009 もっとも遠い感情
六限目の授業の後、ホームルーム中に連絡事項を聞き流し、そそくさと身支度を整える。
最後の号令を終えるとつばめは教室を足早に出た。
クラスメイトから「じゃあね、子安貝さん」と声をかけられたので、手を挙げて「うん、また明日」と返す。
六月頃の嘲笑に満ちた視線も、七月頃の遠巻きに聞こえたひそひそ声も今ではすっかり無くなった。まるでいじめなど初めからなかったかのようだ。本人たちはちょっとした遊び程度のつもりで本当に初めから無かったのかもしれない。
私は絶対に忘れてやらないけど。これから先、どれだけ仲良くなることがあろうと心から信用することは決してない。
今のように普通に声が掛けられるようになったのは十月の体育祭からだ。バレー経験者という情報がどこからか流出し、無理矢理クラス対抗戦に組み込まれたことで話すようになった。
だがそれ以前にもその兆候らしきものはあった。
夏休み明けすぐに、話したことのないクラスメイトに聞かれたのだ。
「子安貝さんって二年の先輩と付き合ってるって本当?」
「ぶふぉっ」
昼食を取りつつ、ストローで吸っていた紙パックの野菜ジュースを噴き出しかける。
どうせいつもの嘘だと思っていたら、本当に話していやがった。どうしてあの人はこういう悪ふざけにだけ積極的なんだ? 悪ふざけだからだな、うん。
「そんなわけないでしょ」と言いかけて、ふと先輩ならなんて言うかなと思った。
あの人なら絶対に否定しない。それが社会一般で認められない物であればあるほど、それを慈しむだろう。
「だれから聞いたの?」
青と黒のカチューシャに沿って指を動かして、髪を口元に持ってくる。緩慢な動作と口調で流し目をしつつ尋ねる。色っぽく、嫋やかにできただろうか。
あの人ならこんな風にわざと相手の誤解を招くことを楽しむだろう。
「ぶ、部活の先輩に、クラスに『つばめ』って名前の後輩と付き合ってる人がいるって聞いて……」
「うん。付き合ってるよ」
向こうから告白してきたの、と続ける。
あの熱烈な「君もどうだ?」という勧誘は告白みたいなものだろう。うん、嘘はついてない。別についてもよかったけど。
つばめの言葉に少女は両手で口元を覆った。おぉ、引いてる引いてると内心ほくそ笑んでいると、
「わ、私、応援するね!」
予想外の言葉が返ってきたので、呆然とする。
「色々壁があると思うけど諦めないでね!」
「いや、あの」
「私、そういうの嫌いじゃないから!」
聞いてないよ、誰も。
つばめが否定する間もなく、少女は走り去っていった。そして彼女がグループに戻り、二言三言話すと全員がこちらを見て、「きゃー!」と黄色い悲鳴を挙げた。なんかタワーがどうとか言っている。
その後、しばらく奇異の目を向けられていたが、かつて流れていた彼氏を寝取った噂は消えていた。
そりゃそうだ、本人が同性愛者を否定しなかったのだから。
もしかしたらアマネ先輩はここまで考えて私の名前を出したのではと一瞬思ったが、すぐにないなと否定する。我ながらもはや信仰の域に入ってるなと自分で自分に呆れた。
***
「ちょっと待ってくれないか」
昇降口でアマネと合流し、帰宅しようとしたところで声をかけられた。
ツリ目で髪の長い、眼鏡をかけた生徒で二年生用のリボンをしている。どこかで見たような気がする。
「何か用、委員長?」
アマネが尋ねた。そして思い出したように続ける。
「そういえば生徒会長就任おめでとう」
「信任投票だけどな」
思い出した。生徒会長演説で見かけたのだ。他に候補はいなかったから信任投票のみ行われた。名前は確か御門美沙、だったはずだ。
「せっかく僕が不信任に入れてやったのに、無事就任したな」
「……嘘だな、それは。逆木、お前は信任に入れたはずだ」
アマネの皮肉を嘘と断じて御門は続けた。
「だって私が忙しくなれば、お前は一人でいられるものな」
ぼっち呼ばわりされたことと、真実を言い当てられたことでアマネはぐぬぬと唇を噛む。
「敵わないね、委員長には」
「まぁ、実際何票かは不信任もあったらしいがな」
「あ、それ私です。不信任多数だったら生徒会長不在とか愉快だな~と思ってついやっちゃいました」
わざわざ挙手をしてつばめが言う。やっちゃいましたと言いつつ、その口振りには反省の色は全くない。
