第百話 薄紅花吹雪
「ここか」
夜桜が通ってきた道を遡り、大きな何かに辿り着いた一行。
「これは、壁画?」
光に照らされたのは、大きな壁。その壁には大きく絵が描かれていた。
よく見れば文字らしきものも見える。
「えーっと、なになに……」
「おいチャチャ、読めるのか?」
おもむろに近づいたチャチャが、壁を凝視して解読を始める。
「油断大敵百折不撓! 敵が一人だと思うなよっ! ケッケッケ……」
「いやもういいから!」
やり過ぎは急速に面白さを激減させてしまう。道中も何度か披露してしまっていたため、完全に飽きが来ていた。
「で、何て書いてあるんだ?」
「ん? 私に読めるわけないでしょ」
「……反省すべしっ」
「いだっ」
おでこにデコピンを受けるチャチャ。そしてこのやり取りを終始見させられる夜桜。
「ちーちゃんは?」
「……分からんよね」
夜桜も知らない文字。
「二人は読めるか?」
ジーンは精霊であるイッチーとミカに聞く。
夜桜には精霊である二人の事は説明してあった。夜桜自身には姿は見えないが、二人の言い分を今は信じることにしていた。
「うーん、僕も分かんないよ」
「俺もさっぱりだな」
精霊二人にも知らない文字のようで、読めないし解読も無理そうであった。他五人の精霊達も同様である。
描かれている絵から、内容を読み取るしか手段が無くなった訳であるが、
「へったくそだねぇ」
「どのくらい古い物なんだろうな」
所々剥がれ落ちている部分があったり、そもそも何が描かれているのか不明であったりと、中々に読み取ること自体難しいのである。
「あれは……王様かな。冠っぽいの頭に乗っけてるし」
「あのちっこいの何なんよ? いっぱいいるんよ」
「そのちっこいのに黒い何かが纏わりついてるやつもあるぞ」
「その近くに両手上げてる人がいっぱいいるね。万歳?」
あれやこれやと解読を始める一行。大きな壁は一つだけじゃなかった。近くにも幾つか発見し、多くの場面が描かれる絵画をみることになった。
ただ、何が描かれるのかという正解は分からないままであった。
「文字が読めればいいんだがな」
「もう、またそれ? 読めないんだからしょうがないでしょ」
「ジーン、昔っからしつこいんよ。それじゃ嫌われるんよ」
言われ放題のジーンであるが、言い返すことはなかった。反撃したところで意味は無いのである。
三十分程経った頃。まだまだ見回る場所があるが、壁画ツアーは一時中断となる。
「隠れてっ」
物陰に素早く入り込む。意味があるのか微妙ではあったが、わざわざ姿を晒すわけにもいかない。
一様にして意識を向けるのは、遠く闇の中。自然と呼吸と心臓の動きが早くなっていた。
あいつだ。誰もがあの男のプレッシャーを感じ、突然の緊張に包まれる。
誘っているのだろうか。俺はここにいるぞとアピールしているのだろうか。
チャチャと視線が合うジーン。どうするのかなど、既に選択する道は決まっていた。
「逃げるが」
「勝ちってね」
すかさずその場を離脱する二人。夜桜はジーンに抱えられ、流れに身を任せている。
勝てる訳がない。実際に戦って身に染みたのだ。
奇襲をしたところで、勝ち目は全くない。ならば、今は逃げて対策を練るしかない。
「よよよっ! 何か反応があるんよっ」
夜桜が二人に進行方向を指し示す。
「行ってみよう!」
意識を向ければ、確かに他とは違う何かを感じる二人。あてもなく走り続けるよりも、よっぽどその感覚を信じるべきだと二人は即決する。
しかし、暫くしておかしなことに気付く。近づいているはずなのにその感覚はより遠くなっていくのだ。
本当にこちらで間違っていないのか、不安で不安でしかたがない。
「大丈夫なんよ。このまま真っすぐなんよ。あ、少しこっちにずれるんよ」
たった一人、夜桜だけは確信して二人を前に進ませる。
