015 アマネのいない日その3(自身を構成する要素についての考察その3)
「会長、こんにちは」
「おぉ、子安貝さんか。それに幹も。こんにちは」
グラウンドから教室に戻る途中、生徒会長である御門美沙にばったりと出くわした。
「そう言えば今日は逆木を見ていないんだが、何か知らないか?」
「学校に来てないんですか? でもサボりではないと思いますよ。今日、私にお誘い来てませんし」
「なにそのダメなネットワーク……」
つばめの答えに伽倶夜が呆れている。
「風邪でもひいているのかもしれませんね。帰りに様子を見てきましょうか?」
「ふむ、進路希望書がまだ提出されていなくてな。良ければ私も同行させてくれ。家の場所は分かるのか?」
「はい。『私はアマネ先輩の家を知っています』から大丈夫です」
放課後に昇降口で落ち合う約束をして別れた。
***
「会長って本とか読みますか?」
アマネの家に徒歩で向かいながら、つばめは尋ねた。
「まぁ、人並みにと言ったところだな」
「地の文ってあるじゃないですか。あれ、延々と情景描写とかしてるとちょくちょく飛ばしちゃいません? で、人のセリフだけ読んでその補完のために周囲の地の文だけ読む」
「まぁ、卓越した作家であればそうでもないのだろうが基本的に風景の描写はつまらないしな。分からなくもないよ。それがその先の展開の不穏さであったり、登場人物の心情を示唆しているものでないなら特にな」
肌寒い風が二人の頬を撫でていった。空には分厚い雲がかかり、陽が当たらないことがより体をこごえさせる。
「そうそう、こういうの」
「は? 何を言っているんだ?」
つばめの独り言に御門が怪訝な顔をした。
「ねぇ、会長。でも地の文があるからその場所や時間、季節が分かるんですよね。じゃあ、その小説の中で描写されていないとしたら果たしてその場所は存在しているのでしょうか?」
「どういう意味だ?」
「例えば一人の少女が帰宅する様子がたびたび描写されるとしますよね? だとすると当然その女の子には帰る場所、つまり自宅があるということが暗黙の了解として読者に提示されるわけです。『自宅がある』と誰も、地の文も明言していないにもかかわらず」
「それは当然存在するだろう。だってそうでなければその女の子は一体どこで暮らしているというんだ? どこから学校に来て、どこに帰っているんだ?」
「でも読者の誰もその少女の家を観測していませんよ?」
「少女自身が観測しているだろう?」
「どこにも描写されていないのにですか?」
御門はうぅんと難しげな顔をして唸る。
「なぁ、君が何を言いたいのかよく分からないのだが」
「きちんと住んでいる家の間取りや駅から徒歩何分かということまで決められている主人公がこの世に何人いるのだろうという話ですよ。さぁ、着きました。ここですよ」
つばめが指差すと、そこには更地が広がっていた。まばたきすると庭付きの一軒家が現れた。
「いやいや、ご両親が長期海外出張中なんだから設定的にそれじゃあ不自然でしょ。セキュリティのついているマンションが妥当じゃない?」
もう一度つばめがまばたきするとマンションの巨大な自動扉が現れた。
「ほぅ、ここか」
まるで初めからそのマンションだけが目の前にあったかのような自然な態度で御門は言った。
「部屋番号を押して呼び出せばいいのか? 何号室だ?」
「いえ、『前に来た時に扉の暗証番号を教えてもらった』ので入れます」
セキュリティパネルの前に立ち、つばめが適当な数字を押すと扉が開く。エレベーターに乗って12階を選択した。
12階の一番奥の部屋の前でインターホンを鳴らした。返事はなく、中で何かが動く気配もない。
「留守みたいですね」
「そうか。電話にも出ないし、どうしたものかな。一旦帰るとしようか」
「なるほど、そうして欲しいわけだ」
そう呟くとつばめはドアノブをひねり、扉を開けた。開くとは意外だった。まぁ開かなかったら『郵便受けの中に鍵が入っている』ことにするだけなのだが。
「お、おい! 勝手に入るのはまずいだろう?」
