第3レース 第3コーナー 特訓
次の模擬レースに向けてオレの特訓が始まった。
隣には、ブレーンとして端口大樹がいる。正直、これ以上ない相棒だ。
次の模擬レースで真剣勝負をする!
その約束を交わした日以降、オレは夕食後に自主トレをこなし、大樹の部屋に入り浸るようになった。
もちろん、ムチが使えない状態でどうするか。を考えるためである。
だが果たして、ムチが振るえない状態でどう戦うか? どう勝つか?
それはやっぱり難しい問題で、簡単に答えは出なかった。
ムチを振るうという行為は、馬にゴーサインを出すという意味を持つ。勝負所で、ここから本気で走るんだ! という合図を馬に知らせてやるのが、ムチを振るという行為なのだ。
もちろん頭がいい馬の中には、ゴーサインがいらない馬もいるという。勝負所を自ら嗅ぎ分け、自分自身でラストスパートをかける馬がいるのだ。けど、それはほんの一握りの馬に過ぎない。
オレがレースで乗るのは、レッドドレイクだ。
現役時代は気性が荒く、騎乗が難しかったとされる馬だ。
「やっぱり、逃げか」
オレと大樹は床に座り込み、作戦会議中だ。オレたちの前には画用紙に書いたトラックに、五個の消しゴムが並んでいる。つまり、コースと五頭の馬である。
オレは一つの消しゴムを自分と定め、スタート位置から離してみせた。
「だが、そうなると初っ端から藤澤さんが立ち塞がることになるぞ」
大樹がもう一つの消しゴムを、オレの消しゴムに並ばせた。
そうなのだ、同期五人の中で最もスタートセンスがいいのが藤澤だ。正直、ずば抜けている。一番初めの先輩たちが混じったレースの後も、彼女は先輩たちから褒められていたほどだ。
そして、今度行われる模擬レースは、東京の芝1200とダート1200メートルの2レース。どちらも短距離のレースで、良いスタートを切った方が有利だ。
「出ムチも振るえない以上、こっちが圧倒的に不利だよなー。やりあえば、体力勝負になる前にこっちが脱落しちまうし」
騎乗スキルは圧倒的に藤澤が上だと分かっている。先頭を奪い合うにしても、その後のやり取りを考えるとリスクが高すぎる。
「なら先行はどうだろう、蒼司? 先行なら最後もムチを使わず、馬を押してゆけばいい」
「ああ、理想はやっぱりそれだよなー。二番手か三番手をとるしかないかぁ」
今のところ、オレたちの会話は日々あまり進展していない。
今日の昼間は大樹の提案で、どこまでムチが振るえないかを確認してみた。
これが思った以上に重傷だった。いや、もはや重体と言うべきか。
例えばムチの振るい方に、見せ鞭というものがある。いかにも馬にムチを振りますよー、と馬の視界の隅でムチをチラつかせて、ムチによるゴーサインを出したかのように振る舞うのがそれだ。だが、オレはこれすら出来なかった。一縷の望みだったのだが、見せムチすらできないのは致命的だ。
つきつけられた現実に、オレは参ってしまいそうだ。いや、一人なら間違いなく落ち込んでいただろう。でも、大樹がいてくれるおかげでなんとか精神的に持ちこたえている。
なにせ、コイツはオレ以上の悩みを抱えているのだ。だからコイツと真剣勝負するためにも、いや、コイツには絶対負けられない! というのがオレのモチベーションだ。
「ところで、大樹は次のレースどうするつもりなんだ?」
「あ、ああ。そうだな。ダートはともかく、芝は最後方から行こうと思っている」
「へっー、珍しい。いつもは先行か中団からという戦術が大樹は多いだろ?」
「うむ。自分は自分で藤澤さんにプレッシャーを掛けようと思っているんだ。それには、中団より最後方がいい。自分が最後方にいれば藤澤さんもそれを計算して騎乗するはずだ。楽には逃がさない」
大樹の目を見ていたオレはゾクリとした。
コイツ、オレの相談に乗っているくせに、ちゃっかり自分が勝つイメージを想像してやがる!
いや、オレの相談に乗りつつ、オレが勝つ道筋を付けた上で、真剣に勝負して、尚且つ自分が勝つつもりでいるんだ。
やっぱり、お前はとんでもねぇヤツだよ。
心の中でオレは苦笑するしかなかった。でも、そんなヤツだから……。そんな大樹が相手だからこそ……、オレは絶対に負けられない! 負けたくない!
