020 自身を構成する要素についての考察
「先輩! アマネ先輩!」
入学式が終わり、クラスに戻って頬杖をつきながら春の麗らかな日差しにうとうとしていると、つばめが大声をあげながら席までやってきた。
「なに、ふあぁ~」
そんな真剣な様子に我関せずとばかりに大欠伸をして、目頭に涙を浮かべている。
以前は眠っている間の意識の有無について考え、自分が眠ることで世界が消滅するのではないかと思い込み、恐ろしくて仕方がなかったが、つばめのおかげでそれは解消された。
少なくとも彼女が一緒にいる間は自分は気を抜いていてもいい。
「欠伸している場合じゃないです! おかしいです、この世界!」
「何を今さら……」
「私がまだ一年生のままなんですよ!」
「え、留年したの……?」
「違いますってば! 幹だって一年のままだったし、そもそも誰一人クラスメイトは変わっていなかったのに誰も疑問に思っていないし、先輩だってこうして二年生のクラスにいるじゃないですか! いつからループ物になったんですか!?」
「あぁ、そういうこと……」
アマネが腕を頭上に伸ばして、パキパキと骨を鳴らす。その動作に合わせて赤と青の髪留めで留められた長髪が揺れた。
「ループしているわけじゃないよ。現にこうして四月なのに君は僕と知り合っている。ドリルちゃんとも和解した状態にあるはずだ。
ただ、……何と言うべきかな。記憶はそのまま同じ一年が始まった、いやこの言い方は語弊があるな。そもそもこの世界は始まっていないのだから。ただ、設定を遵守するためには僕が二年生で、先輩と後輩がいるという状況が守られなくてはならない。だから同じ一年が発生する、蓄積された僕たちの設定はそのままに、ね」
「なんで誰もそれを疑問に思わないんですか!?」
「疑問に思ったらこの世界が創作物だということを知っているのが主人公だけじゃなくなってしまうだろう?」
「じゃあ、龍頭先輩は毎年センター試験受けているんですか?」
「まぁ、そうなるね」
「受かっても大学いけないのに!?」
「そうなるねぇ」
「三枝先生! 先輩のクラスの担任の! あの人の場合、どうなるんですか? 育休中だったはずですよね? 赤ちゃんはどうなるんですか?」
「さぁ? でも設定的に四月には担任のはずだから……。お腹の中に戻るとか?」
「そんな滅茶苦茶な!」
「おそらくだけど先生の設定に一児の母という設定が加わった状態で復帰することになるんじゃないかな?」
「登場人物増えてるじゃないですか」
「あくまで設定上存在するだけだ。死んだ場合の君と同じだよ。同じ時間を繰り返す。一周ごとにわずかに設定を増やしていってね。まるでバウムクーヘンのように。地層のように。いずれ堆積した歴史が、別の歴史を押し潰して決定的な断裂を起こす時まで」
アマネが背を伸ばすと、春の風が開いていた教室の窓から一片の桜の花を運んできた。
それをつまみ、人差し指の上に乗せる。
「知っているかい? 『年年歳歳花相似。 歳歳年年人不同』。
『幾年経っても花は同じように美しく咲く。だがその花を見ている人間は同じではない』。自然と人間を対比することで自然の変わらない様と人間の儚さを表現した漢詩の一部だよ。
小説も、この詩にうたわれる花と同じだと思わないかい? 時代がいくら移ろえどもその小説を読めば人は同じような感情を浮かべるものだ」
「おかしいです。同じ場所で咲いているかもしれないけれど、同じ花じゃありません。一度散ってもう一度咲いたのなら同じ種類でも別の花です。年年歳歳花不同であるべきです」
「細胞分裂の結果、違う存在になると? なら細胞がすべて入れ替わったら別の人間になるのかな? 違うだろう? 赤ん坊として生まれてから80歳で老衰で死ぬまでの間、その人間は同一の存在だとされる。だがまっさらな状態の赤ん坊と青年と今際の老人を比較したらそれは全く別もののように見えるはずだ。
結局、自身を構成する要素とはなんだろう? 細胞ではないらしい。記憶はかなり確信に近いような気がする。なら記憶を失った人間は本人でなくなるのか? あるいは意識そのものか? なら麻酔の効いている間、あるいは眠っている間、その人間は存在しなくなるのか?
