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 緑と水の国、ブランデル王国。

 そこでは二十年ほど前からとあるラブストーリーが人気であった。

 それはその国の王子と一人の女性が恋に落ち、たくさんの苦難を乗り越えて結婚するという王道のシンデレラストーリーである。

 そう、シンデレラストーリー。

 ヒロインの少女は、本来なら王子と結婚できる程の身分を持っていなかった。

 しかし彼女はたくさんの人から愛され、更には聖女の資質を持っていた。

 王子の強い意向もあり、その夢のような玉の輿に国民が湧いたことでついにはゴールインしたのだ。

 そして、王と王妃となった二人は、子宝にも恵まれめでたしめでたしとなった。

 美しい少女が王子に見初められるラブストーリーは古今東西よくある話だ。

 傍から見れば国民的なラブストーリーもありがちなものである。

 そして幸せな結末も。


(物語ではね)


 かつては、彼女もそれに憧れた一人だった。

 だった。そう過去形である。そんな幻想は腐れ落ちて、骨すら残っていない。

 劇的な恋愛結婚の後、すべてがめでたしめでたしとは限らない。


(何故って? その運命の恋人たちから出た生粋のお花畑がわたくしの婚約者だからよ!)


 彼女の名はフレア・アシュトン。

 ブランデル王国でも力ある十貴族の一家である、アシュトン公爵家の娘である。

 氷のような薄っすら青くけぶる白銀の髪に、蒼穹を閉じ込めたような瞳をした美少女だ。

 滑らかで白いかんばせに浮かぶ感情は薄く、作り物めいた完璧すぎる程の美貌が、彼女を浮世離れした冷たい印象をあたえてしまう。

 家柄、美貌、教養――すべてが一流の淑女である。幼いころから、淑女たれ。そして次期王子妃――王太子妃や王妃としての研鑽を積み続けていた。

 そして学園のプロムで、その婚約者は彼女をほっぽって――ある意味ではほっぽってはいないが、別の女性をエスコートしている。

 フレアの婚約者であるはずの彼はこの国の唯一の王子である。

 

「ブレア・アルシュタート! お前とは婚約破棄だ! お前のような血も涙もない女が婚約者だったのが全ての間違いだ! 我が運命にして最愛のミニスを虐めていたのは調べがついているぞ!」


 またくだらないことが始まった。

 壇上にやけに居座っていると思うと、そこから態々指さして、声高に糾弾し始めたのだ。

 フレアは凄まじく冷めた目で王子ことエンリケを見た。そして、エンリケにしなだれかかるようにくっついているミニスも見えた。

 エンリケはプロムということもありめかし込んでいる。まるで結婚式の様な真っ白なフロックコートにトラウザーズ。黄金色のベストはパートナーに合わせた差し色だろうか。身丈があるエンリケが着ると一層に見栄えがいい。両親ともに美形であるので、彼は顔もスタイルも良かった。

 その全体的に白い衣装は青みがかった黒髪と、灰色の瞳をよく引き立てた。色彩もそうだが顔立ちや父王に似て精悍かつ端正なエンリケだが、今その目は極めて厳しく眇められている。

 ミニスと呼ばれた少女は、綺麗というより愛らしい少女だった。ふんわりと柔らかそうなブロンドを肩口で切りそろえており、髪より少し濃い山吹色の瞳をしていた。

 体は小柄で華奢だが胸はしっかりあった。エンリケの色である青い光沢のある黒いドレスを着ている。しかし、銀糸と金糸でこれでもかと刺繍を施しているので、全く地味さはない。谷間の上に大きなサファイアのネックレスが乗っているし、イヤリングやティアラまで纏ってさながら王女のような絢爛さだ。

 今はプロムであり、あのようにデコルテの開いたドレスは場にそぐわない。

 あそこまでデコルテが深いと春を売る商売婦人のようであった。胸半ばまで出ている。

 フレアがしらけた視線を向けると大袈裟にミニスは怯え、エンリケが庇った。

 エンリケが長身な事もあり、ミニスがより一層にか弱く見える。


「この卑劣な毒婦め! なんだ? 申し開きがあるなら言ってみよ」


「もしブレア・アルシュタートなる人物がわたくしだと仰っているなら、名前が違います。わたくしはフレア・アシュトンです。エンリケ・ブランデル王子殿下」


「………え?」


「ブレア様は貴方の二十五番目の恋人です。アルシュタート夫人は隣国の伯爵夫人です。五年前に起こしたエンリケ殿下の不倫が外交問題に発展し、外向きの公務が一切禁止になった原因の方です」


 運命の愛だの恋だのの末にできた王子は、きわめて馬鹿だった。

 彼は二十歳だが、フレアは十八歳。なのに、同時に卒業を迎えていると言えば、そのおつむのできが分かるというものだ。王族というアドバンテージですら、フォローできなかったのだ。

 勉強でも剣術でも切磋琢磨することを嫌い「俺も父上や母上の様に運命の恋人に出会うんだ!」と息巻いてサボりまくっていた。

 学園でも出席日数も足りなければ、試験もサボり、追試もサボる。何とか騙しに騙し、学園側がこれ以上いて欲しくないという思いも強くて卒業できたくらいだ。

 彼の奔放ぶりは昔からあったものの、十二歳を迎えて房事を覚えてからにさら悪化した。発情期の獣の方が慎みのあるような女漁りを始めた。

 なんで本人よりフレアが覚えているかと言えば、エンリケは問題を起こすくせに自分で処理ができない。

 その問題が大爆発したところで、周囲に押し付けるのだ。

 父親である国王は口では諫めるがエンリケに能力がない事を解っている。母親の王妃は兎に角エンリケに甘かった。

 結果、王子と幼い頃に婚約を結ばれたせいでこういった処理能力に慣れたフレアにぶん投げられるのだ。そして、エンリケはフレアが何とかすると、へらへらと遊び歩いて、また問題を起こすという理不尽スパイラルが出来上がっていた。

 エンリケは散々フレアに迷惑をかけているというのに、まともに名前を憶えていなかった。

 そもそも誕生日にプレゼントどころか花一つ、メッセージカード一つない。婚約者同士だからと言って設けられたお茶会は基本無断欠席、最低限の礼儀もない。公務である社交であっても、平気で他所で女性とデートしたり、更に悪ければ別の女性をエスコートして問題を起こすのだ。

 やらかせば必ずフレアを頼る。むしろ、彼からくる手紙はそれしかない。

 余りに蔑ろにするから、エンリケの側近や従者もフレアに対して居丈高だ。


「二十五番目の恋人……?」


 フレアの暴露にミニスが怪訝そうな声を出して、エンリケをちらりと見る。


「ご安心ください。既に恋人ではありません」


「なんだぁ」


 フレアの言葉にほっとしたミニスに、エンリケが首を傾げる。


「おい、そんなのいたのか? 誰だそれは?」


「殿下はお忘れのようなのでご説明いたします。ブレア・メルケア様はエンリケ殿下の寵愛を得てお子を御懐妊なさり、わたくしに婚約解消を求めました。わたくしもお子には罪もないし、エンリケ殿下の度重なる不貞と散財と問題行動に愛想などとっくに尽きに尽き果て霞すら残っておりません。愛も情もなく一人の貴族としての義務として殿下の婚約者をしておりましたので、ブレア様に喜んでお譲りしました。

 ブレア様の家は傾いておりましたが、侯爵令嬢でしたので身分の問題はクリアしていました。

 ですが、王太后殿下と王妃殿下の苛烈な婚約者教育と、エンリケ殿下の浮気で心身をやんでしまわれました。特に孕み腹では床に呼んでも興ざめだとエンリケ殿下がブレア様のご姉妹に手を出した挙句、妹君の方をお選びになったのを苦に、自ら毒杯を飲んで儚くなられました」

 

 フレアは覚えている。

 同じ年代で同じような名前で、同じ高位貴族の令嬢

 ブレアは肉感的で溌溂とした、健康的な色気のある美しい令嬢だった。

 だが、最後の葬式で見たブレアは見る影もなく窶れ、その太陽のような笑顔はなくなっていた。


「フレア! お前は相変わらず可愛げがないな! 外見だけなら見られるものを、もう少し相手を立てるということを覚えろ!」


「申し訳ございません。説明を求められたものですので」


 どうせエンリケに言い返しても話が進まないだけだ。取りあえず口だけは謝るフレア。

 ミニスはあまりに壮絶なブレアという女性の扱いと最期に、酸欠の金魚の様になっている。

 周りもエンリケの仕打ちにかなり引いているし、青褪めている。

 だが、一部は知っていたのか、エンリケに冷ややかな視線を向けている――とくにブレアの親世代、弟妹世代はここに居ておかしくない。


「それで、エンリケ殿下はわたくしとの婚約解消をお求めで?」


「ああ、そうだ! 俺はこの愛するミニスと結婚する! お前は不要だ! 顔も見たくない!」


 まだ暴言と拒絶を吐きつけるエンリケ。全く状況が分かっていない彼が、いっそ可哀想すぎて、可愛らしく見えてくる。だが、それは虫を相手に小さいからかわいいと言っているような感情だった。

 この婚約はエンリケが碌に執務もできないくせに重度の女好きですぐ問題を起こすから、能力が高く忍耐強く、なおかつ彼に期待をしないフレアだからこそ成り立っていた。

 フレアは頭の中で万歳三唱して、ピンヒールのかかとが折れるくらいジャンプをして、この会場を飛び回りたいくらいだったけれど我慢した。

 王族の婚姻は政治的思惑が絡み合う。

 政のできない暗君間違いなしのエンリケを支える程の才女であり、家柄に問題のないとなるとフレアしかいなかった。親が暗愚であり、逃げ遅れたともいう。

 エンリケの無能と悪癖が伝わる前なら、他の十貴族も喜んで妃候補を出しただろう。

 だからこそ、王家――特に現国王はフレアとの婚約を死守しようとしていた。

 しかし、たくさんの貴族の子息子女が通うこの学園でこんな大々的に婚約破棄を突きつけたのだ。もうどうにもならない。


(この場には国内だけでなく、留学している貴族や王族も少数ではあるもののいるわ。きっとこの騒動はあっという間に各国に広がるでしょう)


 フレアは淑女の仮面の下で、ほくそ笑む。

 

(冤罪? 国外追放? 上等よ。わたくしが碌に公務も執務もできない王妃や殿下に変わって、どれだけ働かされていると思っているの? 王子の婚約者じゃなかったらと、相当な引き抜きのお誘いを貰っていたのよ)


 たとえブランデル王国貴族という肩書きが無くても、大陸の多数の言語を操るマルチリンガルであり、王妃や王子の仕事を代行できる程の伝手や器量を持っている。

 フレアは交渉も得意だし、話術も巧みだ。

 人前に出る仕事に限らず、翻訳や帳簿付けだってできる。 

 下級貴族から見初められた現王妃は未だにお姫様気分の抜けていない人だ。

 本来なら幼少期から腰を据えて行うはずの教育が全く入っていない。貴族としての最低限の教育すら怪しいあたり、生来がエンリケと同じ怠け癖のある夢見がちな人間なのだろう。

 王太后は現王妃を見限っており、その息子の王子にも期待していない。

 もともと王には別の婚約者がいたのに、それを全てぶち壊して王妃の座に居座る彼女をずっと認めていないのだ。

 しかし、政は回さねばならないと、次代王妃になるだろうフレアに全て叩きこんだ。

 種馬にしか使えないだろうエンリケと、もし男児ならばと惜しまれるほど多才なフレア。どちらを教育したほうがいいかなど、火を見るよりも明らかだった。


「殿下の婚約解消の申し出、お受けいたします」


「ふん、いつになく殊勝だな? 普段もこれくらいにしおらしくあればいいものを」


 思考を巡らすフレアに気付く由もないエンリケは、口角を歪めるように笑った。品のない笑みだ。

 この王子は、公式に認められているたった一人の嫡子なのに王太子ではない。

 余りにお粗末な出来に、溺愛する父王ですら認めることができなかったのだ――しようものなら、どうしても責任が発生する。

 能力もない、功績もないエンリケをそう名乗らせるのは危険すぎた。家臣が反旗を翻し、出国する貴族が出る可能性も大いにあった。

 王妃がどんなに嘆願しても、王がそこだけは譲らなかった。

 王妃とエンリケとは違い、王はまだまともな教育が施されていた。情勢が見えていた――それでも、王妃にあれを選んだ時点で詰んでいる。


「ではエンリケ殿下。わたくしは準備があるので失礼いたします」


「ああ、とっとといけ。俺にはミニスを皆にお披露目するという大義があるからな!」


 そのミニスという女性は、かなり青褪めてエンリケとフレアを見比べている。

 先ほどの話を否定しなかったエンリケに、もの言いたげにしている。

 フレアに何かを求めるような視線を送っていたが、とびきり美しいカーテシーをとり、踵を返して知らぬふりをした。

 エンリケのことだ。

 今まで通り、何もかもフレアがいいように差配してくれると思っているだろう。

 勿論、フレアはきっちりと婚約破棄が整い、時間稼ぎに必要な仕事だけはしていくつもりだ。 


(馬鹿な人。わたくしがいつ貴方を慕っているといったかしら? 婚約者でもない人間が、いつまでも尻拭いをしてくれると思っているのね)


 エンリケの思考は分かりやすいが理解できない。どうしてああ愚鈍なのだろうか。

 興奮と当惑と好奇の視線を感じながら、フレアは凛と背筋を伸ばして堂々と会場を後にした。








 アシュトン公爵家に戻り、フレアは淡々と婚約破棄と新たな生活のための準備を進めた。

 まずは王宮の仕事の引継ぎ準備に、それに伴った従者や文官たちの引き上げだ。そして、エンリケは婚約破棄したくとも、国王は容認しないだろう。だが、エンリケが本来なら祝いの席であるのを潰して、大口を叩いたのだからそれを口実にしない手はない。

 強引に婚約破棄を白紙にする理由なんていくらでもある。フレアの後釜にまともな女性は見込めない。ここまで教育を仕込んだフレアを離しがたいだろう。

 王家は理不尽だ。そして、尊敬に値しないというのにフレアの保護者は「王家であるから」と首を縦に振る愚かな人間だった。

 だが、待ち続けて準備は整った。

 フレアを止められる存在などいない。てきぱきと指示を出す彼女に、使用人たちは慌ただしく動いていく。

 そのさなか、おもちゃのボールのように肥え太った顔の中年男性が転がり込んでくる。

 冴えないというか、だらしない生活がその顔や体躯に現れているのに、身に着けた服や装飾品はやたらぴかぴかギラギラと光っていて豪奢なのが滑稽だった。

 おでこから広く輝く禿頭と威厳を保つためと無駄にもっさりとした髭が滑稽に見える。

 怒りでその顔はどす黒く染まり、汗でてらてらと光っている。

 この男の名はジョージ。フレアの実父であり、アシュトン公爵でもある。


「フレア! どういうことだ!? 殿下と婚約破棄だと!? 何のためにお前を育てたと思っている!?」


 フレアの父ジョージはお世辞にも器量よしではなかった。短気で怒りっぽく、すぐ目先の欲に飛びつくタイプで、自尊心がやたら高い。

 本当なら、兄のケイネスがアシュトン公爵家を継ぐはずだった。

 だが、ケイネスは在学中にとある女性に恋をし、当時の婚約者を手酷く振った。

 しかし、恋仲だったはずのその女性はもっと別の高貴な男性のもとへ嫁ぎ、彼に残ったのは浮気と横恋慕したあげくに破談。これはアシュトン公爵家にとって立派な醜聞だった。激怒した当時の公爵当主――フレアにとっては祖父――後継者の資格も無くなり、全てを失ったということだ。

