呪いの構造、あるいは不在の怪
某四のつく有名な怪談のヒロインさまが嫌いだ。
もう名前も書くのも嫌だ。
変な縁を作りそうで、話題にもしたくない。
だってその石見銀山を盛られたヒロインさまは存在しないのよ。創作上の人物なのよ。
でも、てきめんに祟るのよ。
怖いから嫌なのではない。関わりになりたくない嫌さだ。
きっと呪いの構造ってこう。
主体なんかなくても、道具立てさえ揃えばそれはそっと寄ってきて後ろから肩を叩いているんだぜ。
みなさまが俺が先日投稿した怪異健忘症をお読みのものとして、話を進めよう。
1 親から子供の頃、地蔵さまの祠でなにか怖いものを見たと聞かされる。それについての記憶はない。
2 地蔵というのは惨事のあった所に供養としてたてられることが多い、と言う知識。
3 俺の町が昔は廓であった言う知識。
1と2と3を足していくと、あら不思議。
俺が子どもの頃、遊女の怨霊を見ていたという結論に。
しかもこれ、俺が過去に怪異を経験しているかどうかはまったく関係ない。
例えば、親が俺に子供の頃怖いものを見てたんだよと嘘をついてからかった、つまり1の条件が虚偽だったとしても、俺がそれを知らずにその道具立てから来る答えに納得してしまえば、
怪異はあったことに、なってしまう。
実際、俺はエウレカというが如く深く納得してしまったので、怪異はあったことになってしまっている。
ああ、嫌だ嫌だ。
何一つ主体はないのに、現象だけが起こり過去が改変されてしまっている。
呪いとか祟りの構造だって、きっと同じ。
蟲毒を例にとってみようか。毒虫をたくさん集めて壺かなんかに閉じ込めて殺しあわせて、最後に残った一匹を呪詛に使うあれだ。
1 蟲毒の法が知られている文化風土である。
2 壺の中に毒蟲を見つけてしまう。
3 人から呪われるぐらい恨まれている覚えがある。
これを足しあわせて、毒蟲を見つけた奴が、俺は蟲毒の法で呪われている、と納得してしまえば呪詛は成立する。
呪詛に対するカウンターが行われない限り、死に至るだろう。
そして実際に呪詛が行われたかどうかは関係なく、たまたま壺にムカデが入りこんでしまっただけだとしても、
道具立てさえそろえば、呪いは成立する。
イスラエル・リガルディさんも言っているではないか。
魔術とその行使における結果には関係がない。そう見えることが重要なのだ、と。
あ、いや言ったのはブロディ・イネスさんだったかもしれん。
これって本質とは関係なく、現象だけが起きるって言ってるのだぜ。
なんという心霊的通り魔!
そんなもんに関わろうとする魔術師は頭おかしい。
それはさておき、オカルトとはラテン語で隠されたものという意味だ。
何を隠しているかではなく、隠している箱の方が大事なのだろう。
みんな大好きシュレディンガーの猫で言うと、箱の中の猫が生きていようが、死んでいようが量子的に生死が混在した状態だろうが、それはどうでもいい。関係ない。
開けると半々の確率の毒ガスを吹き出す箱のが大事、ミソである。
猫がいない、空の箱を渡されて、これは開けると半々の確率で毒ガスを吹き出すから箱を開けて観測を確定するまでは中で猫は量子的に生死が混在した状態になるんだよ、と言われてしまえば、道具立てがそろってしまえば、開けて見るまでは生死混在の猫が、怪異が存在してしまう。
そして、俺たちは箱の開け方を知っているとは限らない。