第2レース ゴール前 報せ
その日の夕食時。
「音梨! いるかっ」
サクラ教官の声が食堂に木霊したのは、オレがまさにメインのエビフライを口に放り込もうとしていた時だった。
「はい! 音梨蒼司、ここにいます!」
オレは茶碗と箸を持ったまま、勢いよく尻を浮かせて立ち上がる。あまりの勢いに、ギッッ……と、椅子の脚が床に擦れてイヤな音を上げた。
「うむ、音梨。先程、親父さんから連絡があった。食事が済み次第電話をしておけ」
「は、はぁ……」
オレの生返事にサクラ教官が思いっきり目尻を吊り上げたので、姿勢を正し、「いえ、分かりました、東雲教官!」と言い直す。
すると、サクラ教官は納得したように食堂から姿を消した。
「バカねー。生返事なんかして。これ以上教官の心証を悪くしてどうするのよ、アンタは」
テーブルの向かいに座っている藤澤が、右目を眇めて口撃してきた。
「いいだろ。オレの勝手だ」
「ふん。そんな言葉使いしていたんじゃ、騎手になっても調教師の先生たちに可愛がられないわよ」
「うっせ! 卒業したら、そん時はきちんとやるさ!」
茶碗と箸を両手に持ったまま、オレは藤澤に舌を出した。
「どうかしら。普段できない事が急にできるようになるわけないじゃない」
「ぐっ! どうやらお前は、オレをやり込めないと気が済まないらしいな!」
「まぁまぁ二人ともー、ごはんの時はニコニコ楽しく食べようねー」
こっちを見上げてくる吹雪は、ケンカはダメだよ。と目で訴えてくる。
「はい、はい。ケンカはしないわよ、吹雪。バカの相手は疲れるし――」
「な、誰がバカだよ!」
「ふん、言う必要があるのかしら?」
「うぐっ!」
オレは我慢も限界とばかりに、テーブルに箸ごと手を叩きつけた。
すると、オレのジャージの裾を吹雪が引っ張った。
「でも何だろねー、アオ君。お家から電話って」
「あ、ああ。……たしかに親父から電話なんて、ここに入ってから初めてだ。こっちからすることや、かぁちゃんから連絡があったことはあるけど……。親父がいったいなんの用だろう?」
内容が気になったオレは後退していた椅子を引き戻して座り、エビフライを白飯に乗せて一気にかき込みはじめた。
「アンタ、やっぱりバカね。ゆっくり食べないと太るわよ、この単細胞」
いらぬお世話を藤澤が口にした。確かに、彼女は箸の先でちんまりと、ご飯やおかずをつまんで口に運んでいる。
「ははん。ざーんねん。オレはいくら食ってもテメェみてぇなポッコリお腹にならねぇから!」
「ちょっ! 誰がポッコリよ!」
「図星だろ?」
「ち、違うわよ! ちゃんと割れてるんだから! 何なら見せてあげるわよ、今ここで!」
「はいはい、カオルンも挑発に乗らないで。……もぅ。ごはんの時くらい静かに食べようね」
「まったくだよ」
エビフライを箸でつまんでいた忍が、横で大きく頷いていた。
その後。早々に夕飯を終えたオレは、ロビーにある共有電話の前で立ち尽くしていた。
競馬学校ではスマホの所持は認められていない。外部と連絡を取るには、この電話を使うしかないのだ。
それにしても、親父から電話か――。内容は気になるけど、親父かぁ。と、受話器に伸ばした手を、オレはすでに三度も引っ込めていた。
「何やってるのよ、チキン。早く電話しなさいよ」
途中、藤澤カオルのヤジが飛んできた。
「うるせぇ、どっか行けペチャパイ!」
「何ですってぇ! 見たことないクセに!」
確かに見たことはない。けどこの前触っただろ。と言ったら、パンチか、最悪ヤツの近くにある観葉植物が飛んでくる気がしたのでオレは思いとどまった。
そう。人は学習する生き物なのである。
「はいはい。行くよ~、カオルン」
吹雪がいきり立つ藤澤の背中を押し、通路の向こうに消えていった。
「いやー、けど……」
確かに藤澤の言うとおり、今のオレはニワトリさん状態だ(つまり、チキン状態なのだが)。