次の模擬レースまであと三週間足らず。なんとしても糸口を見つけてやる!
「なぁ、ところで大樹。喉乾かないか?」
「うん、ああそうだな。何か買いに行こうか」
オレたちは小銭を持って部屋を出た。
ガチャコン。ロビーの自販機が二つのスポーツドリンクを吐き出す。
「ホントに随分と仲が良くなったわね、アナタたち――。意外だわ」
オレたちがペットボトルに口を付けていると、お風呂用具一式を手にした藤澤と吹雪がやってきた。二人ともにしっとりと濡れた髪が目を引く。いつもと違う雰囲気だ。
ジャージにTシャツ姿という二人は、よく見ればブラが透けているのだ。
――色っぽい。というか、もはやエロい! エロすぎるぞ! とくに吹雪!
「ちょ、ちょっと、どこ見てるのよ、変態!」
「いや、べつに何も見てねーし」
オレは思いっきりとぼけてみせた。
「もう、カオルン。アオ君と仲良くしないと、めっ! だよ」
「それはわかっているけど……。あれ? 端口君、水じゃないんだ。珍しくない?」
吹雪に責められていた藤澤は目ざとくというか、逃れるためか、大樹が手にしているペットボトルに目を止めた。
いつもはミネラルウォーター一択の大樹がスポーツドリンクを手にしていたからだが……。
ちぃ、コイツはいらんところに!
「じ、実は、オレは大樹とタッグを組んで、いかにお前に勝とうか相談しているんだよ」
「えっ、何よそれ!」
藤澤の気がこっちに向いた。よし!
「なんだ、お前はおバカさんか? 次の模擬レースでお前を負かそうっていうんだ」
「なっ!」
「お前にはぜってー負けねぇからな。次はオレが1着取ってやるから覚悟しとけ!」
「ふん、落馬して頭でも打ったのかしら? それとも一人じゃ敵わないって、頭打ってやっと気付いた?」
「あー、もー、ダメ、ダメ。ケンカはダメだよー」
ヒートアップしようとするオレと藤澤を宥めようと、吹雪が間に割って入った。
「ふん、池柄のヤツが淋しがっていたわよ。少しは構ってやったら?」
「余計なお世話だ!」
肩を怒らせた藤澤は、吹雪に背中を押されて自室へと戻ってゆく。吹雪もニッコリと顔をこっちに向け、階段へと姿を消した。
「悪いな、蒼司」
「うん? ああ、気にするなよ。なぁに、藤澤との仲の悪さは今に始まったことじゃないだろ?」
オレは大樹の肩に手を掛けて歩き出した。
そしてオレはもう一度大樹の部屋でミーティングをした後、自室へと帰った。
すると、
「アオ~~、ボ、ボクもかまってくれよ~」と、ゾンビ状態の忍が待っていた。
「いや、もう寝る。クタクタだからな」
「そんなこと言うなよー」
「悪いな、男と男の約束を守るためなんだ」
オレは握り込んだ拳を、グボンッと忍の腹に軽くブチ込む。もちろん冗談の一撃だったのだが、忍は大げさに腹を押さえて、自分のベッドへと倒れ込んだ。
「おいおい、そんなに本気でやってないだろ」
「いやー、お腹が減ってさ……。もうダメ。おやすみ、アオ」
忍のヤツは、毛布を頭からかぶって動かなくなった。
「おやすみ、忍」
オレは梯子をのぼって、自分のベッドへとダイブした。
「……くそぉ、時間がねぇ」
藤澤には啖呵を切ってみせたが、ハンデを抱えたオレがアイツに勝てる可能性は低い。
それでもオレは拳を握りしめ、頭の中でムチを振るイメージを何度も繰り返す。
二年以上、真剣に取り組んでこなかった時間がオレにはある。それを今まで頑張ってきた奴らと同じレベルまで持っていこうなんて都合よすぎるのは分かってる!
それでも、それでも、なんとしても!
「もう、時間がないんだ!」
うつ伏せになったまま壁を睨みつけ、オレは右手を振るい続けた。眠落ちする寸前まで、それを繰り返した。




