パドック 満たされぬ想い(くうふく)
競馬学校の生徒たちの物語です。
この物語はフィクションです。実在の人物及び団体、事件とは一切関係ありません。
現在、競馬学校を題材としたアニメが放映中ですが、本作品の主人公と某アニメの主人公の芸名が、おなじなのは偶然です。
今夜は月のない闇夜。
だからこそチャンスだ!
時刻はもうすぐ日付が変わる頃のはず。
ガサッ、ガサガサ……、ガサリッ。
夜の闇のさらに暗がり。植え込みの中にオレ――音梨蒼司は身を潜めている。
空には雲が垂れこめ、ジワっと梅雨特有の湿度の高さが汗を生む。
いや、それだけじゃない。オレは重苦しい空気を感じ、手に汗を握っていた。隣にいる二人――池柄忍と邦枝吹雪もきっと同じはずだ。
「前方、よしっ!」
オレは声を潜め、他の二人に合図を送る。
「蒼、右左も問題ない」
「後ろも大丈夫だよ~、アオ君」
二人とも控えめなトーンで言葉を返してきた。
「では、これよりオレたちは命懸けのミッションに挑む。覚悟はいいな二人とも!」
「フッ。誰に言っているんだい!」
鼻の頭を親指ではじき、忍は小さく笑みを作った。
「うん。吹雪も後悔しないよ、アオ君」
吹雪は、胸の前に両手を構えてやる気をみせる。小柄の割に大きな胸が強調され、思わず目が釘付けに、って……。いや、今はそんな場合じゃないっ!
「いい覚悟だ、忍、吹雪。必ず……、必ず生きて帰ってこよう!」
戦場に向かう兵士さながらの面持ちで、オレたちは頷き合う。
何が何でも! という覚悟が二人の瞳にも宿っている。もちろんオレにも。
そうだ。オレたちはこれから戦いに行く! 決死の覚悟で! 命を懸けて!
「よし。……ミッション、スタート!」
言うなりオレは駆け出した。ダッ! と勢いよく植え込みの影から身を躍らせる。
わずかな距離を走りフェンスに跳びついたオレたちは、ガシャガシャと緑色の障害物を乗り越えてゆく。頂上から反対側へ折り返し、ある程度で地面に飛び降りる。そこからまた走り出し、じょじょにスピードを上げて闇の中を疾走する。
ザッ、ザザザッー! 生い茂る木々を突っ切って、斜面を滑るように駆け下りる。そのまま勢いを殺さずに舗装された道路に出た。
「ここを、左ぃ!」
電柱に取付けられた街灯が、ジャージ姿のオレたちの姿をあらわにする。それに構わず、オレは体力に任せて全力疾走を続けて、続けて、続けまくる。
「ハァハァ……。も、目標を、肉眼で確認だよー」
タプン、タプンッ……。と、ジャージの上からでも巨乳と分かる大きな胸を揺らしながら、吹雪が前方を指差した。
「うっしっ! もう一息だ!」
続く忍が気合を入れる。
すでにオレの足は全力疾走に音を上げ始めていた。たぶん忍たちも同じはずだ。
「止まるな二人とも!」
若干スピードを落とし、オレは背後に目を配る。
よし、追跡者はいない!
