第3レース 第1コーナー 焦燥
十一月第二週の木曜日。第二回目模擬レースの当日。
オレは朝から集中していた。
今日の模擬レースで一着を取る! いや、残りの模擬レース全てで一着を取る!
実家から電話があったあの日から、オレは変わった。……心を入れ替えた。
もう手は抜かない! 一日でもはやく一流の騎手になってオレが実家をなんとかする!
そう決めてから練習も自主トレも、嫌いな座学だって全力で頑張った。
あまりの変わりように、サクラ教官がオレの体調を気遣ったほどだ。
模擬レース開始五分前。
ヘルメットにベストという騎乗スタイルに身をつつんだオレは、サマーデイズに跨ってスタートゲートの前までやってきた。
残念ながら今日の天気は曇りだ。
すこし肌寒いが、そのせいで騎乗するデイズの体温が心地いい。
デイズはとても暖かくて、馬具や衣服を通してもその熱が感じられる。
「悪くない」
体調のよさそうなデイズの首筋を撫でていると、デイズはいなないて応えた。
ほんと、かわいいヤツだなぁ。
「アオ、調子いいみたいだね」
忍が騎乗馬を寄せてきて言った。
「ああ、オレもデイズも絶好調だ! 今日の一着はオレがもらうぜ!」
「いやー、最近のアオの調子の良さを見ていると、なんだか本当にやっちゃいそうだよねー」
「ふん! たしかに調子いいみたいだけど、技術はまだまだじゃない。勝利宣言なんかしていい気になっていると足元救われるわよ!」
すぐ近くにいた藤澤がいかにもという感じでつっかかってきた。
「んなっ!」
たしかに、藤澤に比べればオレの技術は劣る。
「その分は気合と根性でカバーするさ!」
「気合と根性ですって? 前時代的ね。そんなので勝てれば苦労はないわ!」
「それでも全力で勝つ! 絶対勝つ! それだけだ」
藤澤とオレの間で火花が散った。
一触即発。
だが、火花が爆発に代わる前に、
「もう! ケンカはダメだよ、ふたりとも!」と、騎乗馬ごと割って入ってきた吹雪のおかげでオレと藤澤は距離を取った。
「時間だ。そろそろ行こう」
ゼッケン1番を馬に付ける大樹が真っ先にゲートに向かった。
奇数ゼッケンの馬、偶数のゼッケンの馬。最後に大外枠の馬といった順番で馬はゲートに入るルールがある。
3番のゼッケンをつけるオレは、大樹の次にゲートに向かった。
緊張で鞭を持つ右手が震えた。
武者震いだ! ってことにして、オレは左手で右手首を押さえた。それでも震えは止まらない。
今日の模擬レースは、競馬学校で行われる芝1200メートル。
一分ちょっとで決着がつくレースだ。
距離が短い分、油断すればあっという間に終わってしまう。
「せいぜいミスをしないことね!」
ゼッケン2番をつけた藤澤が、隣のゲートから挑発してきた。
「するかよ!」
思わずケンカ腰に言葉を返してしまったが、デイズのいななきでオレは前を向いた。
騎乗する人間の心に、馬は敏感に反応する。
オレが心を乱していてはデイズも集中して走れない。
集中だ。集中しろ!
二番手か三番手につけて直線勝負だ!
ざっくりとしたレースプランを頭に描き、オレはゲート内からコースを見た。
この時期になっても、最近は青々とした芝が保たれている。
ゲートに遮られてはいるが、コースのどこを通るかをオレはシミュレーションする。
ワクワクか、ドキドキか。わからないが、とにかく心拍数は間違いなく上昇中だ。
左隣に吹雪が入ってきて、ほどなく大外枠に忍が入った。
ゲートが開くのを、オレはサマーデイズと共に待つ。長いのか、短いのかよくわからない時間が流れ、ゲートは左右に開いた。
ゲートが開いたことで、一面の芝の青が目に飛び込んでくる。
オレは、いつもどおりデイズの首を押してゲートを出た。
瞬間、視界が沈んだ。
デイズが脚を滑らせたのだ。デイズの四肢が開き、カクンっ! という感覚とともに体重が浮遊感を覚えた。
「くっ!」
手綱を引き絞って、なんとか体勢を維持する。
幸いデイズも崩れ落ちることなく、オレたちがロスした時間は一秒あるかないか。
それでも同期たちが騎乗する馬たちは、二、三十メートル先にいってしまった。
「くそっ! 巻き返すぞ! 藤澤に啖呵きった手前、「出遅れました」で簡単に諦めきれるかっ!」
オレはサマーデイズの首を押して、スピードを上げた。
「スローペースなのか?」
思ったよりはやく、オレたちはすぐ前を行く忍の馬に追いついた。
隊列は、先頭が吹雪、大樹、藤澤、忍、オレの順だ。
「……吹雪のヤツ。今日はスローペースに持ち込んで逃げ切るつもりだな?」
吹雪の騎乗スタイルは、騎乗する馬に任せるというものだ。
それは馬の長所を活かし、馬に無理をさせない利点を持つが、騎手の意思と強引さを反映しないスタイルでもある。
吹雪の騎乗するマロンバロンは、ここのところ体重多寡だ……。このペースでも、最後はバテる可能性が高い! 出鼻をしくじったオレにもチャンスはあるはずだ!
