第百四十九話 忘れることのないように
「……っん、ふぁ……?」
心地よい目覚め。何処からか聞こえる、小鳥のさえずり。明るく、呑気なゆったりとした時間の流れ。
ぬくぬく、温かいお布団の中にずっと居たい。そう思ってしまうくらいには、落ち着ける環境に包まれて。
「……おはよぉ」
固まりかけている身体を捻りつつ、そう一人呟くのは夜桜。誰に返してもらいたかったわけではなく、彼女の日常とでも言うべき行動の一つ。
いつもと変わらない朝。細かく見れば微々たる差はあるのかもだが、そんなことは気にする必要もない。
このままゆったりと過ごしたい気持ちはあれど、そうは言っていられない。今日はみんなと一緒にピクニック、もとい神子からのお仕事があるからだ。必要な素材の探索……楽しみが過ぎて中々眠れなかったのは内緒である。
身体を起こし、ひと伸び。出発の準備はほぼ終わっている。朝食や着替えなどはあるものの、あとは集合場所へ向かうだけになっている。
「~~♪」
ご機嫌な夜桜が泊まっているのは、神子が指定した施設内にある部屋。ではなく、ジーンやチャチャ達が使っているミィの家。
イベント前夜のお泊り会的な、あれである。勿論、エルも一緒に泊まっていた。同じ部屋に居たはずなのだが、既に姿は見えない。
夜桜がここで気付くべきだったのは、荷物すらなかったということなのだが。それには気付くことなく、そのまま部屋を出ていってしまう。
本来、自分で朝食を用意するべきなのだが、ミィがやってくれるだろうと。人任せすぎる性格のせいで手伝うという考えすらないのはどうなのか。
「おっはよー、なんよ~」
「あっ、おはよ~」
そんなことを気にするミィではないが。昔の気を張っていた頃の堅苦しさは抜け、ぽんが見え隠れすることの方が多くなってきている今日この頃。
そのぽんこつ具合が、料理をする時には現れないのが救いではある。塩と砂糖を間違えるなど、そんなミスは起きるはずもないのだ。
「はい、出来立てでーす」
「ありがとなんよ」
二人だけの空間。仕組まれたかのようなタイミングでの料理の完成。静か過ぎる朝の空気。
「ジーン達はどこ行ったんよ?」
「………………」
そう、そうなのだ。
「エルもいなかったんよね……」
「………………」
声が届いていないのか、意図的に無視を決め込んでいるのか。何事も無かったかのように、食器を洗うことを黙々と進めるミィである。
食器を洗う。ふむ……。そこから考えられるのは、既に誰かは食事を終わらせていることに他ならないということ。
自身が使ったものを洗っている可能性。だが、それにしては数が多いような気もする。複数人分の量はあると見ていいだろう。
「……いっただきまーす。なんよ」
チラと様子を窺うものの、せっかくの料理を食べないわけにはいかない。空腹であることは間違いないし、早くしろやと視覚や嗅覚が急かすのをこれ以上我慢することも難しい。
落ち着かない心よりも、空腹が勝る。目の前の欲望には抗えなかった夜桜は、ぱく。
「これ、美味しいんよっ」
「………………」
何かしらの反応が貰えるかもと期待しての言葉も、あえなく撃沈。
「むぅ……」
流石に居心地が悪くなる。そして、背後よりものすごい勢いで近づいてくる焦り。気付かないフリ、何のことですかと白を切りたいからこその、全力の逃げ。感情との鬼ごっこである。
恐怖で手が震える。
不安で味がどんどん消えていく。
サぁッと血の気が引く。
「ミィちゃん? 今、何時なんよ……?」
「時計、そこからなら見れるでしょ?」
ぬくぬくお布団あったか~い……。なんて言っている場合などではなかった。
朝ご飯おいし~い……。なんて、呑気にしている場合などではなかった。
「……いつも通りの起床時間、なんよ」
そう。いつも通りの時間なのだ。問題などあるはずもないのに、このままでは不味いというこの感覚は何なのか。
集合時間がいつもよりも早い? そんなことはない。
夜桜を置いて出発した? そんなこと、あるはずがない。
誰も夜桜を起こすことなく、勝手に出ていくなんてことは有り得ないのだ。
「ようやく返事してくれたんよね……」
「ん? ごめん、何か言ってた?」
「聞こえてなかっただけなんよか……。寝起きで声が小さかったおよが悪かったんよ」
「もう、お姉ちゃん。しっかりしてよね」
迫ってくるのは見たくもない現実だけ。
おかしい。ミィにお姉ちゃんなどと呼ばれたことなんて、一度もない。
理解ができない。この状況を正確に把握することを、何かが許してくれない。誰かが頭を弄っているような気持ちにさえなってくる不快感。
自分は正常である。自分がおかしくなっているのではない。周りが狂ってしまっているのだ。言い聞かせるように何度も頭の中で繰り返す。
もっとも、いつまでも逃げ続けるのを許してくれる身体ではなかったが。ティティに馬鹿になるほど鍛えさせられた、洗脳やは精神異常への耐性。それが役に立ったと言えばいいのか。
「ミィちゃん」
「ん? なに?」
「もう一度聞くんよ。ジーンやチャチャは何処に行ったんよ?」
「……ジーン、さん? って誰?」
嘘をついているわけでも、冗談を言っているわけでもない。
「お姉ちゃん、ほんとに大丈夫?」
その目は、真っすぐなものだった。
「熱でもある?」
その手は、優しく。慈愛に満ちたものだった。
「……ありがとなんよ。でも、うん。大丈夫なんよ」
「そう? ならいいけど……」
でも、自分の知っているミィではない。そう夜桜は確信する。
付き合いが長いわけではない。絶えず傍に居た旅をしてきたわけでもない。千の数ほど言葉を交わしたわけでもない。
でも、これは。目の前の彼女は違うのだろうと。
「およっ、難しいことはあとなんよね。一先ず落ち着くべきなんよ」
他の誰かが勝手に解決してくれることを期待するのも無駄だろう。だが、慌てたところで何かが解決するわけじゃない。
今すぐに死ぬ。という状況じゃない以上、焦りは必要以上に視野を狭める可能性があるため禁物。手遅れになってしまう……ということもあるだろうが、だとしたら既にこの状況は詰んでいるということ。
あの時こうしていれば、など後出しで思いついても意味はないのだ。
今できるのは、冷静になること。そして情報を集めるために動くこと。
「何か、あったかい飲み物を欲しいんよ」
「うん、ちょっと待ってて」
至って不自然の無いやり取りなのか。夜桜が前にしているミィにとっては、これまでに何度となく繰り返してきた日常の一つ、ということなのだろう。
どうしたものかと、頭を悩ませる夜桜である。
ともあれ、情報収集は必須。外へ出掛けてというのもアリだが、それはまだ先。まずはミィから話を聞き、それから他の人達を回っていくのが良いだろうと、雑な予定を立てていく。
神子なりティティなり、話の早そうな人に相談した方が良いのかもしれない。でも、夜桜はミィを放っておくことができなかった。なんだかそれは、少し寂しい気がして気が引けたのだ。
ジーン、チャチャを知らないという以上、もしかしたら彼女らも居ないという可能性もある。という考えには至らなかったものの、果たして真実はどうなのか。
テキパキと手を動かすミィを眺めつつ。
「ん~、まぁ。きっと、なんとかなるんよね~」
夜桜の良さなのか悪さなのか。
悩む時間など勿体ないとばかりに、頭の中を切り替えるのであった。