしているように見える忍と吹雪に向けて、発破をかけるための宣言をした。

 だってそうだろう。大樹のヤツは気の抜けた勝負なんて望んでない。ましてや周りが、手を抜いた結果の1着なんて望んでいない。真剣勝負こそが大樹の求めるものなんだ。

 オレの言葉を聞いて大樹も続いた。

「みんな、分かっているか? 今日自分が1着を二回取れば、今日以降レースに出られない自分にも、チャンピオンリングを手にできる可能性だってあるんだ。うかうかしていたら後悔する羽目になるぞ」

「「「「!」」」」

「そんなことさせない! させないわよ! ここから去ってゆくアナタに勝たせてあげる義理なんてないわ! 主席の座は私が手にするんだから! 精々全力でかかってきなさいよね!」

 おー、言う言う。やっぱり藤澤のヤツに温かい血なんて流れてないんじゃないか?

 だがここまできてやっと、忍と吹雪の眼にも光が戻った。

「ボクだって! 前回、1着取ったんだ! 舐めるなよ、大樹!」

 そう、オレが落馬したレースは無効にならず、逃げきった忍が1着を取っていた。だから現在ポイントが10点に満たないのは、5ポイントのオレだけだったりする。

「吹雪だって負けないよー! チャンピオンリングは吹雪が貰うんだからー」

 吹雪が気を吐くと、ずいぶんと可愛らしい感じがしてしまう。さすがはオレたちのマスコットだ。

「え、えっー。なんでみんな笑うの? 吹雪変なこと言ってないよー」

 頬を膨らませる吹雪はさらに場を和ませる。もう変な緊張は、みんなから消えていた。

「さぁ、行こう! 勝負だ!」

 大樹が馬首を巡らし、ゲートへと馬を入れた。それにみんなも続く。

 ダート1200メートル。

 ほんの1分10秒ほどの勝負。七十秒とちょっとにオレたちは全力を傾ける。

 いよいよ、スタートが切って落とされた。

 ガシャン! とゲートが開かれ、オレはスタートを決めた。

 直後、藤澤が勢いよく飛び出した。それに吹雪と大樹が続いている。オレと忍もスタート自体は悪くないが、すこし置いて行かれた。

 くっ! ムチが使えないオレはできるだけ前に付いて行きたいのに!

 道中、焦ったオレは自分で自分に腹が立つくらいミスを連発した。

 少しでも前に行こうとして、騎乗馬とケンカをして馬のスタミナを使ってしまった。

 さらに勝負所でも、前を行く馬と馬の間に突っ込むのをオレは躊躇した。落馬の記憶がよぎったからだ。

 勝機を掴めなかったオレは仕方なく、大外に馬を持ち出した。

 けど、ケンカしてスタミナを消耗した騎乗馬に、切れる脚は期待できるはずもなかった。

 言うまでもなく、オレはみんなの後塵を拝して、第1レースは5着―――――――。

 あれだけ啖呵を切ったのに情けない!


 昼休憩中。

 オレはパドックの中央部分に陣取り、芝の上に横になっていた。

 現在反省中。いや、猛省中だ。

「5着は無いよなぁ、5着は……。完全に焦って騎乗ミスったぁ!」

「アンタバカなの? エラそうなこと言っておいて5着とかないでしょ。しっかりしなさいよね!」

 陽の光を遮って現れたのは、2着だった藤澤だ。その言葉にオレは「ぐっ」と呻いた。

「どうやら返す言葉もないようね。だったらちゃんと反省しときなさいよ!」

「してたんだよ、今。まさしく! 反省中なの!」

「ほんとうかしら? 午後のレース、5着とか取ったら思いっきり笑ってやるから。覚悟して騎乗しなさいよね!」

 藤澤は言いたいことだけ言うと、満足したとばかりに去っていった。

 入れ替わりに、大樹がやってくるのが見えた。午前のレースで1、2着だったこの二人は、立ち止まって二言三言交わすと再び歩き出した。

「ったく、藤澤のヤツはどうしてああも生意気なんだよ!」

 オレは横に座った大樹に愚痴った。

「なんだ気付いてないのか? 藤澤さんのあれは、お前に気を使っているんだぞ」

「はぁ!? まさか! なにがどういうふうに気を使ってるんだよ!」

「フッ、まぁなんだ。自分の同期なかまはみんな優しいな。……最高だ」

 顔をあさっての方に向けたからよく見えなかったが、

 ひょっとして大樹……泣いていたのか?