前方に視線を戻したオレの瞳には、今や【7】の数字がトレードマークのコンビニエンスストアがしっかりと映り込んでいる。煌々と輝き、夜の闇をはらう眩い光。
「ああっ! どうしてアナタはそんなに神々しいのか、コンビニよ!」
思わず涙が出て、オレの心が熱くなる。
「や、やっべー。腹の虫が号泣してるぜ! もう腹ペっこぺこだぜー!」
「吹雪は絶対メロンパン二個食べるよー、二個だよ、ニコニコだよー」
「ボクはポテチにコーラ! もう、これ以上我慢できない!」
「あはははっ、何を食ってもオーケーだ! あそここそ心のオアシス! オレたちの理想郷! コンビニ万歳! ビバ、コンビニ! こんちくしょーがぁぁぁ!」
オレたちは空腹に喘ぐ腹を抱え、目標の駐車場へと辿り着く。その角を曲がれば……、
「ミッションコンプリートだぜ!」
これで就寝時間前から鳴き続ける腹の虫に、やっと満足感を味わわせることが出来る! そう思った瞬間――、
バァシーンっ! と、乾いた音が鳴り響いた。
それはオレたちがよく聞きなれた、竹刀がアスファルトを叩く音だ。
「いい度胸だな。貴様ら!」
鋭い眼光を持ってオレたちの前に立ち塞がったのは、ピンクのジャージに身を包んだ小柄な女性。竹刀を肩に担いだ彼女の名は、東雲サクラ(しののめさくら)様といふ。三年前まで日本中央競馬会に籍を置き、『追い込みの八枠サクラ』と名を馳せた元女性騎手だ。現在は、競馬学校で実技を教えている。――つまり、オレたちの教官をお勤めになっていらっしゃる。
「くっ、ここまで来て!」「むっ、出たなピンクの彗星!」「わ、私のメロンパン~~」
三者三様のリアクションに、サクラ教官はこめかみに浮かべていた怒りマークをドン、ドン、ドンと量産した。そして、最近ハマっているという時代小説さながらに叫ぶ。
「音梨蒼司! 池柄忍! 邦枝吹雪! 大人しく縛につけ! 無断外出の罪で、貴様らには施設内全ての便所掃除、一週間を言い渡す!」
ビシッ、と鋭く竹刀が突き付けられた。
「ぐっ、そ、そんな! 夢の……、夢の買い食いまであと一歩だったのにィィィィィ!」
オレは、その場にガクリッと崩れ落ちて落涙した。
ここは千葉県白井市にある、日本中央競馬学校に一番近いコンビニの駐車場。
今さら言うまでもないかもしれないが、オレたちはその競馬学校の騎手課程に学ぶ生徒である。
騎手課程にあるオレたちは、基本日曜日以外の外出はご法度だ。ましてや、夜間外出など言うに及ばず。買い食いや、飲食物の持ち込みは厳禁とされている。
しかし、二十年以上もの競馬学校の歴史に於いて、脱走、買い食いはそれなりに前例がある。
いや、ない方がおかしいっ!
なんといっても成長期の空腹。しかも長時間ともなれば、これに耐えるのは拷問と言っても過言じぁない! 若者のリビドーは抑えられないのだ! とオレは切に思う。しかし、ルールはルール。罪は罪だとも知っている。
何より、目の前でサクラ教官の顔が大魔神よろしく、怒りの形相に変わってゆくのを見れば、海よりも深い後悔が心に刻まれていく。だが、それでも、それでもなのだ! 食べ物の誘惑に屈せずにはいられなかった――。
おお、ポテチ、貴方はなぜポテチなのだ! というくらいに心は食料を欲している!
「やれやれ、まったく。三年にもなって脱走とは嘆かわしいぞ、貴様ら!」
パンッ。と、サクラ教官が竹刀を掌に打ち付けた。思わずオレたちは肩を竦めてしまう。
条件反射、パブロフの犬も真っ青の反応だ。それほどにサクラちゃんとの付き合いも長い。
ちなみに。見た目コンパクト、綺麗可愛い(きれかわ)系美人のサクラちゃんだが、怒るとマジ怖い。冗談抜きで、ちょー怖い。オレは自分の親父以外に本気で恐怖を抱いたのは、後にも先にもこの人だけだ。
今でこそ竹刀を手にしているサクラ教官だが、入学当初は違っていた。