 消去法で当主となったジョージだったが、すべてがケイネスに劣っていた。

 無駄に着飾るのも、ケイネスへの劣等感の表れだということをフレアは知っている。

 伯父のケイネスのお下がりの立場、婚約者、たくさんの物。

 手に入れても持て余し、常に不満がくすぶっている――それがフレアの父だった。


「何とか言わんか! フレア! 公爵家に泥を塗りおって! どれだけ損をすると思っている!」


「お父様、覚えていらっしゃいますか?」


「口答えする前にあやまらんか! この損失をどうしてくれる! 我が公爵家が国母を輩出するというまたとない機会に!」


 唾が飛ぶ勢いで叱責してくるジョージだが、フレアはいたって平静だった。

 この短気で怒りっぽい性格に、母のクレアは早々にジョージに愛想をつかした。決定打はフレアをエンリケの婚約者にしたことだが、もともと不仲だったのだ。


「殿下が最初にした浮気……ああ、エスコートをさぼったり、お茶会をすっぽかしてデートしたものではなく女性を孕ませで大問題になった例の件です」


「……誰のことだ? タバサ? ブレア? ケートリン? シャンティ? すまぬが多すぎて誰だったか思い出せん」


「公娼のベス様です。陛下やわたくしが内々に処理するのを掻い潜り、外交に出ているときに起こした六年前のあれです」


「ベス? ああ、いたな。房事を覚えてからエンリケ殿下は盛りのついた獣より真っ盛り過ぎて、その手の話題が尽きな過ぎてわからんのだ……歳だな」


 ジョージの言うことも分からなくはない。

 真実の愛を探すためと女漁りに余念がなかったエンリケは、常に複数の女性と関係を持っていた。

 いくらフレアを始め、国王のヘンリーや王太后のゾエを始めとした周囲が諫めても、エンリケはやめなかった。

 その後ろで、王妃が真実の愛を推奨派で手を回していたのが非常に迷惑だった。

 

「ベス様の件で、破談になりかけたでしょう? その時にまた浮気をしたらそれなりに責任を取らせると契約をしたのを覚えてらっしゃいます?」


「……ああ、したな。全く守られておらんが」


 公娼――国に正式に認められた売春婦であるベス夫人。だがベス夫人はその中でも特に上位に位置していた。

 彼女は、貴賓などに特別な接待を行うための容色に富んだ娼婦である。

 嫡男は継嗣を残すことも義務一つなので、恥を掻かない様に房事の教養係としても求められることが有る。

 だが、房事にのめり込んだエンリケは、彼女にもやらかしたのだ。

 乗る方も乗る方だが、すぐに閨に来てくれる床上手な彼女を、当時のエンリケはとびきり気に入って熱心に口説いたのだ。

 フレアは令嬢である。貴婦人は貞淑であることが当然であり、余計な胤を身に招き入れることはふしだらで悪徳とされる。それが婚約者のエンリケであっても、正式な夫婦になるまでは拒否していた。

 国主や当主というのは、次代を残すために複数の妻を娶ることは珍しくない。

 だが、婚前の浮気や、胤をバラまくのはご法度だ、私生児は継承争いや相続争いを起こし、複雑にするからである。

 当然、エンリケの行為は問題視され、立太子が見送られる原因の一つとなった。


「あれはまだ続いております。わたくしはエンリケ殿下がまた浮気を繰り返すと踏んで、慰謝料を加算式にしたのです。浮気の回数、親密度、子の有無、自分で始末をつけたか、こちらに被害がどの程度かにより、上乗せ金額が変わります。利子もあり、殿下が支払う慰謝料はどんどん膨れ上がるようになっております。

 殿下は既に支払い終えて、終わったこととお思いですが逆です。余りに多すぎて、仕方なく定額払いにしているだけです。

 契約はアシュトン公爵家、王家だけのものではありません。絶対中立者たる神殿の立会いの下、それぞれに控えを持っています。

 わたくしは、この婚約破棄をもってこの契約の履行を求めようと思っています。

 今までの、殿下の浮気の数は三桁を超えます。清算するとなるとかなりの額が入りますわ」


「む、むむ……しかし、それでは……」


「お父様、あくまでこれは浮気の分だけです。理不尽で一方的な婚約破棄の慰謝料は別途請求いたします。

 今までの浮気の慰謝料は、最初の契約をもとに履行するにすぎません。婚約破棄が成立すれば区切りとなります。これで調べている傍から増える殿下の恋人を調べ直す必要ありませんもの」


 そう、それだけエンリケの女癖は悪いのだ。

 恐らく王家であっても、一括で支払うのは難しいだろう。

 そして、慰謝料を出し渋って支払いが遅れれば、その分利息が発生するように契約している。

 王家相手なのだから、相場の半分でとかなり負けに負けた利息を設定した。

 あとで払うと踏み倒されない様にという処置だが、その分は全て神殿に寄付金として納めている。そのキックバックがあるから、神殿もこの契約を絶対に履行する。


(神殿には王妃の愛人がいらっしゃるから、もみ消される恐れがありましたが……)


 かつてはかなり高地位に就いていたが、学生時代に王妃に入れ込んで機密を漏らしてしまったと聞く。

 当時は王妃に聖女の資質が発現した直後ということもあり、うやむやとなった。

 現在を見ればわかるように、それは資質でしかなく開花はしなかった。蕾は蕾のまま、枯れたのである。

 結局、彼女はブランデル王妃となることを選び、神殿で人生を捧げることはなかった。

 これがきっかけで、愛人は出世街道からそれた。上層部や同僚から激しい顰蹙を買い、傅かれる人間ではなく裏切り者と疎まれるようになった。

 類まれなる光属性の魔法を行使できたが、それでも補いきれない失態となった。

 王妃の為に横領まで手を染めたと聞いたし、不倫関係にあったという噂もあった。


(ケイネス伯父様と同じように、また彼も嘱望された未来を追われた)


 真っ当に道を進んでいたら、枢機卿となり、ゆくゆくは聖下と呼ばれる法皇・教皇と言っていい立場となるはずだっただろうに。

 ブランデルのシンデレラストーリーの華々しい登場人物たちの大半は、殆どと言っていい程に立場を悪くしている。

 ブランデル国民――特に平民の中では煌めくような学園恋物語でハッピーエンドだが、その後の現実を知るものは少ない。

 彼らの末路全てを知る者は、貴族の中でも一握りだろう。

 『素晴らしい物語』『めでたしめでたし』で終わらせるために、誰かが緘口令を敷いている。


(それでも、少し調べようと思えば調べられなくはない。人の不幸を好む蜜蜂はどこにだっているのだもの)


 甘い甘い夢物語より、蝕むような毒蜜を好む人間は案外多い。


(ああ、念のため神殿へ、少し心付けをしておきましょう。きっと話の通じない妃殿下やエンリケ殿下がお怒りになるから、難航するわ。彼らにはとても労力を要す交渉となるでしょう)


 神殿絡みの契約を違反すれば、良くて祝福や巡礼の拒否程度だ。それでも十分なほどの悪評判となる。

 だが、最悪この大陸でもっとも力のある宗教から破門になる。

 神に見捨てられた冒涜者として、最悪のレッテルが張られた人間は、王族を名乗れなくなる。忌み嫌われるだろう。そう言えば、立場を危ぶまれた彼らはなんとか慰謝料を払おうとするはずだ。

 王族というプライドだけで生きているから。


(甘い汁は吸いたがるけれど、義務や責務は全うしないのよね)


 彼らが神殿の真っ当な請求を論破できるだけ材料があればいいが、この慰謝料はエンリケの酷い浮気が原因だ。そして、それを真実の愛の為と是認する王妃が悪い。

 彼らが騒げば、原因が周知される。

 それは、彼らの更なる致命的な痛手となる。




 王家と姻戚となるよりずっと利になると諭すフレアに、父のジョージは迷っていた。

 ずっと比較されていた兄にすら成し得なかった事をジョージはしたかったのだ。それは、凡庸であることを認めたくないジョージの長くの宿願だった。

 ぱっとしないジョージと比べ、妻のクレアに良く似たフレアは天賦の才を持っている。

 ドレスを纏えば淑女、剣を持ち馬に乗れば騎士、魔法を扱わせれば賢者と呼ばれるほど数多の才能を持っていた。外交に出れば、舌を巻く話術と知識で交渉できるし、今すぐにジョージと替わって公爵家を引き継いでも如才なく盛り立てられるだろう。

 その一部でもジョージが持っていれば、ここまで卑屈な男にならなかっただろう。

 トンビが鷹を産むと言われるほど、父と娘でありながら雲泥の差があった。


「し、しかしだな……」


「お父様、率直に申し上げます。もし、エンリケ殿下とアシュトン公爵家が縁続きになりましたら、我が家の財はしゃぶりつくされ王家の失態のあらゆる責任を押し付けられ没落します」


「おい、いくらエンリケ殿下の器量が良くないとはいえそれは言い過ぎだろう。仕方ない、フレアがダメならユリアを嫁がせるか……?」


 諦めの悪いジョージに、フレアは静かに首を振る。

 まだ王妃や国母を輩出するということに拘っていることが透けて見えて、フレアは内心呆れた。

 ユリアはフレアの異母妹だ。

 父にもフレアにも似ていないピンクブロンドとピンクアイの砂糖菓子のような愛らしい令嬢だ。

 アシュトン公爵家の血筋を表すように、髪が赤みがかっているは父譲りだ。フレアは母方ばかりに似ているので、顔立ちも髪や瞳の色も似ていなかった。似ているのは胃腸が強いところくらいだろう――おかげで異国の慣れない食材や水を使った料理にも耐えられた。

 フレアが似てない分、ユリアが愛しく感じるらしい。

 父はその可愛い娘を、そのまま外見通りとっても可愛らしい性格だと思っている。

 だが、フレアの知るユリア・アシュトンは誰に似たのかなかなかに狡猾である。その可憐な外見を理解しているところや、利害をすぐさま計算できる天性の感覚の良さはフレアも気に入っている。

 だがこの父はユリアのペラッペラに薄いところの上っ面しか見えていない。呆れを通り越して憐れである。

 それを指摘したところで怒りだすので、フレアは建設的に話を進めることにした。


「いえ、それは下策かと。王家はエンリケ殿下の行いから出た莫大な慰謝料や賠償金を、必ずアシュトン公爵家にも負担させるでしょう。アシュトン公爵家の爵位を返上し、すべての事業や領地を売り払ってもエンリケ殿下の浮気の慰謝料を払いきることは不可能です。

 エンリケ殿下は我が国の貴族だけでなく、他国の貴婦人や令嬢にまで手を出しています。なかには、ブランデルよりもはるかに大国出身の姫君までおられます。

 中にはエンリケ殿下の仕打ちにわたくしへ同情し、わたくしを慮って慰謝料を減額してくれ、矛を収めてくださった方もいらっしゃいます。

 わたくし以外が新たに婚約者になった時点で、彼らはまた矛を持ち直すでしょう――あくまで、哀れで惨めなフレア・アシュトンに憐憫を持っただけですから」


 フレアが婚約者ではなくなったことは、エンリケの派手な婚約破棄で方々に情報が飛んでいる。

 あとで王や王太后が情報を収束させようにも、既に不可能だ。

 動きが速いところは、既に祖国や実家に早文を出しているだろう。良い伝書魔鳥を使用し、近い場所であればとっくに届いている。

 ジョージはエンリケの女好きなところは知っていたが、そこまで悪い素行なのは知らなかったようだ。フレアの情報に真っ青になる。

 フレアは毎回報告していたのだが、適当に聞き流していたと改めて実感する。

 ジョージはしっかり者であるからと言い訳して、フレアのことは気にかけていなかった。

 どっちかというと、甘えたでそそっかしい(とジョージは思っている)ユリアばかりに気に留めてしまっていたが、思った以上に王族の立場が危ういとようやく気付いた。


「分かった。では王家から打診があっても断っておこう。だが、ユリアは……」


 どこまでも妹に夢見ている父親に、フレアは内心げんなりしつつも顔には出さない。

 ジョージは自分が王族に憧れるように、ユリアも憧れていると思い込んでいる。確かに幼い頃はそんな時期もあったかもしれないが、かなり前の話だ。

 可愛がっているつもりの方の娘への理解もこの程度だ。ジョージはもともと人の機微に疎いし、思い込みが激しい。

 はっきり言って、貴族というか人の上に立つのには向いていない。

 フレアは逆だ。もともと、冷淡な美貌は表情が薄く、思考が読まれにくい。


「わたくしから伝えます。あの子ももう十六歳です。少々厳しい話であっても、身を守るために知るべきでしょう」


 フレアの申し出に、ジョージは頷いた。

 きっと、先ずは愛人に会いに行くだろう――ジョージがフレアとエンリケの婚約を、母クレアの反対を無視して強行したので、それ以来夫婦仲は没交渉だ。

 クレアは実家に帰り、アシュトン公爵家の女主人の役は幼いフレアがやっていた。

 その後、それほど時を待たずして第二夫人を迎え入れているから、クレアは勿論クレアの実家から激しい顰蹙を買っている。おかげで、それ以降愛人は作っても夫人にはしていない。

 母方の実家を辿れば亡国とはいえ非常に高貴な王家筋だ。由緒ある貴族には憧れの的であり、そういったところから総スカンを食らったのが堪えたのだろう。

 ユリアの母である第二夫人や、愛人たちは公爵邸に来た最初、自分こそが女主人になろうとしていた。

 フレアはちゃんと管理してくれれば、構わなかったのでそのためにと知識を叩きこもうとしたところで逃げた。

 仕込んだ後で逃げない様に、どれだけジョージが頼りない日和見野郎か教え、釣った魚に餌はやらないタイプで、権力に弱く、公爵当主だけど無能であるとしっかり教えたあたりで大抵根を上げる。

 厳しい現実を教えるフレアもそうだが、まさにその通りのだらしないジョージの私生活を見るにつれて、程々の距離を持った愛人とパトロンの生活の方が幸せだったと彼女たちも気づくのだ。

 ジョージが連れてくるのは根性がない女ばかりだったのだ。きっと、ジョージを愛しているのではなく、ジョージの身分とお金を愛しているだけで面倒は嫌っているのだろう。

 それでもフレアは礼儀作法や知識や技術を教え、職業婦人として生計を立てられるようにフォローしている。公爵家の事業や商会で働けるように紹介状を出したのは片手じゃ足りない。