彼女が言うのなら、と迷っている二人は進み続ける。誰か一人でも道を示してくれるだけで、心に余裕が生まれる。誰か一人でも励ましてくれるだけで、何故か勇気が湧いてくる。
夜桜を信じた二人はただひたすらに走り続けた。
「ここなんよっ!」
その言葉に急停止する二人。夜桜が差したのは、真下。
男を撒く可能性を少しでも上げるため、明かりを消していた。何も見えないが、夜桜はここだと言う。
一直線に向かってきてはいないものの、確実に距離は近くなってきている。
「明かりを付けるぞ」
確実に居場所がバレるだろうが、何があるのかを確認しなければならない。最悪は戦闘になるが、それはこのまま逃げていても同じことである。
逆転の一手になり得る可能性を目の前にして、この場を離れるなど二人の経験と勘が許さなかった。
「……これは」
芽。小さな双葉が足元に生えていた。
「魔力、魔力を早く流し込むんよ!」
ちーちゃんのその言葉に意味も分からず従うジーン。壊してしまわぬよう、ゆっくりと優しく魔力を流し込んでいく。
その間にもあの男は近づいてくる。もう十秒もすれば戦闘になってしまうだろう。
武器を構え、魔力で身体強化を進めるチャチャ。イッチーとミカは、少しでも時間を稼ぐために魔法を発動させる。
流石の魔法制御をここで魅せつける二人。尾を引くように赤と青の光が伸びていき、高速で移動する男を追尾する。その様子は流星の如く見る者を惹きつける。
カクンと幾度となく方向を急転換を繰り返し、未だ数キロ先の男相手に見事魔法を当てることに成功する。
「もっとなんよ!」
徐々に光を帯びていく双葉。それではまだ足りないとばかりに、ちーちゃんも魔力を流し込んでいく。
二人の弾幕をものともしない男の進撃。多少足止めにはなっているが、誤差の範囲内である。魔力消費の割に合っていない。
「きたっ!」
「およよよよよよっ!?」
まさに間一髪。目の前に迫る男と向かい合っていたチャチャは、既に攻撃への動作が始まっていた。
男は拳を振りかぶり、チャチャは短剣を横に薙ぐ。
中心で重なり合う互いの思考。その一瞬のために全力で意識を研ぎ澄ませる両者は、外部の変化に気付くことは無かった。
いや、男は気付いていた。これから何が起きるのかも既に予知していた。ただ、男の中では完全にチャチャと対峙するこの一瞬の方が、優先順位が上というだけであった。
「ぬぅ……!」
チャチャと男との距離が急速に離れていく。
「……枝!?」
チャチャの目に入ったのは、大きな枝。それも一本だけではない。萌える幾葉の大群があの双葉を中心に広がっていく。
ただの枝ではない。あの男の抵抗を意に介さない力強さが溢れていた。
やってやった。誰もがそう思ったのも束の間、再び場面が大きく動き始める。
「きゃっ!?」
「これはっ!?」
「吸い込まれるんよ~っ!?」
「おーちーるー!」
「どうなってんだっ!?」
起点となるのは、またもやあの双葉。双葉を中心に大きな穴が現れる。
ただ空いただけではない。そこへ吸い込まれるような力が働いていて、誰も抵抗することができない。真っ暗な底へと為す術もなく落ちていく。
残ったのは、爛爛と輝く双葉とそれを守るように広がる五百枝。
守護者の如く、何人たりともその双葉に近づかせることはなく。
簒奪者の如く、自らの地位をその手で勝ち取るために。
傍観者の如く、不干渉をひたすらに貫き通し。
超越者の如く、その意思に全ての決定権を持ち。
咲くは薄紅花吹雪。
吹雪け吹雪けと散り踊り。
舞えや散れやの理想郷。
甦るは遠き彼方の月並み舞台。
そこに御座すは万物が現世が唯一神。
ただ、ジーンもチャチャも夜桜も。イッチーとミカでもその存在を認識することはできなかった。
暗い暗い穴の底。そこには一体何が待っているのか。
暫しの間、ジーン達は落下の恐怖を味わうことになる。