オレが競馬学校に来た初日。その可愛さ故に、同じ入学生かと思い、名札を見て気軽に「サクラちゃん」と声を掛けた。すると、返事ではなく正拳と回し蹴りが飛んできた。
それ以来、オレ(たち)がサクラ教官に「ちゃん」付けをするのは心の中でのみ行われている。
ちなみに、オレたちが入学した頃のサクラ教官はブルース・リーにハマっていたらしく、そのパンチと蹴りはまさしく殺人級だったのを、オレは身を持って知っている。
「ちぃ。まさか目標を目の前にして最大最悪の敵が現れるなんて!」
握った拳をアスファルトに叩きつけ、忍が大いに悔しがる。
確かに、サクラ教官に見つかった時点でオレたちの犯行は失敗だ。
「くっ……、だが、まだだ! ここで、ここまで来て、諦めてたまるかっ! ……そうだ、諦められるわけがない! 諦めたらそこで試合終了! って安西監督も言っているじゃあないか!」
オレは拳を握りしめて立ち上がった。
「そ、そうだよなアオ! 結局、食いもんを腹に入れちゃえばこっちの勝ちだ!」
忍も伏せていた顔を上げ、両目を光らせて膝を立てた。
「たとえいかなるペナルティが待っていようとも! ボクたちの、育ちざかりの食欲を舐めないでもらおうか! 東雲教官っ!」と、オレの横に並び立つ。
「え、えっーー。吹雪は諦めたいのにぃ~~」
忍に無理やりジャージの首根っこを掴まれ、吹雪も仕方なくといった感じで立ち上がった。
「ほほぅ、なるほど。まだ歯向かうつもりか!」
一度細めた目をクワっ! と見開いて、サクラちゃんが竹刀を正眼に構えた。
「ここまで往生際が悪いとはな。愚か者どもが!」
「へっ、アンタのシゴキに丸っと二年と三ヵ月間と三日! ……っと、日付が変わって四日かな? とにかく! 必死に耐えてきたオレたちを舐めないでもらおうか!」
ビッシっ! と人差し指をかざしたオレの横で、
「そ・う・だ・ね。アオ君の言うとおりだよ~。だからー、諦めたと見せかけてからのー、吹雪、いっきまーす!」
にこやかに両目を光らせ、真っ先に巨乳娘が駆け出した。
「おおっ! やる気が無いと味方にまで信じ込ませてからのフェイント! いいぞ、吹雪! オレですらすっかり騙されたぜ!」
オレが驚愕している間に忍が続いた。
って、オレが出遅れてどうする!
「メロンパン、メロンパーン」「コーラ、コーラ、コーラ!」「アイス、アイス、アイス!」
「くっ!」
攪乱のために一斉に散ったオレたちの動きに、サクラ教官は瞬時に視線を走らせた。そして、双眸に異様な光を宿す。紫電がサクラちゃんの瞳から迸る。
ヤバイ、この感じ! でも、今さら止まれねぇ!
「いいか! 誰か一人でいい。必ず辿り着け!」
「おう!」「たどりつくよ~、つくよ~」
決死の覚悟が、食べ物への渇望が、オレたちの瞳を一際輝かせる。
「食う、寝る、遊ぶ! 若者の三大欲求は、全てを超越する――熱い想いなのだ! ここで空腹を満たさずにいつ満たすってんだ!」
オレたち三人は、それぞれの動きを以てサクラ教官の脇を駆け抜けようと試みた。だがしかし、
闇夜に煌めく――電光一閃。いや、三連閃!
バシッ、バシィ、バシッンっ! と心地よい打撃音が夜の闇に響き、その直後。地面に倒れたオレたちの頭からは、プシューと白い煙が立ち上った。
「さあ、悪ガキども! 帰って腕立て百、腹筋百、背筋百、それらを三セットずつだ!」
「そ、そんなのしたら、絶対、死んじゃいますってサクラ教官。ぜってー、空腹で死ぬ……」
闇夜を煌々と照らす深夜のコンビニに向け、オレは未練たらたら、ワナワナと震える右手を伸ばした。瞳に口惜しさと哀愁を滲ませながら……。
「安心しろ音梨。空腹で死んだ生徒がいるなど、私は今まで聞いたことが無い。とにかく気合でこなせ! この馬鹿ガキども!」
見事、オレたちの買い食いを阻止したサクラちゃんは、竹刀を肩に担ぎこちらを睨んだ。
その眼光に震えつつ、オレたちは両目から滝のような涙を流して歩き出した。
オレたちの修行の場である、競馬学校の正門を目指して。