 結果、愛人たちにはむしろ感謝されている。ジョージはそういったフォローを一切しないのだ。




 フレアはジョージから別れたその足で、ユリアの部屋を訪ねた。

 ユリアの部屋はいかにも可愛らしいピンクと白いレースが沢山の、メルヘンチックな雰囲気だった。

 白いレースのクロスをテーブルの前でお澄まし顔でお茶を飲んでいたユリアは、フレアを歓迎した。そして、そのままお茶に同席することになった。

 事の成り行きを聞くと、ユリアは赤くなったり青くなったりと忙しない。


「嫌よ! 絶対に嫌! 馬鹿若様こと馬鹿様と婚約なんて冗談じゃないわ!」


 ユリアは全身を逆立てて拒否をした。

 ユリアは昔、自分がエンリケの婚約者になりたいと騒いでいた時期もあったのだ。

 だが、最近はそれほど騒いでいない。むしろこんな感じだ。

 一度、余りに煩いのでフレアがエンリケの女癖の酷さや、その悪質な手口、捨てられた女性の末路を教えたらぱったりと言わなくなった。

 エンリケ本人からも口説かれたが、靡かなかった。お決まりの「君が運命の女性さ☆」という歯の浮いたセリフを言い放ったのだろう。語彙の少ないエンリケのパターンは決まっている。

 口説かれた後、ユリアは肥溜めに落ちたかのように全身から何かを叩き落としながら湯殿に入っていた。余程気色悪かったのだろう。

 もしかしたら自分とエンリケの縁談が来るかもしれないと知ったユリア。耐えられないとばかりに、拒絶も露わな怒涛のマシンガンだった。


「あの馬鹿様、あたくしの友人やメイドにも手を出したし、妃にするって言っておいて、飽きたらポイよ? 去年も今年もデビュタントが何人修道院に入ったり、精神病院に行ったりした思っているの?」


「あら、ユリア。昔はあんなに憧れていたのに」


「それはそれ! これはこれ! アイツ、あたくしを口説いたときそのっまんまお姉ちゃんが教えてくれたセリフだったのよ! 『ああ、可憐な人! 僕の星! 我が運命はここにいたんだね! 僕は君と恋に落ちるために生まれてきたんだよ!』……ってクッサ。今思い出してもサブイボ立つわ」


 ユリアはエンリケの真似をする。非常に良く似た口調と言い回しだ。

 ナルシストな笑みと、白い歯をきらりと輝かせる独特の笑いまで見事に模倣している。

 しかし、自分で演じていて耐えきれなかったのか、直後にピンクブロンドを激しく振り乱した。

 ちなみに、フレアも初めてのお茶会でエンリケにあった時、全く同じ口説かれ方をした――つまり、十年以上彼のセリフは変わっていないのだ。

 本人が熱望してこのフレアとの婚約となったことを、エンリケは忘れている。

 確か政治的思惑も絡んでいたが、フレアを婚約者にと最初に選んだのはエンリケの方だというのにこの結果だ。


「ユリア、わたくしの前ではいいけれど社交の場でその口調は控えなさい」


「分かってるわ。そんなヘマしないもん」


「そう、ならお見合いでもそうして頂戴。王家からの打診を絶対に断るために、貴女の縁談を早くまとめる必要ができたわ」


「はー、でもなぁ。お父様がたくさん釣書を持ってくるけど、ぱっとしないのよね。イケメンなんだけどさー。後妻とか、多少年上なのは良いのよ? お姉ちゃん見ていると、あたし絶対王族とか高位貴族の夫人にはなれないってわかるもの」


 ユリアはこの夢見る少女を絵に描いたような容姿に反して、かなり現実が見えている。

 良い暮らしではありたいが、別にファーストレディになりたいなどとは全然思っていない。

 裕福で、そこそこの名家に嫁げればいいと考えている。金のない高位貴族より、裕福な商家がいいという程だ。

 完璧な淑女であるフレアが、その完璧さ故に不良債権の極みと言えるエンリケのトイレットペーパー役にされているのを見ているうちにそうなった。

 あの美貌で超絶優秀な姉が、ウンコ殿下のおしりふきにされている。

 下手に優秀を気取ったら、あのウンコ殿下のおしりふきに自分もされるかもしれないとユリアは気づいた。そうでなくても他のドラ息子のおしりふきにされるかもしれない。

 ユリアはお世話をするより、されたい人間だった。

 もし、アシュトン公爵家に姉がいなかったらかなり悲惨だっただろう。

 ユリアは可愛らしいが狡賢かった。そこそこゲスでセコイ性格だった。

 フレアに迷惑を掛けず、可愛らしく甘えておけばちゃんとそれなりのところに嫁がせてもらえると判断した。

 その判断は正解であった。

 父のジョージのもってくる縁談は、どれもいまいちだった。

 中にはちょっといいかもと思って姉に相談すると、でるわでるわ危ない噂。

 凄まじいマザコンやシスコン、薬物依存、特殊性癖、ギャンブル癖、買い物依存症、隠し子や内縁の妻がいる――どことなく、エンリケ臭の漂う男ばかりなのだ。見てくれと家柄ばかりの外見キラキラで中身がスッカスカなのばかり。

 一度だけジョージの顔を立ててお見合いをしたら、危うくネクロフィリアのコレクションにされかけた。姉が絶対出されたものを飲食するなという忠告をしてくれて、ユリアがきちんと従っていたから回避できた。手を付けていたら、何をされていたとか考えたくない。

 ちなみにそのヤバい見合い相手は、別の令嬢と見合いした時に拉致監禁して、その親が探し回った結果、地下の秘密のコレクションの中から出てきた。

 コレクションは孤児、娼婦など足のつきにくい人から古く多くいたが、最近のものは村娘や商家の娘、下級貴族の令嬢などどんどん身元がしっかりした女性も出てきた。

 どうしても体の綺麗な女性が欲しくて、ついに貴族まで手を出したそうだ。身分の高い人間は水仕事や重労働などしないので、髪や爪や手足などの末端まで傷みが少ないのだ。

 当然そのヤバい見合い相手の家は満場一致で取り潰しとなった。高位貴族ではあったが前々から悪評が酷く、今回のことで完全に貴族の世界から孤立した。呪われた家として名を馳せた結果、引き継ぎたい人もいなかった。

 たった一度でもジョージは兎に角人を見る目が節穴なのだと理解するに十分だった。

 どうやら、王家筋の侯爵家であることと結納金に釣られたらしい。

 ユリアは実の父親だろうが、糞野郎に嫁がせる奴は敵だと思っている。異母姉のフレアの方が信用できた。


「お父様は、王家の対応で暫く多忙になるでしょう。わたくしが縁談をセッティングして良くて?」


「うん、お姉ちゃんなら安心だわ」


 母は当てにならない。元は娼婦だったし、貴族の伝手は少ないだろう。

 それに昔っからフレアの手の平というか、指先だけでコロコロ転がされていた。

 フレアはまともな貴族との付き合いが多いし、公務で外国に訪れることもあったので、伝手が手広くある。

 ユリアはフレアにはちゃんと従っていたのだから、きちんとした身元で、まともな相手を用意してくれるだろう。


「では二時間後、とある殿方にお会いしに行くわ。ナチュラルメイクで清楚で愛らしいお出かけ用のドレスで待っていなさい」


「二時間後!? 早くない!?」


「貴女のボーイフレンドの傾向から見て、絶対好みのはずよ。とびきりいい男を紹介してあげるのだから、絶対落としなさいな」


 貴婦人としての氷の微笑ではなく、悪戯っぽく微笑むフレアはこんなにも美しい。

 同性でありながら、一瞬ドキッと胸が高鳴ったユリアである。


「ちょ、ちょっとまって二時間だと泥パックと、リンパマッサージはピンポイントコースくらいよね。ヘアケアしたら、髪は巻けるかな……」


「あの方、胸や尻の大きさよりうなじと鎖骨にそそられるタイプだから、全部巻かないで結うにしてもシンプルなのがいいわ。ポニーテールでチラ見せにしてデコルテの広いドレスになさい。そのあたりのケアを重点的にね」


 どうやら見合い相手は、女性の華奢な骨格に弱いらしい。ユリアは教えられた相手の好みを頭に叩き込む。

 もし失敗したら、迂闊な父がけったいな縁談を持ってくる可能性が高いのだ。


「じゃあ巻くのは毛先だけにする。ポニーテールだと、幅広の大きなリボンがいいかな。ドレスは清楚目だから宝石が付いているよりそっちの方が……」


 ブツブツと言いながら、ユリアは身支度を始める。

 その目には「この獲物を逃して堪るか」と爛々とした輝きがある。メイドを集めて、さっそく指示を飛ばしている。

 それを見て、フレアは満足だ。


(やはりユリアはお父様より賢いわね。自分の利になる人間の嗅ぎ分け方が上手いわ。

 ユリアはお勉強が苦手だけれど、機転が利くし愛嬌がある。意欲があれば集中力も継続する。伝統でがんじがらめのような堅苦しい高位貴族に嫁がせるより、商家や騎士の家で裕福なところがいいわね)


 異母とはいえ公爵家の令嬢だ。フレアの紹介とあれば、手厚く迎え入れられるだろう。

 下手に厳格な貴族の家に嫁いでしまえば、絶対姑たちと衝突する。

 夫が庇っているうちはいいが、そうでなくなったらユリアの立場は苦しいものとなるだろう。子供を産んでも、義母たちに取り上げられることだってありうる。

 ジョージはただ貴族の名家に嫁げば幸せと思い込んでいるが、ユリアの性格を考えれば窮屈さに耐えかねて爆発するのが見えていた。

 フレアも身支度を整え、神殿やアシュトン公爵家派閥や友好関係にある貴族たちに手紙を書いて出した。

 耳の速いところからは、既に祝報が届いていた。


『この度は婚約破棄、お目出とうございます』


 大半はフレアの婚約を憐れんでいた所からの心からの祝報だが、いくつかは嫌味だろう所もあった。

 そのいくつかはエンリケがミニスの他にも並行して関係を持っていた女性であり、まだエンリケに夢を見ている女性たちである。

 その名前に目を通し、フレアは笑う。

 もしミニスに逃げられてしまったときのスペアは多い方がいい。もし足りなかったら、有難くその心を利用させてもらうとしよう。


(きっとエンリケ殿下は、煩わしいばかりのわたくしを振った優越感でいっぱいだわ。恥を掻かせることに成功したと思っている。

 でも、徐々にうまくいかなくなってわたくしには意地でも泣きつきたくないと、往生際悪く抵抗するでしょうね)


 でも、エンリケに理想の王子様を夢想する『お姫様』に、彼の世話などできやしない。

 彼の代わりに王侯貴族たちの名前と関係を覚え、必要な情報を厳選してさりげなく伝えることもできない。

 諸外国と渡り合うために言葉や文化を覚え、情報を集め、どんな言葉を吐きかけられても笑みを湛えて成果をもぎ取ってくることもできない。

 エンリケの婚約者になるということは、王妃教育と王太子教育両方を履修しなければならない。

 そして、どんな成果を上げてもエンリケに献上し、エンリケの失態の尻拭いを全てしなければならない。

 どんなに頑張ってもエンリケは褒めないし、当然だと思うだろう。

 今まで、当たり前として甘受してきたことなのだから。

 そして、できなかったら役立たずとして吐き捨てるだろう。

 運命の相手じゃなかったと詰るのだ。






 エンリケが起こした事件を聞いて、国王のヘンリーは王宮にすっ飛んで戻ってきた。

 王妃もエンリケもまともに王族としての仕事ができないため、国王自ら出向くことが多くある。

 それでも、フレアがだいぶフォローしてくれた――しかし、今回エンリケがフレアを学園行事であるプロムナードに絶対出るように言っていたので、国王がその穴埋めに動くことになった。

 王太后はそれなりに年なので、長い移動は体に堪える。持病もあり、無理は禁物なのだ。だから王が動いた。

 本来であれば現王妃の仕事であるが、そんな能力がない事を知っていた。

 王妃――グラニア・ブランデルはいつまでも少女の様な人である。

 淡いブロンドの髪に、薄桃色の瞳。溜め息の出そうなほど可憐な美しい人――と吟遊詩人が歌わされているが、実際は年甲斐もなく落ち着きのない中年女性だ。

 いい加減、あの若作りメイクも不自然になってきたし、その金の髪に白髪が混じり始めていることだって、身近な人間や目ざとい者は気づいていた。

 特にここ数年で一気に老け込んでおり、美容関係の散財が激しい。その甲斐あって多少は若く見えても、流石にグラニアの望むレベルまでにはならない。

 グラニアは未だにうら若い少女がするようなメイクやファッションを好むのだから、余計に浮いて見える。

 いつまでも話題のお姫様気分の王妃は、その性質故に王太后に疎まれている。

 能力のないお飾りの妃は、自分を褒めそやす人間ばかり集め、自分の宮殿で毎日のようにお茶会を開いている。

 欲しい言葉だけをくれる人間だけを選び、小さな箱庭で女王の様に振舞っているのだ。

 エンリケのふざけた運命の人理論を詰め込んだのも彼女である。

 きっとグラニアのことだ。この婚約破棄を知っていたとしても、何も考えずにエンリケを応援したのだろう。

 もともとグラニアは優秀なフレアを妬んでいた。


(ああ、なんてことだ! フレア・アシュトン以外に誰がエンリケを王にできるというのだ!)


