004 異端は屋上にいまし
その日も、今と同じように雨が降っていた。
たいして強くない雨だった。神様が私が死ぬ日のために、悲しくもないのに義理で流している涙なんじゃないかなと思ったことは覚えている。
子安貝つばめにとって家庭は決して心休まる場所ではなかった。
小学生の時に両親が離婚し、父親が再婚して、その相手の連れ子との暮らしが始まった時からそうだった。
誤解のないように言っておくが、暴力を振るわれたことなどないし、無視もされていない。新しい母はつばめに気を使い、つばめも母に気を使った。そしてだからこそ、そこは心休まる場所ではなかった。
そのうちつばめは自分の居場所を学校に求めるようになった。
明るく元気で、積極的に活動する責任感の強い、クラスの人気者。コピー&ペーストで張り付けたような通信簿の評価が彼女を安堵させた。
中学生になってもそれは変わらなかった。
自宅では『気を付けて』家族と会話をし、学校ではそうすることが義務であるかのようにいつも笑っていた。
たびたびつばめはどちらが本当の自分なのだろうと考えた。そのたびにどちらも本当の自分ではない、と思った。
本当の自分とはもっと鬱屈としていて、暗くて、卑怯で、汚らわしい何か、怪物のようなものだと思っていた。
中学三年の夏休み直前、つばめはクラスメートの男の子に告白をされた。
彼はいつも笑っているつばめが好きなのだと言った。君の笑顔がもっと見たいのだと言った。
それは本当の私じゃない! と叫びだしたいのをこらえて、断った。理由は言えなかった。言ったところで理解してもらえるとも思わなかった。
つばめに告白をしてきた男子はサッカー部の主将をしていた。彼に想いを寄せる女生徒は多くいたようで夏休み明けから、些細な嫌がらせが始まった。
一度始まれば、箍が外れ、二度三度と続き、やがて毎日のように私物が無くなり、机にゴミがまき散らされ、陰口がささやかれるようになった。それは当人たちにとっては高校受験のストレスのよいはけぐちだったのだろう。
大勢いたと思っていた友人は全員が彼女の敵になった。つばめにとって、もはや学校も心休まる場所ではなくなった。
日々悪意に刺されながら、あと半年だ、と思いながら過ごした。高校に行けばこんなものは終わると思った。あと五ヶ月、あと三ヶ月、あと一ヶ月、あと二週間あと一週間……。
卒業式当日、周囲が泣きながら別れを惜しむ中でつばめは一人達成感さえ覚えていた。やったぞ、と。自分は耐えきったのだ、と。勝利したのだ、と。
そうして一度希望を与えられたからこそ、つばめは絶望することになった。
どうせあの色ボケ共はみな共学に行くと思っていたから、女子校を選んだのに、勉強も頑張ったのに、中学で同じクラスだった生徒がいた。
びくびくしながら過ごしていたが、四月も五月も何も問題は起こらなかった。彼女たちも自分のグループ作りで忙しかったのかもしれない。つばめは安堵した。これならここで過ごしていけそうだと希望を持った。
そうして再びほのかな希望を与えられたからこそ、つばめはより一層深く絶望することになった。
六月になって、彼女たちもクラスに慣れてきたのだろうか。それでつい口が滑ったのだろうか。つばめが中学校でいじめられていたことを話したようだ。
その内容は面白おかしく、よりスキャンダルに脚色され、つばめが彼女のいたサッカー部の主将を寝取ったことになっていた。
そうしてまたいじめが始まった。
あと二年と九か月。
無理だ、と思った。
半年でさえ永遠のように長かったのに、毎日毎夜指折りして待っていたのに。とても耐えられない。
死んでしまいたいな、とふと考えて、それはいつしかつばめの思考を支配するようになった。
死ぬならどこがいいだろう。そう思って周囲をよく見るようになった。
自宅で首を吊ろうか? いいや、家族に迷惑がかかる。
通学路途中の河に入水しようか? あぁ、こんなに綺麗にアジサイが咲いている。ここは私の死に場所にはふさわしくない。もっと汚らしいところでなくちゃ……。
学校にしよう。みせしめるように死んでやろう。あそこには迷惑をかけてもいい敵しかいないし、薄汚い掃きだめのようなところだ。
その日は授業が終わるとぽつりぽつりと小雨が降りだして、グラウンドで行う部活動に所属している生徒はみな帰ってしまった。
死を覚悟してこんなにも早く機会が巡ってくるとは思わなかった。きっとこの世界も早く私に死んで欲しいと思っているのだろう。