堆積された記憶と意識が人間を構成するというのなら、設定の堆積とその独自の思考によって成立するキャラクターは人間足りうるのか? キャラクターは観測者たりうるのだろうか?」
「私はその人間を構成する要素は思い出、記憶が軸だと思います。そうした経験を伴う記憶からなる『思考回路』こそ私を私たらしめる物だと思います」
「赤ん坊は? 記憶などないだろう」
「だから赤ん坊は自身を証明する術を持ちません。そもそも言語能力がある程度無ければ成立しない理屈ですから」
「記憶喪失の人間は?」
「記憶喪失の人間もそうです。典型的な例として『ここはどこ? 私は誰?』と言う通り記憶こそが彼を彼だと決める物だと、思います」
「君の言う記憶とは疑いうるものだ。どうして僕たちが五分前に、あるいは一か月前にそれまでの記憶らしきものを持って発生したのでないと言える?」
「言えません。
でも、嫌です。先輩と出掛けたり、一緒に授業をさぼったり、会長に怒られたり、そういうのが全部、思い出でなくてただの設定になってしまうのが嫌です」
「ただの感情論だね」
「そうです。ダメですか」
「普通はね。ただ別に僕たちが一般的なルールに従ってやる必要なんてない。それを許容したら討論の意味がなくなる? 元はあったみたいな言い方だよね」
二人の間に沈黙が広がる。やがてアマネが口を開いた。
「僕はね、『疑うこと』がその人物をその人物たらしめると思う。だから疑う能力をまだ持たない者、疑うことを放棄した者、疑う能力を失った者は自身を証明することが出来ないと思う」
「赤ん坊は同じですね」
「まぁね。逆に記憶喪失者は自分の存在の確からしさを求める限り彼たりうると言える」
「無垢であったり、純粋であったり、ボケ老人は自分を持たないと? ……色々と文句を言われそうな理屈ですね」
「その通りだ。この考え方は社会通念上否定され、非難されるべきものだろう。一般的に言う言ってはいけないことで、悪い考えで、反社会的で人の気持ちを考えていないものだ。だけど僕は、そう思う。勿論、同時に疑ってもいるけどね。
君の考えも、誰かに何か言われたところで、でも自分で考えた、と言えるものかい?」
「はい。……私が知らないだけで、ずっと昔の人がもっと理路整然とした言葉できちんとした結論をつけて発表しているかもしれませんけど」
つばめの答えにアマネが笑った。
「あはは、それはよくある奴だ」
「まぁ、でも」と言ってアマネが椅子から立ち上がる。
カチューシャの上から優しく、後輩の頭を撫でた。
「それが出来たなら、きっともう大丈夫だね」
「先輩?」
首をかしげるつばめに、アマネがいつもと違うにこやかな笑顔で微笑みかけた。
つばめ。
君がどれだけ僕にとっての救いだったか、分かるかな……。
運命に逆らって、君を救い出すことが出来た時、はじめて僕は僕になれたような気がする。
君は僕がこの世に存在することの唯一の証明なんだ。
だからどれだけ生意気でも、まぁ、なんだ、……嫌いじゃなかったぜ。
なんでもない日のお返しがまだだったね。
クッキーの代わりに、この世界を君にあげます。
「『この世界が本物になりますように』」
「先輩……?」
しんと静かになった教室の中で、つばめの声だけが響いた。
彼女の頬を撫でるように、一片の桜の花びらが春の風に吹かれて飛んで行った。