御門の言葉は無視してつばめは玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩き、部屋の中へと進んでいく。ごく一般的なものだ。キッチンがあり、浴槽とトイレが一体になったユニットバスがある。そして寝室にはベッドとクローゼット、他の物に比べて新しい小柄な化粧台の前には見覚えのある美容品が転がっている。
クローゼットの中には制服の他につばめがかつて選んだ洋服が丁寧に収納されていた。
それ以外には何もない。冷蔵庫も電子レンジも汚れもホコリもおよそ人間が住んでいるという生活感のある部屋にあるはずの物が、いいや、人間が住んでいなくとも溜まるはずの物さえ含めてこの部屋には何もない。
「……」
一通り部屋を見て回ると、つばめは玄関に戻ってきた。御門が心配そうな顔をして聞いてくる。
「いなかったのか?」
「はい、部屋の中で倒れたりはしていなかったので安心してください。会長、帰りましょうか。進路希望書は明日持ってくるように留守電入れておきましょ」
「あ、あぁ、分かった」
郵便受けの中から鍵を取り出して扉を閉めると、鍵をもとあった場所に戻して帰路についた。
駅に着くとつばめは御門に別れを告げる。
「じゃあ、私はここで失礼します」
「そうか、気をつけてな」
「はい」
家に帰る前にもう一か所だけ探してみようとつばめは思った。
もう一か所だけ心当たりがあった。
それはこのまま帰るのが怖かったからでもある。どうしても自分の家がさっき見たような何もない場所ではないという確信が得られなかった。
どうして自分が一日前に、一週間前に、あるいは二週間前に唐突にそれより以前の記憶を持って発生したのではないということを証明できるだろうか。
ぶるりと体を震わせたその寒さが冬の風の仕業かは分からなかった。
「……」
「先輩、こんなところで何してるんですか? みんな待ってますよ」
「待っている人なんていないよ。……つばめこそどうしてここにいる? ここは本文じゃないよ、自分の居場所にお帰り」
「いいじゃないですか、はみ出し者同士仲良くしましょうよ。それで何してたんですか?」
「消極的な自殺。本編に出ずに僕を認識する存在がいなくなれば、消滅できるのではないかと思ってね。どうやら失敗のようだけど」
「先輩は死にたいんですか?」
「いいや、生まれてきたくなかったんだよ。
僕は『主人公』として創られた。
だけど正義の剣を手に悪と戦う格好いい英雄じゃない。見る人だれもを癒し魅了する可愛らしいヒロインじゃない。
復讐に燃え最期は報いを受けて散るクールなダークヒーローじゃない。女であることを武器に時に自分さえ騙す艶めかしい悪女じゃない。
いつもはおちゃらけているくせに決めるところでは決める二枚目兼三枚目のひょうきん者じゃない。恋愛は全く進展しないけど切れのあるツッコミで愛されるマスコットキャラクターじゃない。
ねぇ、僕はどんな主人公だった?
君から見た逆木 周はどんな主人公だったかな?」
「先輩……」
「僕はね、熱血な少年漫画の主人公になりたかったんだ。血を流し泥にまみれてお互いの正義をぶつけあって最後には分かりあって、強大な敵の前に膝をつきそうになった時、これまでの旅で出会ったみんなが手を貸してくれる、そんな不撓不屈の主人公になりたかった。
僕はね、普通の女子高校生になりたかったんだ。その高校には五人のそれぞれタイプの違うイケメンがいてね、結構性格の悪い奴なんかもいて初めは衝突が絶えないんだけど、学校行事を経ていくうちに距離が縮まっていく……、そんな甘酸っぱいラブストーリーの主人公になりたかった。
僕はね、ちょっとエッチなラブコメの主人公になりたかったんだ。優しいのだけが取り柄のくせに一人の女の子に出会ったことをきっかけに実は好意を抱いていた女の子たちにガンガン言い寄られるんだ。そんなモテモテでちょっとそこ変われって言われるような主人公になりたかった。
僕はね、好きになっちゃいけない人を好きになりたかったんだ。昔からずっと好きだった相手が親友の彼氏になって、それで日々顔を合わせるたびに辛くて、苦しくて、ある日ついに自分の思いを告白してしまう。でも受け入れてもらえなくて、距離を置かれて……。そんな切ない恋物語の主人公になりたかった。