 あの冷ややかな冬の女王の様な少女は、血筋、家柄、能力の全てが揃っていた。

 貴族の令嬢であることに、国の歯車であることを自覚しているフレア。

 彼女にはエンリケが覚えなかった全て以上の物を学ばせたのだ。たとえ、エンリケがグラニアの様に後宮で一生遊び惚けても、フレアがいればすべてが回るほどに。

 グラニアの出自は本来王妃として相応しくないものだった。能力も酷くお粗末だ。

 それを補うために由緒正しき令嬢の中でも、ずば抜けて優秀かつ国内外でも名門と言えるフレアにしたのだ。何もかも足りない王子しかいないブランデル王家が、これ以上に顰蹙を買わないために彼女を選んだ。

 アシュトン公爵家はブランデル王国でも譜代貴族であり、フレアの母のクレアは亡国であるシェリダン公国の血を引いている。

 亡国と言うと凋落と思えるかもしれないが、シェリダン公国は周辺国でも一等強国であるグランマニエ帝国の皇太后がその出身なのだ。

 シェリダン公国はグランマニエ帝国の兄弟国であり、長らく友好を紡いでいた。

 シェリダン公国の滅亡は、ポルカ国が竜の巣を攻撃し、隣国のアディオンを襲わせようとしたのが原因だ。

 しかもその方法が残酷だった。竜の卵や子を奪い壊し、惨たらしく殺し、子を失い怒り狂った親竜を襲わせるという恐ろしい計画だった。卵の残骸や、幼竜の死体を襲わせたい砦や街付近に埋めれば、親竜はやってくる。

 その計画はある程度上手くいったが、それだけでは済まなかった。怒り狂ったのは親竜だけでなかった。その群れだけにとどまらず、同胞の慟哭と怒号を聞きつけた他の群れまで集まってそのアディオンどころか周囲一帯の国を焦土にしたのだ。

 竜種の賢さと、共鳴や共感力を侮ったのだ。

 たくさんの集落、国、部族が消えた――その一つがシェリダン公国だ。

 妖精と花園の国と称賛されたシェリダン公国。四季折々に豊かな花が咲く美しい国は愚かな隣国の暴挙により消えた。

 大国グランマニエにも暴徒化した竜たちは襲い掛かったが、皇太后が実家からいち早く受けた連絡により迎撃に成功。何とか撃退して、竜たちを散り散りにさせ追い返した。

 自国を失おうとも、友好国の為に素早く動いて未来を繋いだシェリダン公国は、グランマニエ皇帝直々に感謝の意を表して、王城があった場所に壮麗な神殿と霊廟が建てられた。

 グランマニエ帝国の被害は最小限で済んだし、竜の大群に襲われてはひとたまりもなかっただろう周辺所外からも感謝と尊敬を集めた。

 だから、そのシェリダン王族を父方に血を引くクレア・アシュトン――そしてその娘のフレア・アシュトンはその辺の王侯貴族とは格が違えば、箔も違う。

 グランマニエ帝国に特別な恩義があり、名高い美談を持つシェリダン公国の血筋は、プレミアがついているのだ。

 なにせ、それをきっかけにグランマニエ帝国はシェリダン公国のあった場所を王家直轄の地として皇太后に召し上げられ、かつてアディオンやポルカのあった場所はグランマニエ帝国の支配下となって、一層の国力増強となった。

 美談の裏にある実利は多くあった。グランマニエ帝国は、国庫を潤す稀少な鉱脈や珍重される植物や穀倉地帯を手に入れたのだ。

 列強大国の中でも、一段とのし上がった形となった。

 一方、ブランデル王国はここ最近で、評判を大きく下げた国だ。

 ヘンリーはかつて隣国の王女ベネシーと婚約していた。

 だが、学園でグラニアと恋に落ちて、ベネシーを手酷く振ったのだ。

 ベネシーは隣国ランファンの王女であったが、大した国ではなかった。ヘンリーは幼いころから手紙でやり取りをし、年に数回だけ国事であうベネシーを嫌いではなかった。

 しかし、そうであっても親と国に決められて、縛られた結婚に反抗心を燻らせていた。

 だからグラニアに恋に落ちたとき、ヘンリーは自分で選んだ愛する人と結ばれるためにかなり無茶をした。

 正直に言ってしまえば、エンリケの様にプロムでベネシーを悪し様に罵って強引に婚約破棄に踏み切った。

 だが、ヘンリーは愚かではなかったのでちゃんと側近や周囲に根回しをした。ヘンリーの母は激怒したが、世間を賑わせて若い貴族と平民に絶大な支持を得て押し切ったのだ。

 ブランデルで悪の王女扱いされたベネシーは軽蔑と憎悪の目をして隣国に帰っていった。

 後に彼女はグランマニエ帝国の第六皇子トルハーンに嫁ぎ、権力争いに勝ち第一皇妃となった。しかも、トルハーンは皇帝となった。そう、なってしまった。

 ブランデル国王に遺恨のあるベネシーが、グランマニエ皇帝の寵愛を受け皇子たちを生み、今では皇妃として最も立場がある皇后となった。皇子時代からトルハーンを支え続けたベネシーは、絶大な勢力を持っているのだ。

 ベネシーの憎悪が夫や子供たちに伝わっている可能性は大いにある。

 今はまだベネシーは皇妃や国母として邁進しているが、何かの拍子に憎悪が焚きつけられるかもしれない。優秀な皇太子らが、復讐を代行しに来るかもしれない。

 ヘンリーは、それは恐ろしかった。


(だから、だからこそフレアを矢面に立たせるはずだったのに!!)


 皇帝トルハーンは実母――皇太后を敬愛していることは有名だ。

 シェリダン公国の滅亡は痛ましくも、ドラマティックだった。自国が滅びようもグランマニエ帝国の為の情報をしっかり伝えた。竜の暴動の理由や、狂暴性、対処法などを書き記した。得られた情報は、グランマニエ帝国を、そしてその後ろにいる国々を救ったのだ。トルハーンは、賢明で聡明な亡国の王族の血を引いていることを誇りに思っている。

 そんなトルハーンであれば、フレアがブランデルの顔となっている限り振り下ろす刃も鈍るはずだ。事実、国交の際に幼いフレアを無理やり行かせたが、手酷くされることは一度としてなかった。他の外交官が参加した時はけんもほろろだったし、手痛い洗礼を受けていた。

 フレアがもともと優秀な資質を持っていることを差し引いても異例の対応だ。

 トルハーンはブランデルを嫌っているがフレアを悪からず思っている。

 あわよくばとその身柄や血筋をグランマニエに組み入れたいのだろう。フレアの優秀さが知れ渡るほど、喉から手が出るほど欲しがっているのが分かった。

 国は滅び、各国に嫁いだり臣籍降下などしたりした血筋しか残っていないシェリダン公国の忘れ形見は少ない。

 自称王族はいたが、フレアが間違いないのはその容姿にも表れていた。

 王族たちの婚姻は友誼を結ぶために大切な手札だ。

 そしてその手札は、その系譜や家柄によって威力が大きく変わる。


(フレアには生まれた時から国外から縁談が殺到していた! 何のためにクレアをアシュトン公爵家に嫁がせて血を残させたと思っているんだ!)


 グラニアに魅了されたケイネス。次期公爵と有力視されていた。長男だったケイネスを追い出したアシュトン公爵家であるが、その早急な対応により王家やずっとグラニアに心酔した貴族たちより評判が良かった。

 古い貴族たちの中には、ヘンリーやグラニアを未だに認めていない家もある。

 もともと、王子であるヘンリーが強引に婚約者を捨てたことにより、ランファンと国ぐるみで提携していた事業が少なからずとん挫してしまったのだ。その被害を受けた家は没落したところもあった。それもあり、王家を――ヘンリーやグラニア、エンリケを恨んでいる家は多くあった。

 

(フレアは側妃でもいいから納得させ、とにかくこの国に縛らねば。国交を保ち、エンリケをどうにかできるのは彼女しかいない)


 計画倒れした事業により、ブランデルは長らく不況の真っただ中にいる。

 すべてはヘンリーの婚約破棄に始まり、その結果できた出来損ないの王子エンリケ。王太后はフレアを逃したら、今度こそエンリケを許さない。

 ヘンリーは『真実の愛』『運命の恋』という耳障りの良い言葉で国民を扇動し、何とか誤魔化してきた。

 全てがバレてしまえば、ヘンリーは玉座を追われ暗君、暴君として後世に語られる愚王として名を残すこととなるだろう。

 ヘンリーの偉業は、身分差を超えたラブストーリーくらいだ。

 だが夢は一時で、残った現実は厳しかった。無能な王妃を据え、母の手を借りなければ政治が回らない。生れた子供は酷く愚かで、獣のように女を漁る奔放さだった。

 何が何でも、嘘を付き通してでも演じなければならない。愛に生きた幸福な王でいなければならないのだ。惨めな王に等なりたくなかった。


(……まずはアシュトン公爵だ。あれはまだ御しやすい。フレアは従順だが、得体のしれないところがある。今からでも婚約破棄を撤回させなければ。最悪、妹の方のユリアをこちらに寄越す様にすれば縁は薄れるが、フレアとの筋は残る)


 王が筆を執ったのは、急いで婚約破棄をなかったことにするために動いた。

 しかしそれは遅すぎた。

 その頃にはフレアは王宮から全ての使用人や私物を引き上げる指示を出し、エンリケの仕打ちを理由に婚約破棄の履行を裁判所と神殿に求め、ユリアの縁談を纏め終えた後であった。

 現状に胡坐をかいて対策をしていなかったヘンリーと、機を待って万全を期したフレアでは勝敗は明らかだった。




 ユリアの見合い相手は眉に僅かに傷の残る、精悍な青年だった。服の上からでも鍛えられている体が分かり、ユリアが扇子で隠して生唾を飲むのをフレアだけが気付いていた。

 彼の名はリヒャルト・リスト。ブランデルではなくランファンの辺境伯である彼は、国境沿いの魔物討伐をする時などはブランデル側にも軍を動かす連絡をするのだ。そして、同時期にブランデルでも魔物討伐をしてもらい、周囲から一掃する。

 もし片方だけの国でやれば、隣国に魔物が逃げるだけということになりかねない。

 魔物には国境などないし、こちらの都合などお構いなしだ。

 ユリアのお見合いは始終和やかに進み、互いに好感触を抱いた。かなり前向きに、というより前のめりに婚約は推し進められることとなり、もっと互いを知りたいとリヒャルトも言うし、ユリアも是非にと懇願するので外泊を許可した。

 リヒャルトと交流しやすいように、滞在している屋敷の近くのホテルを一室取り、侍女や侍従と護衛を残し、三か月は滞在できる金子を渡しておいた。


(ユリアの好みは、エンリケ殿下みたいな背高モヤシじゃなくて、鍛え上げられた上腕二頭筋や布越しにすら感じる胸筋なのよね)


 自ら討伐隊を指揮しながらも戦う肉体派のリヒャルトはドストライクだったのだろう。

 お茶会よりも、国や地方で主催する武術大会や騎士たちの集団演習の見学に行った時の方が楽しそうだった。

 ユリアは歯を輝かせた軽薄な男より、ちょっと武骨で不器用な方がそそられるのだろう。

 そもそもエンリケは背が高いが、豪奢な衣装で隠した貧弱な肉体しかもっていない。フレアは彼が振り回す剣なら素手で勝てる。そのうえ情けないことに、エンリケは馬にすら乗れないのだ。

 王子であるので自衛のために剣術稽古はあるのだが、持病の癪だの急な腹痛などで毎回サボっている。

 ユリアにとって、論外だろう。あの軟弱殿下は。


(もしエンリケ殿下を欲しがるようなら、あげるのも吝かでもなかったけれど……流石に殿下のお遊びの酷さには引いていたものね)


 公爵邸に来たばかりの最初に一年くらいは欲しがっていたようだが、譲った後にまた返品されても困ってしまう。だからフレアはありのままのエンリケを教えてあげると、ユリアはすぐにエンリケと距離を置いた。

 トドメに、現実にエンリケの本性を見せてやったのだ。

 筆舌にしがたいワガママプーなので、王宮に内緒で連れて行くために地味な見習いメイドの姿をさせて連れて行った。

 勉強や執務はサボり、課題や書類をフレアに押し付ける。

 定例のお茶会をすっぽかし、他の女とデートに使うからどけと王宮庭園から追い出す。

 浮気して捨てた女から訴えられたから、陛下と王太后にバレないように処理しろと怒鳴って命令する。

 超が付くマザコン野郎で、ことあるごとに比較する。

 他の女との情事やデートの内容を自慢する。

 大体そんな感じである。

 たった一日で披露されたモラハラセクハラマザコンっぷりにユリアは泣いた。跪いて頭を垂れて「あんな男と義兄妹になるのは嫌だから別れて!」という程であった。

 流石にそれはフレアにも難しかった。王家と公爵家の婚約なのだから、余程のことがないと不可能である。

 顔を真っ赤にしてわんわん泣くユリアは、昨日までは頬を染めてにこにことしていたのが嘘のような変わり身の早さである。








 フレアと婚約破棄を宣言したエンリケは、意気揚々と本日の主役としてプロムナードを楽しんだ。日も暮れたところで父王ヘンリーから呼び出され、兵に担がれるようにして、王の私室へと投げ入れられた。

 長毛タイプの絨毯であったが、流石にそれだけで投げられた衝撃がなくなるわけがない。受け身も取れず体を強か打ち付け、もんどりうつ。

 しかし、その無様なエンリケを心配するどころか、冷水のような叱責が飛んだ。


「この大馬鹿者! フレア・アシュトンと婚約破棄をしただと!? そして男爵令嬢と婚約を結び直す!? お前はそれがどういう意味か分かっているのか!?」


 びりびりと響く怒号は、鼓膜をぶち抜くような声量だった。

 普段は物静かなヘンリーが、エンリケの言葉など聞く余地はないとばかりに怒鳴り散らす。

 大事な一粒種として育てられていたエンリケは、大きなショックを受けた。

 散々甘やかされていたエンリケは、ここまで露骨な叱り方を受けることがなかったのである。

 だが、涙ぐみながらも言い返す。


「で、ですが父上! フレアは次期王妃として相応しくありません! いつも冷たくて氷のようではないですか! あんなのがブランデルで王妃となるなんて! 母上の様に美しく清廉で心優しい女性が王妃になるべきです!」


 公務を任せられないおつむなうえ、噂好きの王宮雀や媚びを売るばかりの貴族しか贔屓しないグラニアではあるが、エンリケにとっては理想にして最高の女性だった。

 身内贔屓が激しく、色眼鏡もいいところだった。エンリケはグラニアに、グラニアはエンリケに対して評価が高すぎた。

 ヘンリーは落胆と失望のため息をついた。


「エンリケ。お前はいくつの言語を履修できた?」


「ブランデル語ですよ。俺はブランデルの王子なんですから、一つで充分でしょう?」


 そのお粗末な答えに、ヘンリーは溜息を止められない。

 ブランデルが比類なき大国だったら許されたかもしれないが、現実はぱっとしない小国である。


「余が王太子であった時は、最低三か国語を覚えさせられた。ブランデル語以外で、だ。ブランデル語はかなりマイナーな語学だ。国際的な場所に出る場合は、大陸でもっとも使われているフォトン語が共通言語と規定で決められている。王族の必須教養とされているしな。次に覚えたのは、このあたりで最も勢力のあるグランマニエ帝国と、その周辺で使われるグラン語。そして、隣国のランファン語を履修した」


 つまり、ヘンリーは全部で四か国語を学んだということだ。

 それに比べてお前は、と言外に滲ませたが空気の読めないエンリケは「流石父上です!」と愚かな賛辞を述べている。

 せめて恥を感じて俯くくらいはできないのか。


「お前が婚姻したいという令嬢は、いくつ使える?」


「さあ? ミニスはあまり勉強が得意ではないと言っていましたし、貴族令嬢は言語学の授業など必要なのですか?」


 他人事のエンリケに、ヘンリーは冷ややかな視線を浴びせた。

 自分が履修するという考えもないのに、よくそんなことを言えたものだ。

 ここでようやく言葉を誤ったことに気付いたエンリケは、誤魔化すように手をバタバタさせて言い訳をする。


「し、しかしそんなもの王妃には必要ないでしょう? 母上もやっておりませんし、外交官に任せればよいでしょう?」


「やってないのではなく、グラニアは出来ぬのだ。言葉も喋れず、マナーもなっていないのにどうやって招致した貴賓を相手するのだ? 式典や祭典では国内外の要人を招く。お前はそこで一人だけ通じないブランデル語を使うつもりか? 周りは通訳を付けずにフォトン語を使うだろう」


 ヘンリーの言葉に、口を噤むエンリケ。

 そんなこと、初めて知ったと言わんばかりの顔だ。だが、フレアやまともな教師や文官たちは口を酸っぱくして勉強しろと突き上げていたはずだ。

 だが、エンリケは逃げ回って煙に巻いて、女に逃げていたが。

 いつまでも終了しないエンリケの教育は、王太子どころか王子教育の半分も終えていない。一般的な貴族の教養以下かもしれない。

 余りの出来の悪さに、王室の教師たちは匙を投げ、辞職するのが後を絶たなかった。

 それに比べ、フレアは六歳の時に婚約し、そこからたった五年で王子妃どころか王太子教育まで終わらせた。

 そして、余りにエンリケがお粗末な出来なので、それをフォローするためにもフレアに教えた。どんどん覚えていくフレアの方が、教師の方が教え甲斐があったのだろう。教育にも熱が入り、貴族たちが通う学園に入学する頃には王太子教育も終えてしまった。