まぁ、なんだ。正直オレは親父が苦手だ。
小さい頃から、何度も親父とは戦争してきた。頑固で、融通が利かず、身勝手で、気分屋で、それから、それから……頑固! は、もう出たか……。ま、とにかく。オレは親父が嫌いだ。
騎手になる時も、さんざんやり合った。
中二の冬。
競馬学校から取り寄せた入学案内のパンフを持って、オレは台所で頭を下げていた。
「親父! オレ、騎手になりたいんだ!」
すると、親父は一言も発しないままオレの首根っこを掴まえて玄関まで引きずってゆくと、有無を言わさず極寒の屋外へと放り出した。外は五メートル先が見えないほど豪快に吹雪いており、オレは足跡のない雪の上に人型を作る羽目になったのを覚えている。
「バカめ! 現実は厳しいんだ! 身の程を知れ、身の程を!」
「いや、それ外に出した後に言うか!? 普通、出す前に言えよ! クソ親父!」
オレが雪の中で立ち上がろうともがいていると、
ガシャン! と玄関が閉められ、さらにガチャガチャと嫌な音がした。
「マ、マジか! 親父の野郎、鍵掛けやがった!」
ガシャ、ガシャ、ガシャ! と、玄関をこじ開けようとしていると、扉を開けてくれたのはかあちゃんだった。
それからも、パンフを持って行くたびに親父は馬の調教を始めたり、厩舎の掃除を始めたり、買い出しに行ったりして話を聞いてくれなかった。
かぁちゃんの計らいで、やっと話を聞いてくれたのは、雪に沈められた日から数えて一か月後のことだった。
「ふふん。テメェが騎手なんてちゃんちゃら可笑しいぜ!」
焼酎の一升瓶を抱える親父は皮肉たっぷり、口の端を上げてぐい飲みを傾けた。
「だから、オレが騎手になって傾いたうちの経営を立て直してやるって言ってんだよ!」
「っん、だとぉ! うちの経営がいつ傾いたってんだ!」
「今だよ、今! たった今だって現在進行形だろうが!」
日本の景気が少しは良くなったとはいえ、それはデッカイ企業を中心として一部だけだ。うちみたいな小さな牧場は、今も経営が順調とは言えない。長年の常連さん相手に細々と若駒を売ってゆくしかない。毎年ギリギリの綱渡り経営を続けているのが現状だ。毎年四月が近づくと、消費税に頭を悩ませるかぁちゃんの姿は嫌というほど見ている。なんで会社の消費税は、四月に一括払いなんだろう? と、よく思ったものだ。
「だから! 騎手になってオレが何とかしてやるって言ってんだ!」
「くそガキが偉そうに! 寝言は寝てから言いやがれ!」
「まぁまぁ、おとうちゃん。……蒼司、おまえは私たちのために騎手になるのかい?」
かぁちゃんが割って入ってきた。コタツに入ってみかんの皮をむき始める。
「そ、それは……」
「お前が私たちの為を想ってくれることは嬉しいよ。でもねー、いざという時、そういう想いだけじゃ、人間は挫けちゃう時があるのよ。だから、しっかりとした、お前が望む、お前の夢はないのかい?」
「オ、オレは……、ダービージョッキーになりたい。オレはダビージョッキーになりたいんだ!」
この言葉は思いつきだったかもしれない。いや、思いつきだった。まるでそれを見透かしたかのように、
「ふん。何がダービージョッキーだ! ちゃんちゃら可笑しいわー!」
一升瓶ミサイルが飛んできた。
「はい。おとうちゃんも一升瓶投げない!」
飛んでいた一升瓶を、かぁちゃんは見事に空中でキャッチしてみせた。
「ほら、ふたりとも。みかんでも食べて頭を冷やしなさい。冷静に話をするわよ」
かぁちゃんが、オレと親父の前に半分に割ったみかんを差しだした。
まったく、かぁちゃんには頭があがらない。オレも、親父も。つまり、音梨家はかぁちゃんを中心に回っているのだ。なんだかんだ言って。
と、まぁ。受話器片手に昔の思い出に浸っていたわけだが……。オレは意を決し、自宅の電話番号を指でなぞっていった。
母ちゃんが出てくれますように!