屋上に上がる。階段横に積まれていた机と椅子を外に出して、開けられないようにバリケードを作る。
フェンスを乗り越えて、淵に立つ。
心臓が脈打つ感覚だけがいやに響く。そういえば遺書を書いてこなかった。残すべき財産などないから問題はない。自殺だと保険金って下りるのかな。私が死ぬことで家族に少しでも利益があるといいな。
ハァハァと息が苦しくなり、目の前が白くなる。このまましゃがみこんでしまいたい。そうしてそのまま落ちてしまえば楽になれるはずだ。息を止めて、目を閉じて一歩踏み出すだけでいい。
周囲から喧騒が聞こえる。教員たちがつばめの姿に気付いたらしい。怒号のようなものが聞こえる。
皮肉にもそれがつばめを奮い立たせた。最後の最後くらい背筋を伸ばして行こうと思った。深呼吸をして、目を閉じて、右足を半歩前に出して、
「死ねないと思うよ」
後ろから声が響いた。聞き入ってしまうようなよく通る声だった。
つばめが後ろを振り返るとそこには一人の女生徒がいた。
学校指定の制服に身を包んだその人物はほとんど黒一色だった。学年を示す真っ赤なリボンとブラウス、顔と手だけがそうでない。
濡れ烏の長髪は実際に雨で濡れ、顔にかかる様は痺れるような色気がある。肌は黒髪を引きたてるように病的なほどに白い。
目だ。しかし目が彼女から美しいという印象を奪い去っている。
美しい曲線を描くまつ毛の奥には一切の光がない。そしてその瞳の下にはドブ川のヘドロでも塗りたくったかのような色をした深く、濃い隈がある。
「三階建てだからね。ギリギリじゃないかな。たぶん『運良く』生き残って、下半身不随になるのが関の山さ」
ぐにゃりと皮肉に合わせて、彼女の口元がへの字に曲がった。
「どうやって入ってきたんですか……?」
扉の前のバリケードは崩されていない。
「うん? 違うよ、私が入ってきたんじゃない。君が入ってきたんだ。私がサボっていた屋上にね」
なんだか密室のトリックみたいだねぇと呑気に呟いている。
「……止めないでください。見なかったことにしてください。昼寝をしていて気が付かなかったって、そういうことにして、このまま私を死なせてください」
「だから、死ねないってば。君は病院送りになるだけだ。私の明日のお昼を賭けてもいい」
「それでもいいです。ここじゃない場所に行けるならどこでも」
「じゃあ、旅行にでも行きなよ」
「……生きていたくないんです。生きていても辛いだけなんです」
「それは概ね同感だな。いつか良いことがあるなんてお為ごかしだ。そのたまにある良いことは人生の辛さをより鮮やかにするための、希望を持たせて油断させるための罠だからね」
その言葉にハッとした。この人は自分と同じ考えを持っている。もしかしたらこの人もここを死に場所にするつもりだったのかもしれない。
「そうです。だからもう死のうと思って……」
「死ねば楽になると?」
「はい」
「君は楽観的だな」
「えっ?」
吐き捨てるように言った真っ黒な少女の言葉に、つばめは呆気にとられた。
「『死ねば楽になる』。それは証明されていないだろう。まさかあの世は死者が戻ってこないのだから良いところに違いないなどというトンチを信じているわけじゃないだろうね」
「でも死ねば無です。苦しいことも、辛いことも無くなる、はずです」
「『死ねば無』もまた証明されていない。どうしてより苦しいところに行くと考えない? 死んだときの痛みを永劫味わい続けるようなそんな世界に行くと思わないんだ? 根がポジティブなんだよ、君は」
「でも! それじゃあ、死んでからも苦しいなら、生まれて来てしまったら苦しいことしかないじゃないですか」
「あぁ、そうさ。そうかもしれないから先人たちは極楽ないしは天国という宗教観を作ったんだ。死んでいった者たちが死後救われるなら、自分もそうなるだろうと生者自身が慰めにするためにね。そこにあるのは死という事象に対する恣意的解釈だけだ」
「だから、貴女は死なないんですか……?」
「違う。私が死なないでいるのは人生が楽しいからさ。コツを一つ教えよう。人生は九割九分八厘くらいが辛いこと、苦しいこと、がっかりするようなこと、どうにもならないことで出来ている。残りの二厘がさっき言った、罠だ。
つまり人生を楽しむ方法とはすなわち、辛いこと、苦しいこと、がっかりするようなこと、どうにもならないことを楽しめるようになればいい。