 

 そしてほどなく、気持ちも覚悟も十分に固まらないうちに2レース目はやってきた。

 これが大樹にとって。いやオレたちにとっても、大樹と一緒に走る最後のレースだ。

 芝1200メートル。今度はダートよりも短い時間、1分08秒ほどで決着がついてしまう。泣いても笑っても、1分チョイで全てが終わる。終わってしまうのだ。

「今度はしくじらねぇ」

 午前に乗った馬は、デイズの代わりに手配された代替馬だ。正直、クセが分からなかった。

 いや、それは言い訳だ。さっきのレースは完全にオレのミスだ。でも、今度は乗り慣れているレッドドレイク。サマーデイズに比べて言うことを聞いてくれないが、それでもコイツのことは良く分かっている!

 こいつは、気が強くて思い通りに騎乗する(てのうちにいれる)のが難しい馬だ。

 得意な戦術は「追い込み」で、前の方でレースを進めようとすれば、こちらの指示を聞いてくれないかもしれない。もし、レース中に折り合いを欠いたら、短距離だけにミスを取り返すのは困難だ。だから、レッドにこちらが合わせることを意識する。

「頼むぜ、相棒」

 オレは鞍上からレッドドレイクの首筋を叩いた。

 その様子を見ていたのだろう、藤澤が馬を寄せてくる。

「ふん、馬の力に頼らなくちゃならないんじゃぁ、話にならないわね」

「なんとでも言えよ。今度は負けねーからな、藤澤!」

 オレはしっかりと藤澤の目を見て言ってやった。

「そう。せいぜい頑張ることね」

 すっーと、馬首を巡らせて藤澤はゲートへと馬を導いた。

 オレもレッドをスターティングゲートへと向けた。すると、今度は大樹が馬を寄せてきた。

「蒼司。自分はこのレース、絶対1着を取る」

 大樹は断固たる決意を瞳に込めていた。なにがなんでも! という気迫が見て取れる。

 自らが目指す騎手という道が閉ざされて尚、大樹はオレの為に協力してくれた。それに応えるためにも、

「オレもみっともない騎乗はしない! ぜってー、勝つ!」

 オレと大樹は馬上で拳を合わせた。これが大樹との最後!

 ほどなく、五頭の馬がゲートに揃った。

 オレは感覚を研ぎ澄ます。姿勢を低くしてスタートを待つ。

 ガシャン! とゲートが開いた。

 スタートダッシュ! オレは手を前後に動かしてレッドドレイクに行き脚をつける。

 悪くない! いや、気付けばオレが、オレとレッドが先頭を走っていた。

 オレが逃げ!? チラと股の間から後ろを確認する。

 普段先頭を主張したがる藤澤も、何故か後方だ。その横に大樹がいた。そしてオレのすぐ後ろが忍、その一馬身後ろに吹雪がいる。

 つまり、オレ、忍、吹雪、藤澤、大樹という順番だ。

 オレは最後方からのごぼう抜きが好きだ。戦術も最後方からの「追い込み」を選択することが多い。それと、レッドドレイクの得意な戦術も「追い込み」だ。けど、

「『逃げ』もちゃんと大樹と一緒に考えてきたんだぜ!」

 そうだ。大樹のレクチャーが思い起こされる。

 逃げは、タイムとリズムが重要だ。

 どんなに速く走れる馬でも、限界がある。

 競馬は、際限なく走破タイムが短くなるわけじゃない。馬のレベルにもよるが、レッドたちなら、芝の1200で、1分08秒前後。逆算して3ハロン(600メートル)を34秒くらいで走ればいい。つまり、1ハロン(200メートル)を11秒ちょっとで走ればいいのだ。

 もちろん、それは言うほど簡単じゃない。しかも前半で足を溜めたいのなら、心持ちゆっくり走らせた方がいい。だが、あまりに遅いと二番手に付けているヤツにつつかれ、逃げ馬はリズムを崩してしまう。

 いいか、蒼司。こういう乗り方が同期で一番上手いのが藤澤さんだ。彼女の体内時計は侮れない。だけど、いつもいつも彼女が先頭ハナを奪えるわけじゃない。だからハナを奪えた時は迷わず行け! ムチを振るえない状態で最も有効な戦術だ!

