022 世は全てしょうこともなし
いつかと同じように雨が降っていた。
たいして強くない雨だ。神様なんてもうとっくにいないのにいったい誰が泣いているのだろうか。
「もし、小説の中のあらゆる風景の描写が未来の暗示だとするならば、この雨は一体何を意味しているのかな?」
湿気と交じり、むせるような消毒液の臭いの中で、窓の外を見ながら呟いた。
「だからそういうこと考えるから、息が詰まるんですってば」
保健室のベッドで横になり、アマネの膝に頭を預けて、つばめが言う。
「そういう性質でね。僕が思うに、物語は終わっているはずなのに存在しているキャラクターを示唆して、終わらない生というぬるい地獄を小雨で表現したんじゃないかな」
「終わりの無い生はぬるくないでしょう。終わりがあったって地獄のようなのに」
「今生が地獄なら、死んだらどこに行くのだろうね」
「次の地獄じゃないですか」
「生きていても地獄、死んでも地獄、生まれ変わっても地獄と来たか。でもきっとそのたびに次こそは天国に行けますようにと、みんなが思うのだろうね」
「叶うことはないですけどね」
顔の横にアマネの長い髪が垂れてくる。それを指先でくるり、くるりともてあそぶ。
「希望をもって次の地獄に行けることとずっと同じ地獄にいること。どちらが幸福なのだろう? やはり前者かな?」
「上げて落とされる方が苦しくないですか? 希望が無ければいつか幸福があると勘違いすることもないですよ」
「なら生まれてくることは希望なんだね」
「ええ。同時に地獄でもありますけど」
寝返りを打ったつばめの伸びた髪を手櫛で梳く。
水分を多く含んだ空気と混じり合い、ふわりと浮かび上がっては捩じれて元の場所には戻らない。
「ねぇ、先輩」
「うん?」
「この世界っていつか壊れてしまうんですよね」
「きっとね。いつかは分からないけど」
「もう時間を繰り返すこともないんですよね」
「たぶんね」
「分からないことばっかりですね」
「不安かい?」
「そんなには。なるようにしかならないでしょうし。どうせろくでもないことになるんでしょうけど。先輩はどうですか?」
「不安だよ。今までは自分がどこにいるのか分からなくて不安だったけど、今は自分がどこに行けばいいのか分からなくて不安だ」
「それを楽しむわけにはいかないんですか?」
「理性で完全に感情をコントロール出来たら、どれだけ楽だろうとは思うけどね。あるいは何も悩まないほど愚かだったら、いっそその方が幸せかなと思わなくもない。不満足な哲学者は、本当に満足した豚さんより幸せなのかなぁ……」
「豚であるよりも豚肉である方が良い。そして美味しい豚肉を食べている私の方がもっと良い」
「くっだらねえ」
呆れて乾いた笑いが出た。
「じゃあ小難しい、いわゆる高尚な話しはくだらなくないんですか? 哲学でお腹は膨れないし、就職に有利にもなりませんよ。むしろ不利だと思います」
「急に即物的な話になっちゃったな」
「社会が求めているのは哲学者じゃなくて、豚さんですからね!」
「それ、思っても言っちゃダメな奴」
「『とかくこの世はままならぬ』という奴ですね」
「皮肉めいていていいけど、僕たちが使うにはちょっと悪意が足りない感じがするな。ほら、もっとこの世の全てに喧嘩を売って唾を吐きかけていくような言い回しにしようよ」
「じゃあこういうのはどうですか? 『世は全てしょうこともなし』」
気が付くといつの間にかしとしとという雨音が消えていた。
だが相変わらず空には分厚い雲がかかったままだ。昼か夜か分からないほど、外は薄暗い。
「先輩。雨やんだし、帰りましょ」
「そう? またすぐに降り出しそうだよ?」
「そうしたらそのたびにちょっと雨宿りすればいいんですよ」
「それだといつまで経っても家にたどり着けなさそうだなぁ」
ぶつぶつとぼやきながら、二人の少女は連れ立って校門を抜けた。花壇の満開のアジサイだけが二人を見送った。
今にも雨が降り出しそうな、陽の差さない道を少女たちは何か言い合いながら、笑いながら歩いていく。
「先輩、今気付いちゃったんですけど、私たちってずっと自分が小説のキャラクターだと思って生きてきましたよね?
じゃあもし、私たちを作った作者もある小説の中のキャラクターで、その上からさらに俯瞰している作者がいるとしたらどうなるんでしょう」
「ええと、僕は小説の中から抜け出すつもりでいたけど、仮に上手くいっても劇中の小説を抜け出しただけで、小説そのものは抜け出せていないと?」
「はい」
「……。……。気付かなかったことにしよう」
「折り合い、つけられたじゃないですか」
おしまい