第八十八話 向き合う覚悟
目の前に人の影が見えた。動き初めた影響で即座に捉えることが出来ないその影に、ジーンは行動を強制的に中断させられる。
動きを止めたのはゼーちゃんも同じだったようで、影――戦闘を中断させた男を挟む形になった。
「まだ、君の退場は許せない」
ゼーちゃんが何かを口にしようとした時、空間に歪みが生じる。そのことにジーンが気付いたのは、そこにいた人物を認識してからだった。
「君は、誰?」
男に次いで出てきたのは、ジーン達も知る人物である。
「神子、さま?」
チャチャが言葉を落とす。
突然現れた二人に、戸惑う事しかできない一同。ただ、いつでも動けるようにと、気を緩ませない事だけが彼らにできることだった。
「あれ、どうしてあなたが?」
「それはこっちの言葉。どうして君が……生きてるの?」
ジーン達など背景、そう感じられる程に二人だけで会話を進めていく。もっとも、二人ともがジーンやチャチャ、ゼーちゃんを赤子のように扱える力を持っているのは事実であった。気にも留めないのは自然なことであるのかもしれない。
「さぁ、どうしてですかね。それよりも僕としては、ミカさんが出てくることの方が驚きなんですけども」
「……君は、あちら側なのか?」
「ええ、勿論」
二人の関係性は分からないが、ちょっと話したことがある程度の関係ではなさそうだ。お互いにより深く理解がありそうだと、聞いているジーンは感じていた。
「その様子だと、お互いに想定外の状況ってことらしいですね」
「……」
神子はいつもの雰囲気と違い、顔から笑顔が消えていた。それに対し、男の方はニコニコと余裕の面持ちである。
それは、想定外ではあっても修正が可能な程度。そう考えているからであった。
「ミカさんとゆっくり話をしていたいところですが、僕にもやることがあるので失礼しますね。行こうか」
「嫌! 邪魔しないでよ! 私の好きにやっていいんでしょ!?」
この場を去ろうとする男の言葉に拒否反応を見せるゼーちゃん。今にも殴りかかりそうな勢いであった。
そんな彼女の行動に対しても、男は落ち着きを乱すことはなかった。
「勝てるんならいいけど、それは無理でしょ? だから、今日はここまで。いいね」
男は笑顔を崩すことなく、彼女をそう諭す。尖った歯を剥き出しにしていた彼女だったが、荒かった息が落ち着くとともにそれも隠れていく。
「…………しかたない、か」
あれだけ激昂していたゼーちゃんが男の言葉に従うのを見て驚くジーン。ただ、それである予想ができた。彼こそが、ゼーちゃんの契約者なのだろう。
「悔しいけど、次は負けないから……次は壊してあげる」
それが別れの言葉になった。男と共に、ゼーちゃんは姿を消してしまった。
「僕の結界も抜けちゃうか」
転移で逃げることを予測していたらしく、それを阻止するため結界を張っていたらしい。それでも男には効果が無かったようで、完全に逃走を許す形になってしまった。ただ、神子の様子からは悔しさは感じられなかった。
「……あの人のこと、聞かせてもらえますか」
二人がいた場所を見つめていたが、ジーンの言葉にゆっくりと振り返る神子。
必死に堪えているのだろうが、不安を隠し切れていなかった。眉は下がり、表情に覇気が無い。少し前までのはつらつとしていたのが嘘のようであった。
「場所を、変えようか」
ミィと合流し、神子に連れられ戦場を去る。
合流した時の暗い表情をみるに、ゼーちゃんを救えなかった事実を悔いているのかもしれなかった。失敗など考えていなかったのだろう。精神的なダメージは大きいようであった。
魔物の掃討が完了した時点で、親衛隊員達にはお帰りしてもらっていた。そのため、戦場に残ったのは戦いを最後まで見守っていた存在だけになる。
…………
野原は焼け消え、肉の焦げる匂いが残り、至る所から黒煙が立ち昇る。
雨。
終わりを告げるのは、惨劇を洗い流す雨。熱に浸食されていた大地に安らぎのひと時が訪れる。
…………
その中で彼は、彼だけは悔しさに震えていた。
目の前で起きた事なのに、手を伸ばすことが出来れば何かが変わったかもしれないのに。
そんな彼を責めるかのように空は雷雨の灰に染まり、冷たく大きな雨粒が降り注ぐ。
もう彼女を救うことなど出来ないのではないか。そんな不安絶望に包まれ、ただ枝を揺らし葉を散らす。
…………
手にあるのは、クルクルと渦の巻いた不格好な石っころ。
彼女が言うには、大好きな二人を表しているらしい。緑に流れるのは母で、青に流れるのは父。そして二つが重なった碧が私なのだと。
たった一つの、形ある宝物だ。思い出、確かに生きる力になり得るだろう。約束、確かに生きる力になり得るだろう。でも、彼にはそれが無かった。たった一つ。その宝物だけが生きる意味だった。
…………
それも、今日で終わり。大切な物など、彼には一つも残らなかった。
彼女からの贈り物は、彼女からの憎悪によって打ち消されることになった。
手を開けば、跡形も無く消えてしまうであろう。彼の力によって未だ形を成しているが、それももう限界であった。
…………
何も守れない。この手にある宝物も、この手にあった小さな手も、この手を握り返してくれた愛する存在も。何もかも。
力が無かった。どうしようもなかった。誰であろうと結果は変わらなかった。
…………
でも、彼にはそんなの関係なかった。何も残らない結果だけが、彼を押しつぶさんと重く積み重なっていた。
…………
…………
…………
どれだけの時間が経ったのか。あれだけの戦闘の後、荒れたこの地に何の用事があるというのか。彼はただ、行く末を見守る。
彼女が笑顔で暮らせる世界があったら良かったのになぁ。そんな淡い希望、幻想というフィルターをかけて。
…………
青年が一人。彼の前に立つ。
「――」
雑音。甘い世界に浸っていた彼にとって、青年の言葉は必要のない情報であった。
「――」
意味を分かろうとしない彼にとって、青年の言葉は邪魔な情報でしかなかった。
…………
未だ雨の続く中、青年は腰を下ろした。諦めることの無い意思を、青年はその力強い眼で示していた。
…………
青年の眼前に聳え立つのは大樹。この広大な地平線の中でたった一つの、大きな樹。
…………
雨に濡れ、雷に脅され、強風に晒され、それでもなお青年は大樹を前にする。
ふと、彼は――大樹はあることに気付いた。この青年はあの娘と一緒にいた青年ではないか。
彼女に取り入り、彼女を捨て、彼女を救えなかった、どうしようもない男だ。…………まるで、己を見ているかのようだと、彼は思った。
心地よい夢を抜け出し、彼は現実の世界と向き合うことにする。