オレは自分勝手な推測を立てて、最後方を進んだ。
学校周りに生える茶色に衣替えした木々たちが、どんどんと流れてゆく。
スローペースであっても、競走馬は200メートルを12秒くらいで走り抜ける。
200メートルおきに立てられた目印――ハロン棒が三つ目を数えた。
つまり、レースの半分を消化したってことだ。
オレはそこからデイズのスピードを徐々に上げ始めた。
吹雪の作り出したスローペースのおかげで、馬群は一団。団子状態だ。
だが、吹雪、大樹、藤澤、忍、オレの順番も、最終コーナーを前に変化が見え始めた。
大きく動いたのは、オレの前を走っていた忍だ。馬を外に持ち出して、藤澤と大樹をまくってゆく。先頭を行く吹雪に並びかからんばかりの勢いだ。
「忍のヤツ、ペースが遅いとみて早めに動いたな……。だけど、早すぎるだろ!」
ハイペースの時は中盤より後ろにいた方が有利だが、スローペースの時は前を行く馬が有利とされる。ペースだけ見るなら、忍の判断は正しい。それでも、タイミングが早いとオレは思った。
短距離戦は一瞬の判断が勝敗を分ける。
忍に追い抜かれた、大樹と藤澤も忍に追随した。
レースは一気に加速した。
徐々に速度を上げていたオレとデイズも、その流れに置いていかれることなく前を追いかけている。
「悪くない流れだ! 仕掛けが早くなった分、他の馬のスタミナもゴール前で尽きるはず。そこをごぼう抜きにしてやるぜ!」
オレが心を決めた時には、最終コーナーも半ばに差しかかっていた。
いけるっ! 出遅れ以外は、全部オレに運が向いてきてる!
オレは、すぐ前を行く藤澤の馬を捉えようと動いた。
わずかにインコースが開いたからだ。
藤澤の馬と内ラチの間に出来た、馬一頭分入るか入らないかというスペース。
外を回していたらスタートでミスした分、勝てない! ロスなくラチ沿いを行く!
「なら、ここが勝負だろっ!」
オレはデイズにゴーサインの合図を出そうと鞭を振るった。
デイズは賢い馬だ。オレの意図を汲んでくれるはず!
スピードを上げた藤澤の馬もちょっとずつ外に膨らんでゆく。
スペースはもっと大きくなるはずだ! 十分、入れる!
自分の判断に自信をもったオレは、狭いスペースにデイズを導いた。
だが次の瞬間、オレの希望的観測は打ち砕かれた。
藤澤の馬が内に寄ってきたのだ。外にいた大樹の馬に藤澤の馬が接触したのが原因だった。
ちょうどムチを振ったばかりのオレに対応する術は無く、もともと狭かったインの空間があっという間に狭くなる。
やばいっ!
思った瞬間には遅かった。
藤澤の騎乗馬とデイズの馬体が激しくぶつかる。
直後、デイズの前脚が前方に崩れた。オレはデイズの頭を超えるようにして地面に放り出された。
地面、空、地面、空、地面、空、地面、空………………。と、視界が目まぐるしく変わる。
何度も体が地面に叩きつけられて、やっと止まった。
ぼやけた視界に、今にも雨が降り出しそうな曇天が見える。
「痛ってぇ……」
オレはやっと、自分の身体が痛みを訴えていることに気が付いた。
身体のどこかが痛い。……どこがではなく、全身が痛かった。けれどその痛みはジーンとしていて、感覚もどこか希薄だ。
「お、起きあがれねぇ……」
正直な感想をもらしたオレの視界に、ヌッとデイズの顔が映った。
地面に横たわっているオレの顔に、デイズが鼻っ面を当ててきたのだ。ご飯をねだるというふうではなく、心配そうに。デイズの潤んだ大きな瞳がオレを映していた。
「なんだ、お前、顔が泥まみれじゃないか……」
その泥を落としてやろうと思うが――、腕が上がらない。
それを察したというわけではないだろうが、デイズはペロペロとオレの頬を舐めてきた。
「心配してくれているのか、デイズ? ……お前が無事でよかった…………」
デイズも転んだはずだけど、これだけちょっかいを出してくるなら安心だろう。
「音梨!」
遠くからサクラ教官の声が聞こえた。緊迫感を漂わせた声だ。
「アオ!」「アオ君!」「バカ音梨!」「蒼司!」同期のみんなの声も聞こえる。
「だよなぁ。レース中に落馬だもんなぁ……」
「音梨!」
駆け寄ってきたサクラ教官の声が、耳元で聞こえた気がした。
だが、オレはそれ以上目を開けていられなくて、サクラちゃんの顔を見ることなく気を失った。
デイズの心配そうな顔だけを脳裏に残して………………。