『悪』を楽しめるようになればいい。他人が君に向ける悪意を楽しみたまえ。君が他人に向ける悪意を楽しみたまえ。他人が他人に向ける悪意を楽しみたまえ。最後に君が君自身に向ける嫌悪を楽しみたまえ」
「……」
その破綻した、ルサンチマンに満ち満ちた不幸自慢は不思議とつばめの胸にするりと入ってきた。
「この世のあらゆる美しいものと正しいものが私の敵だ。彼奴めらが、美と正義を論じるのと同じ場所からひり出される罵詈雑言を聞くのが楽しいから! 私は、生きている」
今まで浮かべていた皮肉気な微笑みではなくて、歯をむき出しにした満面の笑みで、彼女は言った。
「だから、君もどうだ?」
フェンスに足をかけ、上半身を乗り出して、つばめに向けて手を伸ばす。
「生きていても辛いことしかないことを楽しめ。どこにも居場所がない自分を心から笑え。君の敵のために死んでやるな」
体を乗り出しているために、声がつぶれてかすれている。真正面から向かい合うと、一切光がないと思った瞳の中に、幽かに輝く物があるのが分かった。
その時、何を思ったかはつばめ自身も覚えていない。
この格好悪くて、滅茶苦茶で、反社会的ともいえる誘いにどうして心動かされたのか、自分自身でも説明できない。
気が付くとその手を取って、フェンスを乗り越えて戻ってきていた。すると急に足が震えてきて、立ち上がれなくなった。
真っ黒な少女がつばめの顔を胸元に抱き寄せて、頭を撫でる。
「よしよし、怖かったね」
気が付けば体を預けて泣いていた。
結局のところ、自分には死ぬ勇気さえなかったのだ。惨めというのは今のような気持ちの事をいうのだろうか、と思った。
そして同時に自分の中の理性的な部分が、この惨めささえ楽しめるようにならなくてはと考えていた。
バリケードが力ずくで扉ごと破壊され、教師たちが屋上に押し寄せるまでつばめはその名も知らない先輩の胸で泣いていた。
これが子安貝つばめと、逆木周の出会いだった。
翌日、つばめが登校すると彼女がやらかした自殺未遂についての噂がすでに広まっていた。
といってもそれによる腫物扱いに気付いたのは数日後のことだ。しばらくの間、彼女は授業を受けずに生徒指導室に通うことになった。
正午になり、昼食を取ろうと部屋を出ると、声をかけられた。
「やぁ」
昨日の真っ黒な先輩がそこにいた。
「昨日はお世話になりました」
つばめがぺこりと頭を下げる。
「いいよ、気にしないで。これからお昼かい?」
「はい」
「じゃあ、お姉さんが奢ってあげよう」
「いえ、悪いですし……」
「いいんだよ。私は昨日君が病院送りになることに賭けた。だが外れた。言っただろう? 今日のお昼を賭けるって」
「私は何も賭けてませんよ?」
そうだったけっなー、などと言いながら食堂に向かう。
普段アマネは購買で買って屋上で食べているらしいが、現在屋上は封鎖されている。そしておそらく二度と開放されることはない。
つばめの姿に気付いた生徒たちが、ひそひそと噂話を始め、小声で笑いながら立ち去っていく。
俯きかけたつばめに頭上から声がかかる。
「笑いなよ。後ろ向きにさ」
つばめがこれから何度となく見ることになる、への字口の皮肉気な笑いがそこには浮かんでいた。
***
あの屋上で、子安貝つばめは飛び降りて、死んだ。
今ではつばめはそう思っている。そして死んで、あの邪悪な女神によって同じ場所で産み落とされたのだと、そう思っている。
自殺未遂の件は学校では噂によって広まり、学校から家にも伝えられた。どちらでも腫物扱いされるようになったが、どちらもとうに自分の居場所ではない。それに今はそれを楽しめる。
孤独や空虚、漠然とした不安を感じることはまだある。だけどそれを感じたら、これも楽しもうと笑える。まるで狂人だ。けれどその狂人の真似がたまらなく面白いのだ。
この世界は狂人のために出来ている。
みんなと協力して事に当たることを求められたら私は一人を楽しもう。一人で十全に仕事をこなすことを求められたら私は集団の中に埋没し、指導者の苦虫を噛み潰したような顔を見てげらげら笑おう。
でも時々正気に戻ってしまって、苦しくて痛くて耐えられそうにない時がある。そういう時は先輩の隣に行く。
あの人はいつも間違っていて、常に正しくないから。
「やぁ、彼女。一人かい?」
それでもいつもあの嘲笑を浮かべて、そこにいてくれるから。
「先輩! 遅いです!」
だからもう少しだけ、貴女の傍に居させてくださいね、先輩。私がこの世界で生きていけるくらい、完全におかしくなってしまえるまで。