コールが三回。その後、「はい、音梨」と野太い声が出た。
「親父……」
『蒼司か』
変な沈黙が流れた。
いつもは頭ごなしに言葉を投げつけてくる親父の沈黙は不気味だ。だが、意外な言葉を以て、親父は沈黙を破った。
『すまん、蒼司!』
「えっ、な、なにが……!?」
聞き返そうとする間も与えず、『後は、かぁちゃんから聞いてくれ!』と親父は電話を替わった。
「お、おい、なんだよ、親父!」
『はい、はい。そんな大きい声ださんでもいいべさ、蒼司』
「か、かぁちゃん」
『久しぶりね、蒼司。元気にやっとるかい?』
「あ、うん。なんとか……。いや、それよりなんだよ。親父、かぁちゃんから聞けって……」
いや、それより親父がオレに「すまん」って。生まれて初めて聞いた!
明日、地球は滅亡するんじゃないかと思うぐらい、オレは今、びっくりしている。
『実はね。猪崎さんが亡くなってねー。ほら、猪崎さん。馬主の」
「ああ。猪崎のおじさん」
猪崎さんの顔が浮かぶ。好々爺。まさにそんな言葉がぴったりな風貌を持つ、ウチの牧場のお得意さん。その猪崎さんが死んだ。確かにオレも小さな頃から可愛がってもらったけど……。でも、わざわざ電話をかけてくるほどの内容だろうか? そんで、どうしてそれが「すまん」につながるのか。オレの頭の中は「?」がいくつも並んだ。
『でね、猪崎さん。ウチの馬を今年、二頭買ってくれてたんだけど……。それが、キャンセルになってね』
ここまで聞いてオレはやっと理解した。
『そう、倒産したのよ、ウチ』
受話器から予想通りの言葉が聞こえた。
「オ、オレ、今から家帰る!」
思わず出た言葉だった。居ても立っても居られない。そんな気持ちだ。
『阿呆っ!』
耳元で特大の爆弾が爆発した。
『なして電話してると思ってるかい。アンタがバカみたいに帰ってこんようにするために電話しとるっしょ!』
大爆発は一瞬で、いつも通りのかぁちゃんの声が耳に届く。
「で、でも!」
『アンタが帰ってきて何ができるの? アンタは今、競馬学校にいて、騎手になるためにけっぱ(がんば)ってるっしょ?』
「……」
かぁちゃんの言葉に、オレの拳は握りしめられていた。
『ダービージョッキーになるためでしょが』
「ぐっ……」
言葉が出てこなかった。
ダービージョッキーになる。それはオレが口癖にしている言葉だ。だけど、
……オ、オレ、偉そうなこと言ってて、その実、そんだけ頑張ってねー。
練習も、本番も……。オレは涙を流した藤澤よりも確実に頑張ってねー!!
そんなふうに思ったら、何故だか視界が滲んだ。
「世の中そんなに甘いわけないじゃない!」
夕方、藤澤が口にした言葉が脳裏をよぎる。
胸が痛い。――苦しい。オレはジャージの上から心臓を押さえた。
なんだオレは! オレは今日までの三年間、何をやってきた!
ダービージョッキーになりたいとか、ウチの傾いた経営を立て直すとか言っときながら、オレは………………。
「うわぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
オレは心の中で絶叫した。
『いいかい、蒼司。アンタはしっかり騎手になることを目指せばいいの。こっちはこっちで何とかするから』
「か、かぁちゃん……」
『他の誰がなんて言おうが。かぁちゃんとおとうちゃんは蒼司を信じてるよ』
「う、うん」
『こっちはこっちでけっぱ(頑張)るから、蒼司もけっぱ(頑張)れ。したっけ、はやく騎手になるべさ』
「――わかった」
かぁちゃんは「したっけね」と通話を切った。
オレは受話器を置き、暫くそのまま立ち尽くしていた。
止めどなく、頬を涙が伝っていた。