「この先輩にしてこの後輩ありか」
御門がはぁーと深くため息をつく。
「で、何の用?」
「お前じゃないよ。用があるのは子安貝さん、君の方だ」
私? とつばめが自身を指差す。樋川といい、なんだか最近は呼び出しが多い。
「この死に損ないに何の御用でしょ」
まるでどこかの誰かさんのように口をへの字に曲げて言うと御門は顔をしかめた。
「じゃあ、僕は差し詰め生き損ないってところかな」
そのどこかのだれかさんのセリフで、より眉のしわが寄っていく。
「ははは、この出来損ないの世界にはぴったりだ」
「そういうセリフを――」
我慢の限界に達したのか御門が不機嫌を隠さずに言う。
「そういうセリフを、あまり言うものじゃない。周囲を不愉快にさせる」
「それが目的で言ってるんだけどねぇ」
アマネの口調から友好的な雰囲気が消える。
「大体、この場で不愉快になっているのは『周囲』じゃなくて君自身だろう? それとも生徒会長として周囲に承認されたから君自身が『周囲』になっちゃったのかな?」
「いや、で、私に何の用なんですか?」
睨みあう二人を放って、つばめが尋ねる。
「ああ、すまないな。既に何度も話しているかもしれないが、六月の件に関していくつか聞きたいことがあってね。……私が生徒会長になった以上、いじめが起きていたことを見過ごすわけにもいかないしな」
「へぇ、いじめを無くしましょうって? そりゃご立派。それが達成出来たら次はこの世から悪を無くしましょう、かな? それは簡単だな、人間がみんな飛び降り自殺でもすればいいんだ」
「逆木っ!」
御門の激高した声が廊下に響き、通りかかった生徒たちの視線が集まった。
「仮にも自分を慕っている後輩を揶揄するような、そういう真似は止めろ」
そのセリフにアマネはますます愉快そうに口元を歪め、口を開きかけ、
「分かりましたから、止めてください。もう。アマネ先輩は図書室ででも待っていてください。そんなにはかかりませんよね、会長?」
つばめがそれを中断させた。
「あ、あぁ」
「別に僕は行く必要はないと思うけどね」
「でも行ってきます。ここで断って何度も呼ばれるの面倒ですし」
「ふふっ、確かに」
つばめのあんまりな言葉にアマネはにやっと笑う。
「先輩がクラスでどんな感じなのかも聞いてきます」
「ああ、それならご期待に添えられると思うぞ」
「やめろ、何を言う気なんだ」
御門の言葉に反応して、着いて来ようとするアマネをつばめが押し留める。
「先輩はお留守番しててください」
「僕より委員長の方を選ぶわけ? ……僕を女にしたくせに」
つばめの反応に恨みがましそうに目を細めて言う。
「いや、真顔でそういう誤解を招きそうなこと言うのやめてくださいよ」
誓ってオシャレを教えただけである。
むすっとしたアマネを置き去り、生徒会室に向かう。
「君はああいうセリフを吐かれてもあまりショックを受けていないようだが」
「ええまぁ。ああじゃないと先輩じゃありませんし。どっちかっていうとさっきの会長とのやりとりの方がショックでした」
「私の?」
心当たりがないのか、御門は首をかしげている。
「先輩のことを結構理解している人がいる、ということがちょっとショックでした」
「君もかなり理解していると思うが」
「ああ、いや、私も理解したいと思ってはいますけど、なんて言うか、同時に理解できない存在であってほしいというか。
私の事を理解してほしいと思うと同時に、私も含めて他人のことなんか一顧だにしないような人物であってほしいというか」
理解と憧れという相反するものによって自分の逆木周像は出来ている。
「だから多分私は、先輩にちょっぴりだけ気にかけられている会長のことが嫌いです」
ものすごくいい笑顔でそう言った。
「……君は私が思っていたより、はるかに逆木に影響を受けているらしい。随分慕っているんだな」
面と向かって嫌いと言われたにもかかわらず、御門は微笑んだ。
「そんなにアマネ先輩のことを好きなわけではないですから! どっちかっていうと珍獣を見ている感じです。そう、アイアイを見ている感じです。目が怖いところとか似てるし」
照れたようで慌てて否定した。
そのあんまりな言い草に生徒会長は声を立てて笑った。