第百二十八話 最後に見たのは泣いた顔
小さく笑った顔は、どこか困っているようにも見える。赤黒い光に照らされた涙が流れ落ち、水が薄っすらと張っている地面で弾ける。光の加減なのか、水面の揺らぎが妙に歪んでいた。
血の池と見間違う程に鮮やかなサラサラとした色。ドロリと粘り気のある濁った暗い影。
その景色に呆気にとられたまま、声を出すこともなく時間が流れる。
薄く雲の広がった青空。熱のこもっていた肺が冷まされていく感覚がどこか心地よく。
遠くに見える月がやけに大きく見える。徹底的に水平線を邪魔する存在が排除されているようだった。
明らかに異質な空間。
先に向かったはずであるイッチーの姿が見えない。というより、チャチャから目が離せないジーン。
向こう数キロの距離があるのに。表情も、呼吸の様子も、服の擦れる音も手に取るように分かってしまう。切り取られた時間を眺めているようで、時間の感覚があやふやになってきてしまう。
切り替わった世界では森が赤い海に沈んでいた。
切り替わった世界では街が赤い海に沈んでいた。
切り替わった世界では一人の少女が泣いていた。
「どうだった?」
隣に立つチャチャに問いかけられ、やはり現実なのだと意識を引き戻されるジーン。気付けばエルも、ぷんすけも、ミカもいない。
たった二人だけの世界。
「寂しい世界だな」
「そう、寂しい……。ここは何もかもが終わった世界。私が導いた先の世界」
赤い風か、はたまた青い風か。
「もしもの世界?」
「違う。ここは実際の世界。存在が確定している世界よ」
雲に覆われた世界。雨の降り続ける世界。枯れる果てた世界。砂に埋もれた世界。
足跡を残したまま二人は、歩き始めた。
「なにも言わないんだ」
「……信じてるからな」
沈んだ砂が点々と伸び続けたままに。世界を眺め、旅をやめることはない。
「あはは、…………嘘」
不思議と暑さを感じない陽射しに身を任せ、仰向けになって寝そべるチャチャ。
「休憩か?」
すぐ隣を陣取ったジーンは腰を下ろしたまま、歩いてきた道を見返す。
なんて贅沢な世界なのだろうか。
風に撫でられた心地良さ。近くに聞こえる息遣いがより心を落ち着かせる。
たった二人だけのための時間。
たった二人だけのための世界。
たった二人だけで完結しているたった二枚の景色。
「私はね。もういいかなって」
ジーンの前に立つ。
「抑えられない。抗えないの」
チャチャと向き合う。
「その結果がこれなら。今ここで……」
手を握る。
「死んじゃったほうがいいのかなって」
その手を、握り返す。
揺れる髪。
陰る瞳。
震える唇。
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最期に見せたいと願ったのは、笑った顔。
そのために、たくさんの時間を使ったのだ。心の準備はとっくの昔にできているのだ。
うじうじと長引かせたのは臆病だったから。何も話さなかったのは強がっていたから。
これ以上ない、ありがとうを見せなきゃ意味がない。楽しかったのだと。嬉しかったのだと。幸せだったのだと。
確かめてもらわなきゃ、意味がなかったのだと思わせてしまう。
世界の終わりが来ないようにするには、これが一番の方法。
私がいなくなれば、寂しい世界はもう生まれない。
私がいなくなれば。
それでいい。
皆が幸せなら。
それでいい。
犠牲? 違う。
私が世界を導くんだ。
なんにもない世界じゃなくって、皆が笑えるような世界に導く。
それができるんだから、そうするべきでしょ?
私、間違ってないよね。
気付いちゃったんだ。気付かなかったフリなんて、できない。
この方法しか。
ジーンと私にしかできない。
たった一つの可能性。
だからお願い。
最後まで頑張って。
笑って。お願いだから、笑って。
嬉しいでしょ? 幸せでしょ?
だから、笑うのよ。
笑った顔を見せよう。
無理やり作るなんて、カッコ悪い。
そのままの気持ちで笑えば、それでいいんだ。
嬉し過ぎて。幸せ過ぎて泣いちゃうかもだけど、悲しい涙じゃないから大丈夫。
うん。
もう、いいかな。
えへへ。なんだか、恥ずかしくなってきちゃった。
ありがとうって、言って、終わり。
「ありがとう――」




