016 作者権限
「べっくしょん!」
可愛らしさの欠片もない盛大なくしゃみをするとアマネは鼻をすすった。いつもの赤と青の髪留めは外して化粧台の上に置かれている。
ベッドの上で上半身だけを起こし、パジャマ姿のままだるそうにうつらうつらしている。額には冷却シートが張られているが、既に粘着力が弱まっているのか長方形の一角がだらんと剥がれている。
「うぅ、死んじゃう……」
「ただの風邪で死にはしませんよ」
エプロン姿のつばめが両手に鍋を抱えて寝室に入ってくる。ベッドの横に仮設置された、段ボール箱をひっくり返しただけの台座に鍋を置く。
「あんなところに長時間いるから体調を崩すんです。自業自得ですよ」
蓋を取り、レンゲで中のお粥を掬うと息を吹きかけて冷ましてから、片手を添えるようにしてアマネの口元へと運ぶ。
「はい、あーん」
「いや、自分で食べられるから……」
レンゲを奪おうとするとすっと手を引っ込められる。
「あーん」
「……」
反抗するだけ体力の無駄だと諦めて、おとなしく口を開く。
たまごとネギの風味が口の中に広がるが、鼻が詰まっているためか不快感が先立ち、食欲が湧かない。口元を押さえてかすかに首を横に振るとつばめはもう一掬いしていたレンゲを鍋の中に戻した。
枕元に置いてあるスポーツドリンクのペットボトルに差してあるストローを入れ替えてから、アマネの体を横にさせてその上に布団をかけた。
「つばめ、学校は?」
両手で布団を押さえたままわずかに首だけ動かして、つばめの方を見る。
「今から行っても間に合いませんから」
つばめは新しい冷却シートのビニールをぺりぺりと剥がしながら言った。
時刻はすでに午後三時を回っている。
先日アマネは連れ戻した直後、体力を消耗していたせいか倒れ、発熱した。眠ることを極端に恐れる彼女をなだめすかして傍にいて看病していたらこんな時間になってしまった。
一応親には学校の先輩の家に泊まる旨、生徒会長にはアマネを発見した旨を報告しておいたから行方不明者扱いはされないだろう。
古いシートを額からはがして、新しいものと取り換えるとアマネは気持ちよさそうに唸った。
「……先輩、どうして治さないんですか?」
「何のことかな」
「私、先輩がいない間だけ、自分の望んだようにこの世界の設定を変えることが出来ました。でも今は出来ません。それって先輩が、本来の持ち主が戻ってきたからですよね。なら先輩は『自分は風邪をひいていない』状態にすることが出来るんじゃないですか?」
「なかなか鋭いなぁ……」
アマネはそう呟くと、ごほごほと苦しそうに咳をしてから説明を始めた。
「そうだなぁ、その設定を変えることが出来るという能力の事をここでは仮に『作者権限』と呼ぶことにしよう。で、なぜその作者権限を僕が持っているのかと言えば単純にこの世界には既に作者がいないからだ。でもそれなら本来はそこで世界の更新はストップする。
ただ僕だけは、いや厳密にいうとこの世界で『主人公』一人だけは『自分が小説の中の登場人物だという知識』を設定として与えられる。すなわち作者と同じ知識を持っていることになる。言ってしまえば『作者代行』として世界を創っていく権限を委任された状態にある。
つばめが一時的に作者権限を得たのはこの世界が僕の次の主人公を君だと認識したからだろう」
「凄いじゃないですか。神様みたいですね」
その代償があの全てを枠の外から見ているような感覚だというのだろうか。あまり気分の良いものではなかったが。
「そううまくいくものでもない。あくまで作者代行だから作者自身が決めた設定には逆らうことが出来ないんだ」
「でもお話しが始まった時点で死んでいるはずだった私はこうして生きていますよ?」
「いいや、君が自分で思ったはずだよ。『あの屋上で、子安貝つばめは飛び降りて、死んだ』と。『そして死んで、あの邪悪な女神によって同じ場所で産み落とされたのだ』ってね。……って、だれが邪神だ! ごほっごほっ」
むせたアマネにつばめがペットボトルを差し出す。
「そういう詭弁でごまかせるなら別に心配事なんてないんじゃありませんか?」
ストローから口を離すとアマネは言った。
「比喩表現としての死で回避したとしても、それによってドリルちゃんの設定に影響が出た。また君が介入することによって僕と彼女の関係性も主人公とヒロインのそれではなくなった。
そもそもつばめは設定的に言えば現在死んでいる状態だ。これ以降の行動を一切決められていない。だから設定に縛られず動けるわけだね。つまりストーリーを認識し、ストーリーの外にありながら作者ではない存在、『読者』になったわけだ。
君は『読者』でありながら『主人公』であり、『作者』でもある」
「えぇ……。なんですかそれ。読者が主人公に自分を投影したダメな二次創作みたいな……」
「そうだね、それが一番近いかもしれないな。だからこそどんな滅茶苦茶な設定だろうと、矛盾していようと組み込める。どれだけ原作とキャラが乖離していようがお構いなしだ。そんな滅茶苦茶な世界は生きにくいだろう? だから無暗に作者権限は使わないこと。分かったね?」
「は~い。……ん? でも先輩は『読者』としての性質を持たないんだったら関係なくないですか?」
「つばめ。人間が何でも自分の思うとおりに出来る力を手に入れたらどうすると思う?」
「それは……。思い通りにするんじゃないですか。お金持ちになって、お洋服いっぱい買って、すっごい美人になって、道行く人みんなにちやほやされて……」
「だろう? もしそれを持っているのにあえて使わないとしたら。……『人間そのもの』を、欲望を、見下して馬鹿にしてやっているみたいじゃないかい?」
アマネがにたりといつものへの字口で笑った。風邪のせいで顔色が普段より悪く、化粧もしていないので地獄の亡者と見まがう形相だ。
「先輩、もしかして……」
「だから僕は毎日が愉快でたまらない」
「先輩」
「ん? なに?」
「たまに『主人公』貸してください」
私もやりたいです、とふへへと笑いながらつばめが言った。
「だいぶ君もこの世界に毒されてきたな」
「いいえ。先輩に、ですよ」