 いままで、エンリケの行うべき公務は婚約者だからと強引にフレアにやらせていた。

 その方が問題も起きないし、スムーズだからだ。あとで功績だけエンリケにのせておけば、エンリケも文句は言わなかった。

 フレアはそのことに文句も言わなかった。

 ただ、青い瞳を無関心にこちらに向けていた。

 王国の歯車として、幼少期からすべてを費やされた少女はいつからか、社交で使う笑み以外を浮かべなくなった。そもそも、どんな笑い方や声を出すかもわからない。

 国の道具として、最高傑作と言えるフレア。

 言葉一つで、エンリケの代わりにすべてやるフレア。

 なんと便利で優秀な道具なのだろう。それを、エンリケが勝手に捨てた。

 それを失って、代わりに役に立たない小娘を婚約者にするというエンリケ。この後、どうするつもりなのだ。


「父上、そんなこと外交官や大臣たちにやらせればいいでしょう? 王太子になる俺が動く必要なんてどこにあるのですか?」


 心底訳が分からないと言わんばかりのエンリケ。

 訳が分からないのはこちらの方だ。ブランデルはけして大国ではない。機嫌を損ねたら困る国は至るところにあるのだ。

 だからこそ、高位に属す地位の人間が精一杯持て成して、取り成してもらう必要があるというのに。近年の外交はフレアが担当したもの以外は芳しくなく、貿易は少なくなる一方であった。


「違う、それは王族の仕事だ。王太子、そして王子妃がやる仕事だ。次代に国交を、顔を繋ぐためにも必要な事だ」


「ではミニスに今からでも覚えてもらいましょう」


「何年かかると思っている? 出来ぬというなら、婚約を認めぬぞ」


 こうでも言わないと、エンリケは解決方法も考えもしないだろう。

 ヘンリーはミニスは王妃として論外だと考えているが、エンリケのやる気にさせる餌にできそうな限りは多少は何かの使い道はあるかもしれない。


「え! それは困ります! 僕はミニスが十八になる前に結婚するんです!」


 きっと、その年齢はグラニアの結婚年齢を意識してだろう。

 エンリケは両親の経歴をなぞるようにて挙式を考えているようだった。

 怒りのあまり頭にズキズキとした痛みが響くヘンリー。繰り返される馬鹿な発言にはらわたが煮えくり返っていた。怒鳴り散らしたいが、体力温存のために我慢する。


「そんなもの余も王太后も、大臣たちも認めぬ。お前も全く勉強が進んでおらぬだろう。フレアを逃がした今、二十代で結婚できると思うな」


 普通どころか出来の悪いと言っていい部類のエンリケだ。十年で仕上がるとも思えない。

 今は熱を上げていても、ミニスという令嬢も半年もしないうちに興味を失うだろう。

 教育自体も無意味となる可能性だって高い。

 エンリケは不満げな顔をして、ため息をついた。少しは理解したのかと思ったら、更なる妄言を披露してくれた。


「仕方ありません。フレアを側妃にしましょう。あれに全部やらせればいいですよ。今までずっとそうだったんですから、喜んでやりますよ」


 本当は嫌だけど、と言わんばかりのエンリケ。

 その発言にヘンリーに給仕しに来ていたメイドは紅茶を絨毯に注いでしまう。

 怒りにヒートアップしていたヘンリーを仰いでいたメイドも、手が止まって目を丸くしてエンリケを見ている。

 ヘンリーは口に含んでいた紅茶を全部吐き出してしまった。

 皆が異形を見るような目で、エンリケを見ている。

 その視線を称賛と勘違いしたエンリケは、得意げに続ける。


「俺が声を掛ければ、喜んで戻ってきますよ。そういう女です。昔っからガミガミガミガミうるさく俺の気を引こうと浅ましい女でしたからね」


 フレアが何度もエンリケに声をかけたのは、問題を起こしては知らんぷり、放置して爆発寸前や、爆破した後の処理を押し付けるからだ。

 少なくともメイドの知るフレア・アシュトンはエンリケには冷ややかであったが、物静かで公平な人であった。出来過ぎている程、優秀な人だった。

 とても美しい人でもあるので、新人が緊張するのは恒例行事だった。少しのミスくらいならば口頭で注意を促す程度だし、王妃グラニアと違ってヒステリックに喚いて、扇や鞭を振り回さない。

 情熱とは程遠い人ではあるが、エンリケが非常識過ぎて冷徹になるだけである。

 フレアは自分の仕事をプライドを持って完遂するが、エンリケに何ら期待をしていなかった。婚約者の義務だから仕方なくやっていたにすぎない。放置すれば悪化しかしないので、彼女が動いただけだ。

 エンリケの為というより、エンリケのせいで迷惑を被る人の為というスタンスを感じた。

 そういう周りへの気配りをかかさないフレアを慕う人が多くいる。

 だが、これだけ今まで迷惑と恥をかかされた彼女が未だにエンリケに未練があるとは到底思えない。もし自分がフレアの立場なら、婚約破棄を打診されたら泣いて感激するだろう。喜びでむせび泣いて動けなくなる。

 それを婚約のやり直し? 側妃にするために? やっとお守りを解放されたのに?

 ありえない、と周囲が驚愕を持ってエンリケを見ているが本人は気づいていない。


「エンリケ。お前はどこまでも腐っているのだ。彼女を王妃にしたいのは分かる。だが、公爵令嬢を側妃? 男爵令嬢を正妃に据えたいと?」


「そうです。僕の運命の女性はミニスなのですから!」


 そんなことをしたら、この婚約破棄に関わらない貴族まで蜂起する可能性がある。

 貴族は絶対的な階級社会だ。

 婚姻は次代に繋げる必要がある大切な契約だ。同年代の男女を引き合わせるなどの都合はあるが、基本格の相応しい同士を引き合わせる。

 外交的な意味や派閥の勢力の調整なども含め、綿密に考えられて成されるものだ。

 ヘンリーとグラニアの婚姻もかなり荒れたのだ。

 だからこそ、エンリケは真っ当に婚姻をしなければならない。

 連続でそういった都合を無視したら、ブランデルが破綻する。ただでさえ、近年の不況でどこも不満がくすぶり、王家の信頼と威信が陰っているというのに。


「それは罷り通らぬぞ、エンリケ。そもそもアシュトン公爵家も、フレアも受け入れぬだろう」


 馬鹿にしているにも程がある。

 エンリケの悪評を知る貴族は、王家と縁戚になるメリットがあったとしても娘を嫁がせたがらないだろう。

 フレアやアシュトン公爵家から名誉棄損の損害賠償や今までの慰謝料を請求されるのは目に見えている。それの巻き添えを食う可能性が非常に高い。今まで妃となる前提で長時間拘束されていた分だけ、裏切りの対価は大きい。

 それ以外にも、今まで散々不貞を繰り返していて、問題となっているのだ。

 いくつ散らばっているか分からない爆弾を分かっていて、挙手する家などない。

 ミニスの養子先ですら難しいだろう。エンリケが男爵令嬢のミニスを娶るとなると、そういった後見人となる家が必要となる。手っ取り早いのが養子縁組だが、エンリケ同様に嫌がられるのは目に見えていた。

 何もわかっていないエンリケは、どんな納得の仕方をしたのか陽気に答える。


「わかりました。父上。俺がフレアを説得してきます。そうしたらミニスと結婚できますよね!」


 そういって、返事を聞かずにエンリケは走り出した。ヘンリーの制止も間に合わず、アシュトン公爵家に向かったのだ。

 ヘンリーは止めようとしたものの、多大なストレスでめまいがして、思わず座り込んでしまう。

 膝を付く王の姿にメイドたちは慌てて医者を呼び、その場は騒然となるのだった。







 当然と言えば当然だが、エンリケはアシュトン公爵家に門前払いを食らった。

 婚約破棄をして大恥を掻かせたばかりなのに、その舌の根も乾かぬうちに妃になれと命令しに来たというのだから驚きだ。

 しかも、側妃だ。正妃ならまだしも、側室になれというのだから開いた口が塞がらない。

 無名の男爵令嬢が正妃で、由緒正しき公爵令嬢が側妃なんてありえない。王妃の序列が逆である。

 怒りを通り越して、得体の知れないものを見る目で王城に帰っていく馬車を見送る門番たち。


「おい、何だったんだありゃ。頭が悪いとは聞いちゃいたが、あれはいかんだろう」


「しっ、滅多なことを言うな。あれでも王子なんだぞ」


「フレアお嬢様、よくあれに我慢できたな」


 フレアが出かける際、絶対王族や王宮の関係者は入れるなと厳命されていた。

 公爵のジョージは先の婚約破棄にショックを受けたのか、愛人の離れに閉じこもって出てこないと聞く。

 幸い、フレアは国王のヘンリーや元婚約者のエンリケの行動は予測していたのか、家令にあらかじめ指示を出していたので混乱は起きなかった。

 もともと、ジョージは当主として管理がずさんだし、愛人に逃げがちだった。それを取り仕切ることが多かったフレアは、使用人からも信頼が厚い。

 エンリケがいなくなって半刻ほどしてフレアは帰ってきた。

 馬車には一緒にいたユリアがいなかったが、縁談がすごく好感触だったからと説明するフレア。ちゃんとユリアからの直筆の手紙も持っている。

 その手紙は小躍りするように落ち着きがない――ユリアも相当浮かれているようだった。

 ずっと決まらなかったユリアの縁談が、急激に進んだことに、ユリアの母である第二夫人はとても喜んでいた。


「お相手は隣国であるランファンのリスト辺境伯です。王都からは距離がありますが、非常に裕福で由緒ある家柄の方です。浮気はしない実直な人柄ですので、ユリアがやらかさない限り良くしてくれるでしょう」


 国外ということに、夫人は驚いている。


「ユリアは異国へ行くの?」


「お義母様、ランファンは大国グランマニエと非常に良好な国です。この国より物価は安く、景気が良いところです。下手に国内の貴族に嫁ぐより豊かな暮らしができるでしょう。

 しかもリスト辺境伯家の領地はブランデルの国境沿いですから、こちらの言語や文化にも精通しております。異国といっても、苦労は少ないかと思われます」


「そ、そう?」


「お義母様。ユリアも嫁いでいけば貴女の肩の荷も下りるでしょう? 最近のお父様は愛人にうつつ抜かしておりますから。他の女に入れ込む男ほど信用できないものはありません。だから、ね? お義母様の幸せのために、生きても良いのではと思うのです――そのために『お話』を少ししませんか?」


 そういって、白魚の手を義母に差し出すフレア。

 青い双眸に、正面から射すくめられた第二夫人は「あ、ああ……」と譫言を漏らして真っ青になる。その目には涙が浮かび、だが救いを求める様にフレアを見ている。

 かなり葛藤していたが、やがて彼女はフレアに手を伸ばした。

 膝を付き、縋るようにフレアに抱き着く。

 その姿を見下ろすフレアは笑みを浮かべていた。





 アシュトン公爵家に門前払いを食らったエンリケは、機嫌を損ねて数日部屋に籠っていた。

 フレアは涙を浮かべて喜んで出迎えてくると思ったのに、フレアどころか誰一人公爵家の人間は顔を出さなかった。不敬にも程がある。

 だが、不貞腐れても侍従に女を要求することは忘れなかったので、一人で過ごすことはほとんどなかっただろう。

 その間、フレアから来た手紙や連絡は仕事の引継ぎについての事務的なものだけだった。

 どうせフレアにまたやらせるからと、エンリケはすぐに見るのをやめた。元々難しい事やまどろっこしいことは大嫌いなのだ。

 エンリケが欲しかったのは、謝罪と許しを乞う手紙だ。事務手続きの書類ではない。

 イラついてもっといい女を呼べと侍従に八つ当たりした。

 侍従が用意する女は従順だが、フレアの容色より大分劣るとしか言いようがなかった。外見もそうだが、所作や喋り方がやぼったい。


(やはり側妃に取っておくべきだった。フレアは可愛げはないが、美しさは俺の知る美女たちの中でも一番だからな。閨で調教してやればよかったんだ……)


 ベッドの上なら、あの冷ややかな表情も崩れるだろう。

 妄想に下種の笑みを浮かべるエンリケは、現実にいる隣のいまいちな女に落胆した。

 エンリケは全く変わっていなかった。

 同じ王宮で、婚約破棄をしてまで妃にしたい女性がいると叫んでいたのに、全く説得力も誠実さの欠片もない。

 満足な女が手に入らないエンリケの怒鳴り声は、廊下の外までよく響いていた。

 ミニスを呼びたかったが、そうもいかなかった。ミニスはミニスで忙しかった。王子妃――可能ならば王太子妃としての器量はあるかと、さっそく教養や学力レベルを調べさせられていた。

 だが、外見がちょっと可愛いく胸が大きいことが取り柄のミニス。それ以外の出来は無残な物だった。愛嬌というか、頭と下半身の緩い男へ媚びを売ることにしか能がないと教師たちは溜息をもらす。

 エンリケが拗ねるのに飽きて会いに行くと、ミニスはすぐに泣きついた。


「エンリケ様ぁ! こんなのミニスにはムリですぅ! みんなすぐ怒るし、冷たいし、事あるごとにフレア様フレア様って比較されて悲しいですぅ!」


「おお、可哀想にミニス! 俺がそんな教師などクビにしてやる! 俺の大事なミニスを泣かせるなんて、無礼な奴らだ!」


「嬉しい~! ミニス、エンリケ様の事だ~いすきです!」


 金を貰いたいくらい酷い三文芝居だ。

 エンリケが来たことをいいことに、ミニスは出された課題を放棄していた。

 二人の世界とばかりにエンリケとイチャイチャしていると、来訪者が来た。


「殿下、いつになったら書類を取りに来てくださるのでしょうか? 決裁が滞っているとこちらにまで噂が来ていますよ」


 やってきたのは長い銀髪を一つにリボンで結んだ、モノクルの男だった。

 顔立ちは繊細に整っており、体の線は細く耳は尖っている。彼はエルフとの混血なのだ。

 彼はサイモン・イエラデス。サイモンは孤児院で慰問の際にフレアに拾われた。その頭の回転の良さを買われて、引き抜きをされたのだ。

 今まで、エンリケの婚約者として、代わりに執務を押し付けられていたフレア。

 エンリケの侍従たちはいたが、エンリケの太鼓持ちとヨイショの為だけの存在であり、事務能力や補佐能力は極めて低かった。何をするにも愚鈍だった。

 当初フレアは仕方なく、補佐をできる文官を求めた。しかし、王宮から出仕した文官は、王妃のイビリですぐにいなくなってしまった。仕方なくフレアは自分の伝手や、アシュトン公爵家の使用人を使って仕事をしていたのだ。