「おう!」

 オレはレッドの脚を緩めるために、少しずつ手綱を絞った。後半に勝負できるスタミナを残すためだ。

「リズム、リズム、リズム………………」

 オレは呪文でも唱えるみたいにレッドの手綱を操る。幸い、二番手の忍が強引に仕掛けてくることは無かった。けど、レースはあっという間に中盤を迎え、終盤に差し掛かる。

 なるべくスピードを落とさず、左回りのコーナーを回る。

 悪くない! ラチ沿いにレッドを誘導し、外にも膨らまなかった!

「ここまでは、逃げとしてはオレのベストレースだ!」

 しかも、レッドのスタミナも十分に残っている! 直線の上り坂も十分いけるハズだ!

 直線に入り、ゴールまで残り460メートル。

 レッドとオレは、高低差2メートルの府中の坂に差しかかった。

 すぐ後ろに忍が迫ってきている気配がある。でも、まだだ。まだ我慢!

 残り300メートル。坂道が終わった。

 後ろからさらに別の気配が迫ってきた。吹雪も勝負を賭けてきたか! 後ろから聞こえてくる馬の息遣いが、何度も何度もオレの背中を撫でてゆく。

 焦るな、焦るな! まだだ。まだ!

 振り返ればすぐ後ろにみんながいて、次の瞬間に抜かれて、オレだけが置いて行かれるイメージが付きまとう。それでも、が・ま・ん~~~~~~~~~~。

 残り200! ここだ! オレは手綱を緩めてレッドのハミを噛ませた。ガチン、と衝撃が手に伝わりレッドのスピードが上がる。

 残り100メートル。ここまできてもレッドに並ぶ馬はいない。

 いける! オレは必死で腕を動かした。生まれて以来一番、これでもかというほど両腕を動かしている。それでもまだゴールを駆け抜けない。

 まだかよ、ゴールは! 長すぎだろ、ラスト100メートル! う、腕がつりそう!

 ほんの4、5秒が長い。気が遠くなるくらいに長い――――――――――。

 その時、黒い影がオレの横に差し掛かった。しかも二つ同時! オレには横を見る余裕すらなかった。ただひたすらに両腕を動かし続けた。

 レッドドレイクがゴール板を駆け抜けたのは、オレの腕が悲鳴を上げるのと同時だった。




 その日の夕方。

 秋の夕日が長い影をつくる中、校舎の入り口でオレたちは大樹を見送っていた。

 数人の教官と同期の面々。

 まるで退院してゆく患者を見送る病院スタッフ一同、みたいな感じだ。

 いつもはジャージ姿のオレたちだけど、今は正装……競馬学校の制服であるブレザーに身を包んでいる。

「みなさん。お世話になりました」

 荷物を地面に置いた大樹は、深々と頭を下げた。

「端口。君は良い生徒だった。騎手にさせてやることができず申し訳ない」

 サクラ教官が姿勢を正して頭を下げた。

「やめてください東雲教官。すべては自分の努力が至らなかっただけです」

「そんなことはない。君が努力を続けてきたことは誰もが知っている」

 大樹は小さく笑顔を作った。さみしそうに。

 その後、何人かの教官たちが一言ずつかけてゆき、サクラ教官を残して引き上げていった。

「同期にライバルがいなくなって残念だわ」

「それはどうかな、藤澤さん。本当は君も分かっているのだろう?」

「ふん、何のことかしら」

 藤澤はそれだけ言い残すと、早々に校舎の中へと帰って行こうとしたのだが、オレの前で足を止めた。

「――次、今日みたいな接戦の時。自分が勝ったか負けたか分かるくらいになりなさいよね」

「な、なんだよ、負け惜しみかよ!」

 オレは藤澤の背中を見送った。

「ほんと、生意気な冷血女だよな」

「それはどうかな。意外と――」

「意外と?」

「いいや、なんでもない」

 言葉を濁した大樹に、オレは踏み込もうとしたが……。

「あーん。はっしーく~ん、お別れだね~~」

「たいき~~」

 号泣する吹雪と、ゾンビみたいに動く忍が割って入ってきた。

 しこたま、大樹との別れを惜しんでいる。

 ――で、肝心の最後のレース結果はというと、1着はオレ。そして大樹だった。

 そう。最終レースは、オレと大樹の同着だったのだ。

 さらに僅差に藤澤。ゴールした時、三頭の着差は三センチにも満たなかった。これは、ゴールに設置されたカメラで判定された結果だ。

 サクラ教官は、その写真をオレたちにも見せてくれた。

 けど、この結果はとても珍しい。

 日本中央競馬会が主催する、年間、三四五〇を超えるレースの中でも、1着の同着は数えるほどしか起こらない。ましてや競馬学校での模擬レースともなると、過去に前例はないそうだ。

