011 バイオリン作ってたら許された
薄い人だな、と本棚の前に立つその人を見て思った。
どうしてそんな感想を思いついたのかは自分でも分からなかったけれど、まるでまばたきをしたらその瞬間にいなくなってしまいそうなそんな存在そのものが薄いとしか言いようのない雰囲気の人だった。
彼女が長い黒髪を耳にかけると病的に白い肌が露わになる。
「何を、しているんですか?」
図書室にいるのだから本を探しているに決まっている。伽倶夜は言った直後に自分の発言のおかしさに赤面した。
「ちょっとはみ出してた」
だが返ってきたのは当たり前の返答でも、誤魔化しの笑みでもなくて、全く意味の分からない言葉だった。
はぁ、疲れたと言いながら腕を体の前で伸ばして気持ちよさそうにしている。
「やっぱりないなぁ。前はあったと思うけど」
配架された書籍たちの背表紙にピアノの鍵盤のように指を滑らせる。
「貸出中なんじゃないですか?」
その伽倶夜の答えに薄い印象の少女、アマネは本棚の上に書いてある番号を指差して言う。
「日本十進分類法というルールがあってね。図書館の本は全てこの番号に基づいて配架されている。例えば日本人が書いた小説なら『913』だ。図書館では最もよく見かける数字だろう?」
彼女がどういう表情をしているかはいまいち読み取れない。それはここが図書室で最も窓から遠く、薄暗い人の寄り付かない本棚の前だからだ。
「でね、この棚は『00』と『01』だから総記と哲学だね。学校の図書室でこの棚から本を持っていく生徒は少ないんじゃないかなぁ」
一部の痛々しい奴を除いてね、と付け足した。
「なんていう題名の本を探してらっしゃるんですか?」
「『自殺について』」
あまりにも淀みなく言うものだから、つい聞き入って自分でも繰り返して、それでやっと題名の意味に気付いて息を飲んだ。
「知らない? ショーペンハウアー」
「い、いえ……」
ふぅんとつまらなそうに言うとアマネは本棚に向き直った。
「多分片づけるように指示があったか、図書教諭の自己判断ってところかな」
後者の方が可能性としては高いだろう。他に配架図書の目録を把握している人間などいないだろうし。
いや、案外どこぞのお節介な文学少女がそうするように進言して実行に移されたというのが最もありそうな線か。
「私、先生に聞いてきましょうか……?」
「別にいいよ。借りるつもりで探していたわけじゃないし。……それよりさっきから君は随分協力的だけど、図書委員か何かなの?」
やっとまともに伽倶夜の目を見てアマネは聞いた。
「は、はい」
「幹さん、だったよね。生徒会書記就任おめでとう」
「え、あ、はい。ありがとうございます!」
相手が自分の名前を知っていたこともそうだが、なんだか自分の存在を認められたようで嬉しかった。
「まぁ、僕は不信任に入れたんだけど」
「え……」
唐突にそんな事を言われて頭の中が真っ白になる。今日初めて会ったはずのこの綺麗な先輩に自分は何か粗相をしたことがあっただろうか。
伽倶夜が顔を青褪めるさまを見て、アマネは満足げに笑った。
「まだまだ修行が足りないな。さっき会長に同じ事を言ったら皮肉で返されたぜ。君もそのくらい出来るようになりなよ、来年生徒会長になるつもりならさ」
「えっと、何で私が会長を目指しているってご存知なんでしょうか?」
「一年の頃から生徒会に入る奴なんてそういう奴しかいないよ」
本を取り出して裏表紙を眺めては棚に戻しつつ、アマネは呟いた。
からかわれたり、かなり冷たくあしらわれているのに何故だか伽倶夜はこの人に嫌われるのは嫌だな、と思った。
アマネが聞けばその理由はそういう風に設定されたキャラクターだから強制力が働くのさと答えるだろう。
「あの、これから来年は先輩に票を入れてもらえるように頑張りますから!」
アマネが少し微笑んだ。どきりと心臓が跳ねる。
だから先輩の名前を教えてもらってもいいですか? と尋ねようとして伽倶夜の後ろから声がした。
「お待たせしました、アマネ先輩」
見慣れたクラスメイトがそこにはいた。
それで先程の笑みは自分に向けられたものではないと気付いた。
「あれ、ドリルじゃん」
子安貝つばめがいつものように伽倶夜のカールのかかった横髪を揶揄したあだ名で呼ぶ。
「ドリルって呼ばないでって言ってるでしょ!」
「でも巻き毛も巻きげそも嫌だっていうから」
「嫌に決まってるでしょうが!」
一学期の終わり頃から、おとなしかったはずのこの少女は自ら進んで不良少女となった。
クラスメイトや担任教師に対して皮肉めいた暴言を吐き、集団行動を乱し、授業には気が付くといない。
だがそうなった原因は自分にある、と思っている伽倶夜はあまり強く出ることが出来ず、クラス委員長にもかかわらず放置している状態だ。
最近では同性愛者であるという疑惑を否定せず、一部のクラスメイトから好意的、憧れのような視線を送られている。本人はどこ吹く風だが。
「幹さん、クラスでドリルって呼ばれてるの?」
半笑いでアマネが尋ねる。
「呼ばれてないです! こいつだけです!」
赤面して必死に否定する。
「つばめ、幹さんがストレートパーマかけてきたらあだ名はどうするの?」
「『元ドリル』ですね」
ドリルはもう消えないんだなどと言ってげらげら笑っている。もうやだ、と伽倶夜が顔を覆って呟いた。
「先輩にあだ名をつけるなら『イタ陰キャ』ですね」
「楽隠居みたいだね」
先輩に対してなんて失礼なこと言うのよ、と言おうとすれば当の本人が何も気にしていない様子だ。
「じゃあ、つばめは『ミス自殺ミス』ね」
「いや、ミスったのは先輩のせいなんですけど」
かと思えばとんでもなく不謹慎な事を言っている。
「帰ろっか」
アマネがパラパラとめくっていた文庫本を棚に戻して言った。
「はい、帰りましょ!」
つばめがアマネの横に並ぶ。その動作があまりに自然だったのでいつもやっているんだろうなと伽倶夜はなんとなく思った。
「じゃあね、ドリルちゃん」
「ドリルって呼ばないでください!」
抗議の声を笑い飛ばして、二人揃って図書室から出て行った。
「なんなのあの人たち……」
がっくりと肩を落とすと、扉が開いてつばめがこちらを覗き込んできた。
「忘れてた。これ、返却でお願い」
一冊の本を受付の机の上に置いて今度こそ出て行った。
呆れたように溜め息をつきながら、返却処理を行うためにその本を手に取った。
題名と著者を目にして、手が止まり、息を飲む。それは先程アマネと呼ばれていたあの薄い先輩が口にしていたものと同じだった。
裏表紙をめくり、貸出者一覧の名前が書かれた図書管理カードを見る。
そこには二人分の名前しか記述されていなかった。勿論新しい方がつばめの物だ。
もしやと思って、『01』の哲学の棚から同著者の本を探し、同じように管理カードを見る。
そこにはやはり二人分の名前だけがさっきと同じ順番で記述されていた。
勢いよく本を棚へと戻す。伽倶夜は自分の顔が引きつっていることを自覚した。予期せずしてクラスメイトの淀んだ情念の片鱗に触れてしまった。
見なかったことにしよう、そう決めて、彼女も帰り支度を始めた。