 ちなみに、エンリケはずっと女漁りに精を出していた。

 仕事はフレア、成果はエンリケに回されるのが当たり前であり、感謝もなくその環境を甘受していた。

 当然、そんなエンリケがサイモンの言葉を素直に取り合うはずもない。


「は? そんなのフレアの仕事だろう? 俺には関係のない事だな」


 サイモンは一瞬だけ、目を鋭く眇めたが――それはすぐさま自制された。

 一瞬で沸き上がり抑え込まれた怒りと呆れに気付いたのは、本人だけである。

 これは本来、この色ボケ王子とお花畑王妃に課せられた仕事だ。

 フレアの苦労を知っていたサイモンは、この馬鹿王子にも解るようにできるだけ丁寧に説明した。


「恐れながら殿下、その認識は間違っておられます。フレア様が公務や執務に携わっていたのは、あくまで殿下の代行です。最初に執務を引き受ける際も『婚約者の間の限り』ということで契約を交わしております。

 既に殿下から婚約破棄を求められたので、フレア様は王家の執務や公務に携わる権利がありません。そもそも、やる義務もないのです。あのプロムの日をもって、フレア様は一切において無関係となっております」


「フレアは貴族令嬢だろう!? 貴族は王家のしもべなんだから、命令されればやるのが筋だろう!?」


「なりません。決裁印はいわばエンリケ殿下の玉璽。既に婚約者でなくなり、信頼関係も喪失した状態です。フレア様が触ることはありません。もとより、これは全てエンリケ殿下が行うことです。アシュトン公爵家の使用人たちも、勿論撤収させていただきます。

 執務や公務に携わるものは、既に各大臣及び貴族院の許可の元、議会の資料室で管理しております。決裁印は大事な物ですので、陛下の預かりとなっております。では、失礼します」


 取り付く島もない、淡々とした言葉で切り捨てたサイモン。

 下手に関われば、フレアが罰せられるのだから、エンリケの言葉を取り合ってはならない。

 サイモンの主人は、エンリケでも王家でもアシュトン公爵家でもない。フレアという個人だ。

 先ほどまでミニスに鼻の下を伸ばしていたエンリケは、サイモンの言葉に途中からついていけなくなっていた。

 引き留めることもできず、優秀な人間が目の前からいなくなることを分かっていない――今まで、執務や公務に携わっていたのは、すべてフレアとフレアの使用人たちだけだ。

 自分の侍従や取り巻きが、全く使い物にならないと気づいたのはだいぶ後になってからだった。






それからエンリケは散々だった。

 国王に、大臣やいつも小うるさい教師たちから事あるごとに婚約破棄のことを槍玉にあげて怒鳴られ、嘲笑された。不当な対応だと訴えても、王妃であるグラニアは同意しても、それより立場の上である国王のヘンリーが当たり前だといっそう怒るのだからどうにもならない。

 怒鳴りはしなかったが、フレアとの婚約破棄を知った途端に膝から崩れ落ち、絶望して泣き出す者もいた。だんだんとその余波は広がり、高官であっても職を辞する者が相次いで、王宮はどんどん空気が悪くなってきた。


「なんなんだ! どいつもこいつもフレアフレアと!! 俺がこの国の王子だぞ! ミニスを婚約者にしろと言うのにまだならない! この国の新たなる門出を祝う気がないのか!?」


「エンリケ様ぁ? そんな怖い顔しないで。そうだ! 気分転換にお出かけしましょう? お城の人たち、酷いことばかり言ってミニス、かなしいです~」


 ミニスは婚約破棄直後、少しぎこちなくなっていたが、今ではすっかり元通りだ。

 フレアを追い出した婚約者用の一室を改装し、可愛い部屋にすると意気込んでいる。

 フレアがいたときは簡素で味気のないものだった――一部の者たちは、改装の許可を出さなかったグラニアの嫁(予定)イビリだと知っていたが、誰もがグラニアを恐れて口をつぐんでいた。

 フレアやアシュトン公爵家からの抗議が無かったので、王も黙認していた。

 誰もがフレアがエンリケに――王家に愛想をつかす理由を理解していた。






 アシュトン公爵家では、当主のジョージが書類を見て目を丸くしていた。

 そこには、おおよその計算であるがエンリケとの婚約破棄についての慰謝料や、浮気の慰謝料の金額が示されている。

 これは、フレアを王家に嫁がせるときの持参金のおよそ数倍になる。

 

「こ、これほどになるのか……」


 フレアは予想範囲内なので、顔色一つ変えていない。

 ジョージは真っ赤になったり真っ青になったり忙しない。だらだらと汗をかいている。

 だが生唾を呑んで、目を皿のように丸くしている。欲望に頬が紅潮していた。ジョージにとってはそれだけ娘がないがしろにされ、傷つけた代償ではなく別の物に見えているのだろう。

 爛々とした目は、まだ見ぬ金貨に眩んでいた。その目には、理不尽に晒されていた娘の姿は一切映っていない。


「お父様、これはまだ途中です。分かっている範囲、確定している範囲の請求ですわ。まだ終わっていませんの。浮気の中には殿下だけでなく、女性側に請求できるものもありますので」


 フレアとしては意に沿わずエンリケと関係を持たされた女性や、エンリケに弄ばれて深く後悔している女性に対しては請求しないつもりである。見返りに、エンリケから贈られたプレゼントや手紙を不貞の証拠として提出を求めている。

 女性やその実家の中には、自分たちではあの王子に復讐できないから、と涙ながらに懇願してくるところもあった。家族を失ったり、家の評判を落とされたところも少なくない。

 王家や王子という肩書きは強く、平民や下級貴族だと間違いなく握りつぶされる。訴えを起こしたら、逆にやり込められる可能性は高い。そうなれば個人の被害ではなく家ごとやられるので、苦渋の決断をしたところも多かった。


(あのミニスという娘はどうかしら? エンリケ殿下よりはお花畑ではなさそうだったけど)


 慰謝料という大金に目が眩んでいる父親は、王家からどんなに打診されてもフレアもユリアも差し出さないだろう。

 フレアにはああは言っていたものの、王家と縁続きになる実績と、実害を考えあぐねていた所での婚約破棄だ。

 エンリケは浪費癖もあり、自分に割り当てられている予算では足りず、婚約者費用に手を付けていた。

 婚約者費用はその名の通り、婚約者への贈り物として使用が許されている予算である。

 本来ならば年中行事や公務等で、エンリケとフレアは社交をする必要がある。そこで、仲睦まじさや、センスを周りにアピールする一環でドレスや宝石を贈る。中には旅行や遠乗り用の馬を贈った王子も過去にいたが、基本はそういう用途に使う物である。

 それに飽き足らず、アシュトン公爵家に関わる商会でツケの買い物をし、時にはフレアの名やアシュトン公爵家の名を出して散財や借用をし、踏み倒すことが年々増えていた。

 それは結果、借用した本人のいる王家ではなく、支払える資金が見込めるアシュトン公爵家に支払いを求められる始末だ。

 王家に伝えても、結婚するのだからと濁されて、ほとんど返ってきていない。

 それだけ散財しても、フレアに対して花一輪すら贈らない。

 エンリケは当然、婚約者同士のやり取りすら守らない。今まで、フレアにドレスやジュエリーなどが贈られないのは至らないからだとジョージは叱責されることもあったが、それはフレアの問題ではない。


(その時の『運命の恋人』さんに貢いでいたものね。横領だと分かっていないようですし)


 紅茶の馥郁たる香りに目を細め、優雅にカップを傾ける。

 悪くない茶葉だ。父の好みで流行遅れの葉だが、一流のものなのは違いなかった。





 公務も執務も放棄して、ミニスと買い物で散財しまくり、王宮に戻らない。運び込むたびに、一向に減らないどころかどんどんたまる書類にげんなりした騎士達。

 フレアが今までやって最低限にも程があるほどの仕事すらなかったエンリケ。

 いきなりやれと言われてできるはずがない。周囲からやれとプレッシャーを掛けられ、逃げた。婚前旅行として、観光地に視察という名の豪遊をしにいってしまったのだ。

 その頃、王宮では怒鳴り声が響いていた。


「エンリケ! エンリケはどこ!? どういうこと!? フレアと婚約破棄したですって? いないならあの女をここに呼びなさい!」


 王太后――ゾエ・ブランデルが豊麗な体から怒りをほとばしらせながら、大股でエンリケの離宮を突き進んでいた。

 しっかり白粉の叩いた顔ですら隠せないほど、その顔は怒りで真っ赤に染め上がっている。

 王太后が忌々しく呼ぶあの女とは、王妃グラニアである。エンリケの生産元だ。


「あの厄病神め……母親が母親なら、子供も子供ね。ブランデルを滅ぼすつもりなの!?」


 ゾエにとって、グラニアは悪女であり、王室最大の汚点であった。

 これでその子供のエンリケがまだ使い物になればよかったものの、エンリケはそれに続くか、それ以上の駄作だった。

 グラニアさえいなければ、ブランデルの腐敗はここまで進まなかっただろう。

 ゾエは最初からグラニアを嫌っていた。憎んでいたと言っていい。

 ずっと国の為と我慢していた。大事な息子を誑かし、夫が亡くなり、引退して可笑しくもない高齢のゾエに仕事を押し付けてのうのうとしている放埓な女。

 あの女はそれに飽き足らず、ゾエとヘンリーが苦労して見つけたフレアにも難癖をつけていた。あの愚かなエンリケをカバーできる程の婚約者を育て上げたのに、それが余計、気に食わなかったのだろう。

 エンリケはエンリケで努力すらしないで、優秀な婚約者を僻んで貶していた。

 だが、この結婚がブランデルに必要な政略であると、フレアは幼いころから理解していた。粛々と、ただ自分の役目を全うし続けた。

 自分が国の歯車だと受け入れ、淡々と。

 彼女に一切、エンリケへの情などない。王家に対しても、主従としての立場や義務はあっても、それ以上は――と考えてゾエは首を振って考えを追い出した。

 あの聡明な――そして冷徹に凍った双眸を思い出すのが怖かった。

 それより愚か者をもっと叱らねばならない。

 いくら言っても足りなかった。怒りと失望はいくらでも湧いてきた。


「あの女やエンリケに、フレアの髪一筋分でも思慮があればよかったのに!!」


 血を吐くようなゾエの本音は、彼女の侍女と侍従しか聞くことはなかった。








 息子のエンリケがフレアと婚約破棄をして、ミニスという令嬢と新しく婚約すると報告したいと相談を受けた。

 グラニアは国王のヘンリーと恋愛結婚である。

 その大恋愛は、ブランデルでもロングセラーの小説となり、演劇や歌劇の題材となっている。吟遊詩人たちはいまだに人気の曲として歌い続けている。

 それだけ、グラニアとヘンリーの結婚は皆に祝福されたものだったのだ。

 それを聞いて育ったエンリケは、当然ながら恋愛結婚に憧れた。

 だが、グラニアと結婚したことにより、ヘンリーは本来いた婚約者とその母国と険悪な仲となり、多くの共同事業が頓挫して、貿易もかなり減った。

 母方が卑しい血筋の王子は他国から相手にされず、ヘンリーの時の派手な婚約破棄もあって、ブランデルの上級貴族からもそれとなく断られた。

 それでも何とか、公爵令嬢を婚約者にすげることができた。

 その家はグラニアとかつて恋仲にあった一人の男の実家だった。恋人の名はケイネス・アシュトン。今でも密やかな関係を続けている。不倫の末、王に隠れて、子を生んだこともあった。

 それくらい気に入っていたケイネス。

 彼は可哀想な人なのだ。

 グラニアとの関係がバレ、先代アシュトン公爵に追放されたケイネス。学園のプロムでの婚約破棄で、グラニア側にいたのが逆鱗に触れたのだ。

 優秀であったケイネスは廃嫡となり、すぐ下のジョージがアシュトン公爵家を継ぐこととなった。

 ジョージはケイネスと違い、顔立ちも成績もぱっとしない男である。優秀なケイネスへの劣等感を拗らせ、悪評判があったというのに王家との婚姻に頷いた。

 その結果が、妻のクレアの軋轢と別居。クレアもグラニアたちの婚姻を良しとしない考えを持っており、エンリケとフレアの婚約を無くさないと戻らないと実家に行ってしまった。

 しかし、それに反省するどころかジョージはここぞとばかりにフレアに言いきかせた。期待と重責が幼いフレアにのしかかり、幼いころから他の令嬢や令息と比較にならないほどの教養を身に付けさせられていた。

 そして、ジョージよりクレアに似ていたフレアは、ぐんぐんその知識を吸収し、才能を多方に開花させた。

 幼少期から、非の打ち所のない淑女としてフレアは完成していた。

 神秘的な美貌に完璧な所作。一目見て、惚れっぽいエンリケはフレアを見初めた。

 本人は忘れているようだが、国王夫妻や王太后が言う前から、エンリケはフレアを妃にすると言ってきかなかった。



 だから、グラニアはフレアが大嫌いだった。



 生まれも育ちも、貴族令嬢として、王族の配偶者として一分の隙も無いフレア。

 育ちが卑しい、血が劣等だと散々周囲に嘲笑われたグラニアと違い、フレアは最初から皆に歓迎されていた。

 ヘンリーが民衆を扇動する必要もなく、根回しもなくあっさりと王子の婚約者の座に就いた。

 婚約者となってからは、誰もがフレアを褒めそやす。

 その中には、かつてグラニアの礼儀作法やマナー講師を担当していた婦人たちすら舌を巻き、絶賛するほどだった。

 グラニアを毛虫か汚物のように扱う王太后ゾエも、フレアを気に入って目を掛けていた。

 最初から羨望と称賛を受け続ける少女に、グラニアの怒りが煮え立った。

 だから、身の程を教えてやった。

 お前はただの公爵令嬢であって、お情けでエンリケの婚約者にしてやっているのだ。

 身の程を弁えろと、口を酸っぱくしてお茶会という名で呼び出しては教え込んだ。

 フレアは表情の見えない瞳で、大人しくその言葉を聞いていた。

 なのに、あの小娘は度々エンリケよりも称賛を浴びた。


 苛立った。憎悪した。

 その頭に紅茶を掛けてやった。たっぷり説教をした後の冷たくなった紅茶を、真冬の中庭で注いでやった。

 その高貴な血筋を証明する薄い色の髪が、小汚くまだらな茶色に染まるのが愉快だった。

 だが、その後は決まってフレアは手を抜いて、エンリケにできない仕事を回すようになった。エンリケは次期国王であり、雑務をするような立場ではないというのに。

 周りに褒められているくせに出来損ないの小娘に失笑した。

 それをお気に入りの夫人や令嬢を集めた茶会でこぼすと、みなはグラニアの考えをよく理解してくれて、同情をしてくれた。


(なんてかわいそうなエンリケ。あんな薄っぺらな小娘と一緒にならなければならないなんて)


 時折、フレアやゾエがエンリケの交友関係に口出ししてくる。

 まだ子供なのだから、多少遊んだって罰は当たるまい。そうして勉強させてやる広い心を持てないのか。

 時に、その遊びは少々やり過ぎて、夫人や令嬢を孕ませてしまうことが有った。

 中には、エンリケにこっぴどく振られて自殺をしたのもいる。迷惑な話だ。あんな下級貴族の小娘ごときが、次期王のエンリケに相応しいと思っていたのだろうか?