 吹雪と忍が別れを告げた後、オレは大樹の前に立った。

「お別れだな、大樹」

「ああ」

 答えた大樹の顔は清々しいものだった。

「なぁ、大樹。……今日のレースでオレが1着を取れたのは全てお前のおかげだ。だから、オレの1着と合わせて、お前は最後に20ポイント取ったんだよ!」

 オレの声が掠れている。オレが泣いてどうする! 泣きたいのはきっと大樹の方だ。けれど、

「それは、光栄だな」と大樹は笑う。

「お前が……、お前が……」

 騎手になれないなんて、今でも……信じられない。信じたくない!

「そんな顔しないでくれ、蒼司。……そういえば、自分がなぜお前を尊敬しているか言ってなかったな」

 オレは、はっと顔を上げた。

 大樹がオレのどこを? 騎乗センスも、騎乗技術も、情熱だって大樹の方が上だ。

 オレが大樹を上回るものなんて、――きっとない。

「自分は、自分の想いを人に話すのが苦手だ。できるなら、秘めたる想いは秘めたままでいたいと考える方だ」

 そうだ。コイツはプライベートを話したがらない。初めは孤独が好きなヤツなんだと思ってた。けど、ちょっと違ったんだろう。大樹と一緒にいた時間、オレはすっげー楽しかった。

「だけど、お前は違う。『ダービージョッキーになる』。臆面もなくそう言い切れるお前が、凄いと思った。そう言い続けられるお前が凄いと思った。そんなお前を……自分は尊敬している」

「そんなのは……」

 そんなのは口だけだ。オレのは口だけだ。努力が伴っていない。実力が伴っていない。オレがバカなだけだ。

「夢は抱くからこそ叶う。言い続ければ、願い続ければ、進み続ければ、いつかは叶う。辿り着ける!」

「大樹」

「自分はいつも言い聞かせていた。出来ないことなんて無い! 諦めない限り、道は開けると。……だからお前は諦めるな!」

「大樹、オレは……」

 拳を握りしめた。つよく、強く。

 今日のレースが終わった後、大樹はこう言った。「東京競馬場。ここでダービーが行われるんだな。自分も、騎手になってここで競馬をしたかった――――――」

 その言葉に、どれだけの悔しさが込められていただろう。どれだけの無念が込められていただろう。

 それを思うと、オレは……。

「蒼司、自分はお前に出会えて本当によかったと思う」

「オレも、……オレもお前に出会えてよかった!」

 コクっ、と頷いた大樹はポケットに手を突っ込み、オレの目の前に差し出した。

「貰って欲しい」

 ジャラリ。オレの掌に落とされたのは、大樹のカレッジリングだった。

「いや、これはお前の……」

「自分も連れて行ってくれ。騎手の世界に! そしていつか自慢させてほしい。自分の同期がダービージョッキーだって!」

「あ、ああ! ……約束だ! きっとオレは約束を果たしてみせる!」

 オレの目から涙がどんどん流れてゆくのが分かったけど、構ってなんていられなかった。

「なんてったってオレは、いつかダービージョッキーになる男だからな!」

 そう言ったオレに大樹は握手を求めてきた。オレは迷うことなくその手を取った。

 今のオレはまだまだだけど。未熟で、未完成で、半人前だけど、

「いつかダービージョッキーになって、お前に自慢させてやる!」

 ガシッ。交わした握手には強い力が込められていた。そこには、きっと想いが込められている。

 騎手という道。大樹のヤツが絶たれた道。それをオレが引き継いでゆく。この握手には、そういう意味が込められている。

「約束だ!」

 オレの言葉に大樹は微笑んだ。

「負けるな!」

 オレたちは大樹が去ってゆくのを見送った。

 学校の門の向こう側にその姿が消えるまで。そして、大樹の姿が消えてからもオレは立ち尽くしていた。

「アオ君。泣いちゃダメだよ」

「な、泣いてねーよ! オレはぜってー、泣いてねぇ!」

 玄関前でオレは絶叫した。

 悔しさと、覚悟。

「オレはぜってぇー、ダービージョッキーになってやるぜ!」

 叫んだ空には、いつの間にか冬の星座が輝いていた。

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