僕はね、お腹を抱えて笑えるようなギャグ漫画の主人公になりたかったんだ。奇抜な行動と言動で見る人みんなを笑わせて、ツッコミ役にシバかれて毎週毎週オチで酷い目に合うような、そんな、あー面白かったって言ってもらえるような主人公になりたかった。
僕はね、推理冴えわたる知的な探偵になりたかったんだ。出掛けるたびに殺人事件に巻き込まれて、その真相を暴くんだ。でも僕は主役じゃない。ミステリの主役は犯人とその動機だからね。僕はそれを引き立て、けれども創作の中に押し留めておくためのストッパーさ。それでもそんな引き立て役になりたかった。
僕はね、謎の怪奇現象に襲われる平凡な青年になりたかったんだ。同じような現象に襲われた人を調査していく。そしてそのおどろおどろしい怪奇の真実に気付いた時、僕もまた……。そんな読んだ人を夜眠れなくさせるような、縮み上がるほど恐ろしいホラーの犠牲者になりたかった。
僕はね、何でもない日常を君と過ごしたかったんだ。授業をサボって屋上で出会った二人が友好を深めていって、毎回特に何の進展もなくて、時々学校の外での話があって、何話かするとネタが尽きたのか新キャラが出てくる。……そんなだらだらした日常物の主人公なんだかモブなんだか分からない奴になりたかった」
「先輩……、泣いているんですか?」
「僕は何なんだ? 僕は誰なんだ? 世の中のお話しの主人公たちはあんなにも活き活きと輝いているのに、今にも物語の外に飛び出さんばかりに読み手に愛されているのに、同じように『主人公』であるはずの僕はくすんだままに消えていきそうだ。いっそ消えたいと思っても僕自身の設定がそれを許さない。
何故作者は僕を創ったんだろう? どうしてこんな何の魅力もないキャラクターを産み出したんだろう? どうして主人公にしたんだろう?
前半で死んでしまう兄貴分でよかったのに。主人公が憧れるお姉さまでよかったのに。鍛冶屋のオヤジでよかったのに。悪役の取り巻きでよかったのに。主人公に倒されるだけのチンピラでよかったのに。お手軽なカタルシスのためだけに創られた馬鹿貴族でよかったのに。
どんなちっぽけな役割でも与えてくれたなら、僕はそれを全力で演じたのに。ちょっと不満は持つかもしれないけど、でも読んだ人が僕の出番でわずかでも心動かしてくれるならそれだけで僕は作者に創ってくれてありがとうと胸を張って言えたのに……。
どうして僕には、何も、ない……?」
「なら何もないことを楽しめばいいじゃないですか。先輩が私にそう教えてくれたんじゃないですか」
「違う。それはつばめがそう望んだからだ。自分を見て欲しいと、自分を肯定して欲しいと。だから僕はそういうキャラクターになった。君が憧れるような何物にも依らず一個の悪として立つ超人めいた僕なんて本当はどこにもいない」
「じゃあ、こういうのはどうですか?
『逆木 周は存在しない。そして同時に愛すべきひねくれ者として存在する』」
「オーウェルの真似事かい?」
「いいえ、先輩の真似です。誰ですか、それ? 私はそんな人知りません」
「パクっといて図々しい奴だなぁ」
「調子が戻ってきましたね。……本当はなんとなく分かってました。先輩が私の理想に合わせてくれていたこと」
「……」
「先輩は私にとって理想の主人公でした。私だけの味方で、私のために全てを敵に回してくれて……。でももうそれやめちゃいましょう! だって先輩、主人公向いてないし!」
「おい」
「性格悪いし、顔色悪いし、態度悪いし、性格悪いし」
「余計なお世話だ! ……しかも二回も言ったな」
「そんなものがあるから余計に気負ってしまうんです。だから先輩。『主人公』、捨てちゃいましょ」
「い、嫌だよ。僕にはそれしか自分を証明するものがないんだ」
「先輩。役目を持って生まれてくる人間なんていません。だからそういう運命でさえ自身を構成する要素ではないはずです」
「……でも主人公を止めて、何者でもなくなった僕を誰が見てくれる?」
「私がいるじゃないですか」
「……」
「なんですか、不満ですか」
「ううん、うれしい」
「な、なに言ってるんですか。らしくないですよ」
「あ、照れてるな」
「照れてない! 元気になったのなら行きますよ、先輩」
「うん。待ってよ、つばめ。一緒に行こう」
「はい」