 最初にボヤとなってしまった火遊びに、フレアは気分を害したようでエンリケと王家を相手取って何やら約束をさせられた。

 フレアの話は小難しくて鬱陶しかったし、辛気臭い神殿の干からびた老人が喋っていたのでグラニアは内容を覚えていない。

 とりあえず、サインをすれば今後フレアが婚約を続けるし、エンリケのフォローをするということだったので玉璽を愛人の侍従に取ってこさせて書類を作った。

 あとでヘンリーが珍しく怒っていたが、フレアが婚約を継続するならと引き下がった。

 どうせ結婚すれば問題ない事だし、最悪あの出来損ないは側妃か愛人にでもすればいい。

 いくら名家の令嬢でも、美しくても、あの冷ややかな性格では男に嫌われる。

 貰ってやるという男は現われないだろう――そうグラニアが笑えば、侍女も侍従たちもその通りだと笑っていた。

 その反応に満足したグラニアは、その笑顔に嘲笑や侮蔑が混じっていることに気付かない。

 媚び諂い笑みの裏で、エンリケやグラニアがフレアを手放した瞬間、獲得に走るために目を光らせているなんて知るはずもない。

 グラニアにとって、フレアは取るに足らない存在でなければならなかった。当然のように周りにそれを求め、いつしかそれがグラニアの中で覆ることのない真実となった。

 だから、エンリケが婚約破棄をしたいと言ったのに賛同した。

 フレアはここ最近またつけあがっているし、しかも、エンリケの成果のはずなのになぜかフレアが絶賛されて、人望がある。これ以上、あれが王宮でえらそうな顔をするのは虫唾が走る。それなら、ミニスという娘の方が、躾直しが利きそうだった。




 プロムで、エンリケは婚約破棄に成功した。

 紹介されたミニスは、フレアより頭の悪そうな女だった。家も大した貴族ではないし、多少躾を厳しくしても問題ないだろう。

 正式な王子妃としての躾は、婚約が成り立ってからだ。

 今後、フレアの顔を見ずに済むと思うと愉快でたまらなかった――なのに。

 一連の騒動を聞いたヘンリーは口から泡を吹かんばかりに狼狽し、絶望して、エンリケを罵っている。ゾエは激昂してエンリケに扇を投げ、グラニアを罵った。

 彼はフレアとの婚約破棄を白紙に戻そうと動いている。だが、それはうまくいかなかった。次の策として、アシュトン公爵家とつながりだけでもと次女のユリアとの婚姻の打診をしたが、それも失敗に終わった。

 時すでに遅く、ユリアはプロムから日をそう経たずして結婚することになったのだ。

 しかも相手は外国の辺境伯で、婚約期間をすっ飛ばして結納済み。ユリアは早々にリスト辺境伯家に行ってしまい、今更どうこう出来なかったのだ。

 これにはグラニアも少し腹が立つ。なんと不敬な連中だろうか。

 王家というブランドに弱いジョージなら首を縦に振るだろう文句を並べて、婚姻の打診を何度も出すが、どれもこれもなしのつぶてだった。

 そして、間もなく王族の公務が回らなくなり始め、ヘンリーやゾエは婚約の打診どころではなくなってきた。

 その仕事はエンリケやグラニアにまで来た。今までフレアが全て仕切っていたので、全く分からない。

 小難しい文字ばかり並ぶ書類は、少し読んだだけでめまいがする。

 仕方なくフレアを呼び戻そうとするが、何度手紙を書いても返事が来ない。今までは仕事内容の事務的な連絡は来ていたのに、ある時を境にぱったりと来なくなったのだ。

 グラニア直々にアシュトン公爵家を訪ねても、先触れもないと困ると門をくぐることすら許されなかった。

 暫くして、漸くフレアから連絡が来た。

 やっと反省したかとグラニアはひっそりとした安堵と、尊大な怒りを抱いていた。

 だが、その楽観は長くは続かない。

 その連絡は、エンリケやグラニア、そして王家を相手取った訴訟だった。










 フレアは優雅に紅茶を味わっていた。

 耳を擽るような可憐な小鳥のさえずりが聞こえ、柔らかな風が木々を揺らす音と爽やかなせせらぎが聞こえてくる。

 自然な川ではなく、噴水から流れ出た水を排水するための人工的な川だ。庭師が上手く風景と調和させているのが見事であった。 

 フレアは王都のアシュトン公爵家本邸ではなく、国境沿いの長閑な別荘地に来ている。

 婚約破棄とエンリケの不貞に関する慰謝料の回収は、神殿に任せてある。

 前払いで盛大な札ビンタならぬ、金貨袋で横っ面を引っぱたいたので、キリキリ働いてくれるだろう。

 あちらはブランデル王家と、フレアより長い遺恨があるのだから。

 それに、きっちり慰謝料を取れれば、それだけフレアから見返りがくる。

 もともと何度も不貞を繰り返すエンリケが悪いのだし、神殿の教義として貞節な愛は美徳だが、淫奔というのは罪悪の一つである。

 王都に残してきた使用人たちの話では、ジョージはすっかり慰謝料に目が眩み、王家からの打診を全て突っぱねて、社交場ではいかにも善良な父親面して「これ以上娘を傷つけられるのは我慢できないのだ」と嘯いている。

 実に今更である。

 少し勘が鋭い者や、耳聡いものは王家がエンリケの愚行により訴えられていると気づいている。そして、その慰謝料にジョージが目が眩んでいる事は自ずとわかる。

 これまで散々な扱いを受けていたフレアに見向きもしなかったのだから、ジョージがいくら熱弁していても説得力の欠片もない。

 そんなだから、母のクレアだって王家との婚約がなくなっても戻ってこないのだ。

 クレアはいつでも自分のところを頼っていいと、ジョージの目を盗んで手紙と小切手を握らせて出て行った。

 子供に渡すものではないが、優秀なフレアなら活用できると渡したのだ。

 下手に現金や宝石を残しておくと、ジョージの愛人や異母妹に強奪されると配慮して、持ち運びやすく隠しやすい小切手を残したのだ。

 とりあえず、最後の手段であり、母の愛である手紙と小切手は取ってある。

 グラニアのイビリが苛烈だと聞くと、すっとんできて祖父の屋敷に逃げようと、フレアを守りに来たことが有った――でも、フレアはその頃には復讐を考えていたので、首を縦に振らなかった。そして、大事な母はあの父のせいで苦労してほしくなかったし、グラニアやエンリケの嫌味を浴びせられたくなかった。

 思考にふけっていると、声がかかる。


「フレアお嬢様。ユリアお嬢様よりお手紙が来ております」


 綺麗に磨かれた盆に、一通の封筒を乗せて持ってきた壮年の執事。

 彼が父ではなく、フレアを主と仰いだのはだいぶ前だ。

 フレアは手紙にペーパーナイフを滑らせる。手紙を見ると、略式ではあるが婚姻をしたと報告があった。来年の吉日を占ってから、盛大な結婚式を行うと連絡があった。

 電光石火でリスト辺境伯を落としたユリア。その手際の良さには舌を巻く。


(ドストライクの筋肉(外見)性格(中身)だったから、ユリアも気合が入っていたものね)


 フレアとしても、ユリアの結婚は朗報だ。

 ジョージは『ユリアが辺境伯に嫁ぐ』という額面通りの事実しかわかっていない。それが外国であることも、第二夫人も一緒に出ていくことも聞き流していた。

 王家の相手で忙しいと、やけに楽しそうにしている――実質は、慰謝料の支払いが待ち遠しくて、他に対して興味を失っているのだ。


「リスト卿のご家族は多いから、顔ぶれを揃えるのには時間が掛かりますものね――お式が華々しくなるようにしっかり心付けを包んでおいてくれるかしら」


 フレアは辺境伯家の事情や、風習を知っていた。あの辺りでは婚姻や同居を先にして、式を後で一族や親族分家や知己を招待して、盛大にやるのも珍しくない。

 特に辺境伯家は、都会のお嬢様が嫁いできて、いざ結婚した後に田舎に散々文句を付けて脱走する事件が何度かあった。中には、蓄えや家宝を盗み、使用人と駆け落ちなんてのもある。

 それを防ぐために、先ずは環境に馴染んでくれるかを試すためでもあるという。リスト辺境伯家の先人の苦悩が伺える風習でもあった。

 幸い、幼い頃は平民だったユリアは、田舎だろうが領民より家畜が多くても気にしない。むしろ楽しんで乳しぼりやチーズ作りを習い、時にピッチフォークを振り回しているらしい。

 ユリアが上手くやっているようで安心した。

 ランファン語は勉強中だそうだ。恋人の国の言葉は覚えやすいと聞くし、ここぞというときの集中力は目を見張るユリアだから、すぐにマスターするだろう。

 結婚祝いと共に、いくつか語学の本を贈るようにも指示した。


「畏まりました。既に十分な結納金は収めておりますが、それ以上にと?」


「ええ、お義母様も預かっていただいているんですもの。流石に家宝の宝石を渡せはしないけれど、出し渋って家族仲が悪いなんて思われては大変よ。

 そうね……ユリアは真っ赤な薔薇よりピンクのマーガレットが大好きだから、とびきり素敵な花束をいつでも用意できるように温室を作っていただくように伝えてくれる?」


 式には口出しする気はないが、妹の好みを教えて助言する程度なら許されるだろう。

 と言っても、渡す金子は温室を一つ二つ建てた程度では消えないものだ。残りは好きにすればいい。こちらは公爵家なのだから、それくらい大きく構えて丁度いい。

 きっと、結婚式はたくさんのマーガレットが用意できる季節に執り行われる。

 リスト辺境伯家から、ユリアを紹介して貰ったことに関しての感謝の手紙が来ている。

 ユリアのかなり積極的なアプローチもあり、リスト辺境伯とは非常に仲睦まじいと聞く。もしかしたら、おめでたが先になるかもしれない。

 その頃には、王家はあらゆるものを搾り取られて虫の息になっているはず。

 ふと、執事がまだ残っていることに気付いたフレア。使用人の模範のように感情の読めない、だが柔和で人当たりの良い笑みを浮かべている。

 フレアが視線で促すと、彼はこくりと頷いて話し出す。


「フレアお嬢様。その、実はフレアお嬢様へ縁談が多数寄せられております。旦那様はまだ早いと放置しておりますが……」


「いい判断ね。どのあたりが動くか予想はついているけど、早めに返事はしなくてはね」


 一礼した執事は後ろに控えていた従者たちに合図をすると、ワゴンに乗った塔のような釣書の山が出てきた。

 それも、一つや二つではない。次から次へと出てくる。

 その釣書の表紙や装飾を見ると、届いた順かつ高貴な家でより分けているようだ。

 フレアはそれを特に驚くことなく一瞥し、手近な一冊を手に取った。








 エンリケは旅行していた途中だったが、ミニスともども王宮へ連行された。

 建前は次期国王として、国内を遊学するという言い訳を用意していたが、行く先々が観光地ばかりなので当然バレた。


(完璧な計画だったはずなのに、見破るとは流石父上だ)


 見破るも何もない杜撰な計画だ。しかも勝手にまたアシュトン公爵家のツケで豪遊しようとして、周囲から顰蹙を買っていた。あれだけ派手にやらかしたので、既に婚約破棄が伝わっていた。アシュトン公爵家――フレアに睨まれることを恐れた商会らから、正しく請求書が王宮に回されていた。

 その中には、深夜に歓楽街に赴き、店を貸し切った分もあった。ボトル一本で複数世帯の庶民の年収が消える酒を何本も空にしたあげく、名高い娼婦たちと夢のようなひと時を過ごした請求書も入っている。

 これだけで、勉強する気もなければ、浮気や婚約破棄を反省していないのも良く分かった。

 ヘンリーやゾエに特大の大目玉を食らっただけでなく、手を鞭で叩かれて飛び上がった。これは良く行われる子供への罰の一つだが、甘ったれのエンリケは初めて叩かれた。

 エンリケのやらかしたことを考えれば、牢に裸に繋いで叩かれてもおかしくない。背中の皮が切れて血だらけになっても、この怒りは収まらないだろう。


「公務や執務を放棄するに飽き足らず、反省もせず散財とは……嘆かわしい」


 苦虫を噛み潰した表情のヘンリーに、エンリケは減らず口を叩く。


「散財ではありません、父上。ミニスが婚約者として我が国を知り、相応しい装いになるために、必要なことです」


 失望も露わなヘンリーに言い返すエンリケ。その態度が余計に怒りを増やすことに気付いていない。

 相応しい装いとは、あの大道芸の道化の方が慎ましいようなけばけばしい衣装のことや、石だけはやたら大きいが輝きがいまいちで、流行遅れのアクセサリーのことだろう。

 エンリケが価値を見る目が節穴で、センスも悪趣味だということだけは良く分かった。やたら派手で全く品がない。

 ヘンリーは下らないとばかりに目も合わせようとしなかった。

 事実、エンリケのやっていることは悪い結果しか呼びこまない。ただでさえ悪評が立っているのに、反省しているふりもできないのかと呆れた。

 ゾエも、反省の色のないエンリケに厳しい顔をしていた。


「エンリケ。お前の予算はとっくに使い切っていたでしょうに。お前の、何処に、そんなものがある?」


 いつになく険しい表情と、きつい語気で問うゾエ。これ以上、国庫からは出さないと言外に聞こえる。

その迫力に、エンリケは引け腰になりつつも答えた。


「婚約者費用を当てるつもりです」


「馬鹿を御云い。それは婚約者になった人間用。今年の予算はフレア宛の贈り物だけ。その小娘は、婚約者に内定すらしていない。それはお前の個人資産から出すのですよ」


 鼻で嗤うゾエは、この愚か者がと冷えた視線が言っていた。

 そこには祖母と孫という関係でありながら、愛情や憐憫はなかった。

 ゾエのいう通り、今残っている婚約者費用はフレア用のだ。予算が下りた時はフレアが婚約者だった。ミニスはまだ内定すらしていないし、もし途中で変わった場合は、改めて予算を取り直さねばならないのが王宮のルールだ。

 もしミニスに買い与えたかったら、エンリケのポケットマネーから賄わねばならない。

 ゾエが愚かな孫にもわかるように丁寧に言ってやるが、当の本人はつまらなそうに聞いていた。思い通りにならないと大抵こうだ。

 エンリケはエンリケで、昔から小うるさく厳格なゾエが苦手だった。

 ゾエの言葉に大臣の一人が「既に殿下の資産は様々な女性に貢いでなくなっております」と申し訳なさそうに言った。

 ずっと黙って気配を消していたミニスが、今になって怪訝そうな顔をする。


「エンリケ様? あたし以外にも彼女がいるの?」


「違うよ、ミニス。彼女たちは運命の人じゃなかっただけだ。もう関係ないよ」


 いつもならうっとりとする笑顔だが、その自信たっぷりな笑顔や、見せつけるような白い歯がやけに軽薄に見えた。

 最近、ミニスはエンリケに対してそう思うことが増えていた。旅行中もいろんな女性をナンパしようとしていたし、ミニスがそれに文句を言うと露骨に嫌な顔する。

 今も大丈夫だと誤魔化すように頷いていたが、胸には重苦しいものが蟠っていた。

 その後、エンリケは怒れる国王と王太后から逃げるように私室に戻った。

 移動中、エンリケはやたら饒舌にしゃべり続けていた。

 ミニスがエンリケで出会ってまだ半年。親密な仲になったのはここ一か月である。

 ふと、プロムでフレアが言った言葉が過る。

 エンリケは酷い浮気性な男だと言っていた。深い仲になっても飽きれば捨て、子供ができても責任を取らず、幾度と逃げてきたと言っていた。

 それに、折角煌びやかな王宮に来たというのに周囲の反応は酷く冷たい。王子の恋人だというのに、全く尊敬の念を感じられないし、好意なんて欠片もない。ただ、みんな事務的に淡々と対応してくる。

 あるとすれば、フレアと比較して嘲笑や失笑ばかり。

 付けられた講師たちは、呆れと落胆ばかり。

 エンリケはデートの時や、学園でエスコートしてくれた時はスマートで煌びやかだった。でも、王宮では鼻つまみ者だった。

 皆ひそひそと囁いている。ずっと「ついにアシュトン公爵令嬢にすら捨てられた」と言っている。

 婚約破棄されたのはフレアのはずなのに、惨めになっているのはエンリケとミニスだった。

 やけに楽し気な声に、エンリケの名が出たと思ったら、フレアに婚約の打診をしたら返事が来たと喜ぶ大臣の声だった。彼にはまだ若い息子がいる。今まで、全く音沙汰がなかったから、感激しているようだった。

 フレアはエンリケとの婚約が無くなったからといって、未婚のままになる気はない。エンリケの浮気を清算したら新しい人を探すつもりらしい。

 つまり、復縁する気は一切ない――しかも引く手あまたの令嬢となった。


(ちょっと待って。あの人がエンリケ様やあたしの分の勉強やこーむ? っていう仕事しなかったら、だれがやるの?)


