012 あるいはsでいっぱいのテキスト
「おや、ドリルちゃんじゃないか」
「うげっ」
前からやってきた人物を見て、移動教室のために廊下を歩いていた伽倶夜は心底嫌そうな声を上げた。
「おやおや随分な挨拶だなぁ」
その反応を見てなぜかとてもとても嬉しそうにアマネは近づいてくる。
伽倶夜が警戒を露わに距離を取るために後ろに下がると、より満足げな顔をした。
初めて会った時はその儚げな雰囲気に心惹かれもしたが図書館でのやりとりを経て完全に関わりたくない人にカテゴライズされていた。ちなみにそのカテゴリの筆頭はクラスメイトの子安貝さんである。
「ところでドリルちゃん、君は運命を信じるかい?」
「何ですか、唐突に。宗教ですか? 止めてください、気持ち悪いです」
嫌悪感を隠さずに告げるとアマネはその場でげらげら笑いだした。
「いやいや宗教の勧誘じゃないよ。僕たちがこうして出会ったことに対する運命の話さ。70億の中からランダムに選出された二人が出会うというのは中々運命的だとは思わないかい?」
だからあらゆる恋人たちはみな運命という言葉を使う、と小馬鹿にした様子のアマネに伽倶夜がむっとする。
「そうやって他の人が大切だと思っている物を貶めて楽しいんですか?」
「それはもう。ちょー楽しいけど、今言いたいのはそういうことじゃない。僕が問いたいのは何故自分の選択や判断は何かに定められたものだったと思いたがる人間がこうまで多いのか、ということさ」
「それは、……後悔を自分以外の物のせいにしたいからじゃ、……いえ、貴女は私にそう言わせたいんですね。だからそんな不自然な言い方をするんだ。
『何故人間は運命を信じるのだろう?』とか『何故自らを縛るものが存在していることを望むのだろう?』なら人によって議論の展開のしようがあるけど、今のは違う。貴女は同じ事を聞いているようでいながら、少しネガティブな言い回しを使うことで自分が言って欲しい答えを言うように、相手を誘導している……。
違いますか?」
伽倶夜の答えにアマネは面食らった後に真顔に戻り少し考えてから、うんうん頷いて困ったように笑うという百面相を披露してから口を開いた。
「うぅん、さすがにメインヒロインは格が違った……。やばい、後輩に論破されかけて心折れそう」
間違ってもつばめには見せられないよ、と頭をぽりぽり掻いている。
「はぁ、こういうこと誰にでもして回ってるんですか?」
「いいや。気に食わない奴にだけだよ」
あっけらかんとした表情で刃物のような悪意をぶつけてくる。
「私、何か先輩の機嫌を損なうようなことしましたっけ?」
「うん。僕の可愛い後輩を屋上のふちに立たせやがった」
アマネの答えに思わず表情が固まり、喉がひゅうと鳴った。その口調は穏やかで口元も変わらず笑っているのに目元だけは微動だにしていない。その瞳の中のほの暗さに吸い込まれそうになる。
「ふはは、やっと不機嫌顔が崩れたね。仕返し成功」
そのまま伽倶夜の横を抜けて、通り過ぎようとする。
「わ、私がいじめていたわけじゃ……!」
何故知っているのかという問いよりも先に口から出てきたのは自分でも嫌になるくらい情けない弁明の言葉だった。
「分かってるよ。君が悪いわけじゃない。そういう風に決まってた。造形され、設定されていた。運命という奴だ。悪いのは全部、君を産み出した奴さ」
「親のことを悪く言うのは止めてください……」
伽倶夜の抗議にアマネは顔だけ向けて答えた。
「君のご両親のことじゃない。そんな設定されているかどうか怪しいもののことじゃない。よく考えて、疑ってみたまえ。君、本当にご両親がいるかい? そう思い込んでいるだけじゃないかい?
君が考える君自身とはなんだい? それは疑いようが無いものかい? 自分がだれかに造形された小説のキャラクターじゃないってそう胸を張って言えるかな? それを言葉にして論理立てて説明できるかな?」
「なにを、意味の分からないことを……」
「僕はずっと自分とは何かと考えている。自身を構成する要素の内、不可欠、不可分のものを探している。
外見を変えても僕は僕でいられた。名前を変えても僕は僕でいられた。プロットに逆らい、つばめを助けても僕は僕のままだった。運命から外れて読者としての性質を備えた彼女に『女性』として認識されることで性別が変わっても僕は僕のままだった。学校は女子校になったけどね。
『優しい』という与えられた性質をあえて裏切っても消滅したりはしない。それとも僕はとっくに榊 普というキャラクターではないのだろうか? だとすれば僕は何を根拠に存在している?
こうして自身の存在を疑っている僕はデカルトによればこの瞬間確かに存在しているはずだけれど、それが紙上に垂らされたインクや、猫がキーボードの上を歩いてたまたま生じた文章でないという証拠はどこにあるのだろう?」
「貴女、頭おかしいんじゃないんですか……?」
「そうかもしれない。僕がこの世界は小説だとそう思い込んでいるだけで、君のご両親もうちの両親も今日もどこかで元気に仕事をしているのかも。僕が何もしなくたってつばめは思い直して死ぬことを取り止めたかもしれない。でもそれを証明することはできないんだ。この世界が小説であることを証明できないように、この世界が小説でないこともまた証明できない。
この世界は猿がタイプライターを滅茶苦茶に叩いて出力した後に、それで射精の後処理でもしたんじゃないかという――」
「もう、止めてください!」
伽倶夜の叫びにアマネが口を閉じた。
「何なんですか、そんな滅茶苦茶なことを言って人を混乱させて楽しいんですか? そうですよ、私が悪かったんですよ! 私がうっかり口を滑らせたんです! 謝ります、これから行って謝ってきます! これでいいですか!?」
「え、なんかすごい必死で怖いんだけど……」
伽倶夜のあまりの剣幕にアマネは自分の事は棚に上げてドン引きしていた。
「何なのよ、この人っ!」
そのシャウトには溢れんばかりの悲哀が含まれていた。
端的に言うと半泣きだった。