 エンリケは、フレアがまだ意地を張っていると思っている。

 だけれど、ミニスの見たフレアはエンリケに対して愛どころか情すらなさそうだった。

 プロムでは「こんなのだから捨てられるんだ」とせせら笑っていたが、実際は違うのかもしれない。エンリケの復縁してやっていいという打診に、手紙すら返してこない。最初は飛びついてきたら、笑いものにしてやろうと二人で言っていたのに、なしのつぶてだ。

 縁談について、他の人には返事をしているのに。

 恐ろしい予感がした。

 ミニスの予感は的中した――神殿から高位神官たちが列をなしてきて、フレアの代行として慰謝料の請求に来たのだ。





 婚約破棄の祝報やお悔やみ、釣書に返事を書き終わったフレアは、羽を伸ばすことにした。読書や刺繍、遠乗りといった久しく没頭できていなかった個人的な趣味を楽しむ。

 アシュトン公爵のジョージは、さっそく入り始めた慰謝料にすっかり浮ついている。

 フレアが公爵邸に帰らないことすら忘れて、テーラーを呼んでいた。予定もないパーティの衣装を作ろうとしているらしい。

 訴訟も順調だ。王家もエンリケも、これは違う、関係ないと抵抗をしているものの、フレアが長年集めていた証拠はたくさんあった。

 そもそも、エンリケやそれを最も擁護するグラニアも仕事の怠慢が目立つ人間で、身勝手で傲岸だった。証言も矛盾が多く、あちらが用意した味方は証言内容が二転三転し、信憑性が失われていく。

 中には裁判中に逃げ出すし、金を握らされて、もしくは脅されて証言させられたという書置きまで残してった者もいた。

 流石にこのありさまに、状況を報告しに来た神殿の使者ですら呆れていた。

 その報告を聞いても、顔色一つ変えずフレアは微笑を湛えていた。長年あれらと付き合っていたのだから、全く予想通りでしかないのだ。

 莫大な慰謝料で、王都の一等地にいくつも屋敷――むしろ城が建ちそうな勢いであった。

 毎日、この女性の件、あの浮気の件と一つずつ報告が上がっていく。

 一括して裁判したかったが、エンリケ側がこれは違うあれは違うと認めなかったので、個別に行うことになったのだ。


(結果、慰謝料が凄く増えているんだけれど……馬鹿ねぇ。個別にするから、重複払いする罪状が増えているのよ)


 無駄な抵抗せずに、さっさと認めていれば、傷は広がらなかっただろう。

 裁判が長くなっているが、取り立てる程神殿も儲かるので、追求の手を緩めない。

 最近では、市井の新聞で王家の醜聞を面白おかしく取り上げられているという。毎日のように罪状の確定と慰謝料の金額を面白おかしく書き連ねているという。

 王家は火消しに躍起となっているが、今更である。

 既に油をしっかりと撒かれ、沁み込ませた布に火を放ったように情報という名の噂は燃え広がっている。

 エンリケやグラニアでは手に負えない。ヘンリーやゾエも火傷は免れない。精々、虫の息で焼死しない様に逃げ回れるかどうかくらい。

 フレアはそれを見に行かず、聞きに行かず、ただ遠くで焼け野原が出来上がるのを待っている。

 わざわざ情報を集めなくても、親切な人たちが元婚約者のことをせっせと報告してくれるのだから、フレアはその真偽を吟味しながら時を待つ。

 対岸の火事とは言い例えである。

 フレアは今の生活に満足している。

 王宮で飲めるのはエンリケやグラニアの好みの茶葉ばかり。いかにもお菓子も彼らの好きそうな、下品で甘ったるいものだ。外見の華やかさを重視してばかりで、滑稽な砂糖と小麦粉の合成物。

 公爵邸の茶葉だって、ジョージが好む流行遅れの外国産スパイスティーか、ユリアが好むものばかり。フレアの好みを望むならば、事前に手配をしなくてはならない。

 それはそれだけ、フレアが公爵家で存在感が薄かったということだ。

 フレアは懲りもせず問題を起こすエンリケの後始末に奔走することが多かった。

 婚約者なのだから、という言葉に片づけられて、王家に良い顔をしたがる父親と、厄介事は押し付ける王妃たち。自分の尻拭いもできない本人が一番良くないが、エンリケがそうなったのは甘やかす環境があったからだ。

 そして、その環境はもう破綻した。


(こそこそしていた鼠も、いい加減に飛び出してきていい頃ね)


 馬鹿たちの影に隠れて、気色悪い画策をしていた鼠。

 今頃、長年温めてきた宿願を壊されてさぞ激昂しているだろう。


(頭は悪くないのだけれど、王妃が絡むと底の抜けたバケツみたいな馬鹿になるんだから)


 王妃は王族としてはあり得ないが、男を転がす才能だけは有った。

 優秀な王子や貴公子たちが馬鹿をやらかす程度には魅力的な女を演じることができた。


(それか聖女の資質は魅了の力を持っているのも含まれるのかしら?)


 神殿が王妃グラニアを嫌っているのは、聖女の資質がありながらも王妃という立場に靡いたからだ。その時の断り方に、配慮もなかったし、神殿の人間にはグラニアを慕う余り愚行を侵した男もいた。

 聖女に関しては、神殿が情報を秘匿している。公にされることは極めてわずかだ。

 ただ、聖女と呼ばれるからには聖なる魔力で結界や治癒、時には蘇生を行う。奇跡の御業というべき秘術を使えるなど、数多の伝承もあった。

 だから、聖女の資質がある人間はそれを行動でもって立証する。

 グラニアはそんな高尚な精神などあるはずもなく、才能は有ったかもしれないが腐らせた。魔力が強くとも、研鑽はせず人の役にも立たせなかった。だから、彼女は聖女の資質があったかもしれない人間に成り下がっている。

 グラニアは苦しむ人を救うよりも自分の虚栄心を満たし、幸せを見せつけることに生きがいを感じている。

 聖女はその名に相応しい慈愛と慈悲と志を持っている。少なくとも、フレアのあったことのある本物の聖女はそうだった。

 エンリケの婚約者として、神殿に何度も礼拝や儀式に参加することがあった。聖女は清楚で高潔な女性であり、グラニアと人柄は比べる必要がない程できている。

 彼女を見つめていると、冷淡と言われるフレアですら、ふとした瞬間に膝を付いて祈りたくなる衝動にかられた。

 聖女のカリスマというのは、ああいうことだろう。


(この騒ぎが終わったら、一度巡礼をしたいわね。殿下の尻拭いで、大巡礼は一度もできていないもの)


 大巡礼は神殿で定められた権威ある祠や神殿、教会や奇跡の起こった聖地を回る旅だ。

 これは願掛けや厄落としでやることもあるので、今のフレアにはちょうど良いだろう。

 フレアが思案していると、控えめなノックが響いた。入ることを許可すると、執事がやや強張った顔をしている。


「フレアお嬢様、お客様がお見えになっております」


「あら、ここを当てるなんて鋭いのね。ケイネス伯父様かしら?」


 フレアは居場所を誰にも告げていない。手紙は小まめに送らせているが、それはもともと王都の公爵邸に着いたものだ。


「会いましょう。紅花鳥の間にご案内して差し上げて」


 部屋着であるワンピースから、ドレスに着替える準備をする。

 レディの家を先触れなく訪れるなんて、流石はあの父の兄である。

 ふと、机にあったエンリケからの手紙を見る。しつこく何度も来るので、一応は目を通している。これも後で慰謝料の増額に使えそうな罵倒がたっぷり入っているのがまた笑えた。

 綺麗な文字は、明らかな代筆で、だがその居丈高な内容は如何にもエンリケらしい要求だった。

 彼はまだ自分の立場が分かっていない。

 まだ自分が優位で、高い位置にいると思っている。その足元が頑丈な煉瓦ではなく、砂の城だと気づいていない。







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 エンリケの私室は散らかっていた――というより荒れていた。

 調度品は散乱し、壁は穴が開いたり壁紙が乱暴に千切られていたりしている。シャンデリアにはなぜかクッションが引っ掛かっているし、色々な破片が散乱していた。

 エンリケが婚約破棄をしたフレアだが、彼女がいないと執務が滞る。仕方ないので側室として迎え入れてやると妥協してやったのに、その答えが慰謝料請求だった。

 どこまでもエンリケの思い通りにならない。

 立場が悪くなったのも、叱責されているのも、困窮しているのもエンリケ。

 フレアは窮地に陥るどころか、引く手あまたで持て囃されている。いつ社交界に復帰するのだろうかと、みなが気配を窺っている。

 これでは、エンリケが捨てられたようではないか。

 確かに婚約期間中に多少は女で遊んだが、王位を継ぐ立場である自分が、少しくらい羽目を外して何が悪いと開き直っていた。

 エンリケは両親の様に、真実の愛で結ばれた恋人と結婚したかった。

 家柄と見てくれだけで、エンリケを認めないフレアは王妃に相応しくない。

 両親のように互いに深く愛し合った夫婦として、みなに祝福された結婚をするのだとエンリケは思っていた。

 だが、ここ最近の二人は酷く仲が悪かった。顔を合わせるたびにいがみ合っている。

 エンリケの奔放さをグラニアのせいだとヘンリーが罵倒する。グラニアは烈火のごとく怒り、ヒステリックに泣き叫んで窮屈な王宮に嫌気がすると喚いている。

 そこには、エンリケの理想などなかった。

 最近は追加で回される公務はない。王太后ゾエが代わりにやることとなった。


「こんな恥に王族の名で何かをされたらたまらないわ」


 それはエンリケの為ではなく、エンリケを信用していないし、エンリケに余計な行動をさせないためだった。

 滞っている公務も王やゾエが分担することになった。

 だが、ゾエは引き継いだ仕事がフレアとの婚約破棄から一ミリも進んでいないことに酷く怒り、そして呆れた。

 そのせいで使い物にならないと判断された、エンリケの侍従や側近たちは全て解雇され、王宮に出仕することすらできなくなった。

 エンリケの周囲にいた人間はエンリケの機嫌を取るだけで、能力の低い太鼓持ちだった。

 別にいなくなっても経費削減にはなっても、デメリットはエンリケ以外になかった。

 ミニスはミニスで、一から貴族子女としてのマナーをやり直している。王子妃教育以前の問題で、姿勢や歩き方という基礎の基礎からのスタートであった。

 エンリケの妻になりたがるまともな貴族女性は居らず、プロムで騒ぎを起こした以上、ミニスを王宮で勉強させているのだ――結果は良くないが。

 つまり、エンリケは独りぼっちだった。

 時々聞こえる噂は悪いモノばかりで、フレアの訴訟が一つ終わったと思っても、過去に振った女たちが一斉に訴訟を起こし、毎日のように新しい訴状が届いて王宮の文官たちは参っているという。

 彼女たちが怒り狂っている理由の一つが、アシュトン公爵家が離れたことにより、王家の失墜を感じ、今まであそこまで献身的に支えていたフレアを酷い方法で貶めたことに激怒したのだ。

 弄ぶだけ弄んで捨てたエンリケより、その後に真摯に向き合ってくれたフレアの方が印象が良いのは当然である。

 それだけの不満をフレアが抑え込んでくれていたのだ。

 しかし、エンリケにあったのは感謝ではなく、怒りだった。


(フレアフレア、みんなフレアのことばかり! 全部フレアが悪いんだ!)


 エンリケは頭を掻き毟り、枕に拳を叩きつけた。力任せに何度も叩いていると、細かい羽毛が舞う。

 苛々しておると、唐突にエンリケの部屋の扉が開き、許可もしていないのに足を踏み入れてきた。ぎょっとしたエンリケだが、入ってきた人物にさらに目を剥く。それは王家を守るはずの王宮騎士達だったのだ。

 彼らは有無を言わせずエンリケの腕を拘束し、引きずるようにして運んでいく。


「お、おい! まて! どこに連れて行くつもりだ!? 俺はこの国の王子だぞ!?」


「北の塔です。そちらで謹慎せよと陛下からの御命令です」


 ひゅと、エンリケの喉が鳴った。

 北の塔は頭がおかしくなった王族や、大罪を犯した王族が幽閉される白い建物だ。

 魔法を使えなくさせ、身体を弱体化させる魔法が掛けられている。その為、屈強で精神の強い人間でない限り脱出どころか寝台から出られなくなると聞いたことが有る。

 エンリケは泣き叫び激しく抵抗したが、碌に鍛錬もしていない彼が敵うはずもない。

 部屋に放り入れられた途端、エンリケは強烈な虚脱感に見舞われる。

 騎士達はそれが分かっていて、エンリケを投げ入れてこの部屋に入らなかったのだろう。階段や廊下よりはるかに辛い。

 エンリケのことを見向きもせず、騎士達は施錠する。

 そして、遠ざかる足音と鎧のこすれ合う音。


「どうなるんだ、あれ?」


「さあな、処刑されるんじゃないか?」


「それよりアシュトン公爵令嬢のお加減はどうだろうか? 王都の喧騒を離れて療養していらっしゃると聞くが……」


「この一件で、あのレディが心を痛めていなければいいが」


 仕事を済ませ、エンリケにあっと言う間に興味を失った王宮騎士達。

 たったいま投げたエンリケより、遠くのフレアを慮っている。

 薄れゆく意識の中で、エンリケの絶対的な自信が崩れ始めていた。






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