髪の長い女は此処にいる
最近、寝苦しい。
夢見も悪くて、寝たような気がしない。
まあ、今は季節が夏である。テレビでも今年の夏は猛暑だと言っている。
さらに、僕が住んでいる土地は盆地で、熱と湿気が篭る。
おまけに、冷房は古くて効きが悪い。
これだけ悪条件が揃っているのだ。寝苦しいのも、無理ないことなのだ。
これは、そんな蒸し暑い夏の物語。
◇◇◇
ある夏の夜、大学のサークルの先輩たちが、僕の家に泊まりに来た。
たいした理由じゃない。僕の部屋で飲み会としようというだけだ。
僕は部屋を貸し出す代わりに、酒やツマミの代金は全部先輩持ちという話だった。
悪い条件でもないので、僕は快く了承した。
そして、僕の部屋での宴会も盛り上がり、少し落ち着いた頃、一人が「夏なんだから、怪談話でもしようじゃないか」なんて言い出した。
まあ、そろそろ話のネタにも困っていたし、いいんじゃないのということで、みんなで怪談話をすることになった。
「じゃあ、まずは言いだしっぺの俺からだな」
そう言って、一人の先輩が話し始めた。
◇◇◇
俺さ、今は大学の近くに下宿してるだろ?
去年までは、違うところに住んでたんだよ。そうそう、今のところには、今年の三月に引っ越したんだよ。
でな、これはその前に住んでいたところの話だ。
前に住んでたところってさ、今と同じ学生用のワンルームマンションだったんだけどな、家賃が安かったんだよ。
間取りは、今住んでるところと同じくらいで、家賃が二万円くらい安いんだよ。な、安いよな。
交通の便だって、そんなに悪くなかったしな。
もしかしたら、ちょっと安いから建物の造りが悪いとか、どこかに欠陥があるかもしれない。
でも、学生の間だけだし、よっぽど悪かったら次の一年で引っ越せばいいかって、考えてたんだよ。
まあ、実際にこうやって引っ越したんだけどな。
その部屋、建物の造り自体は悪くなかったんだよ。壁にヒビが入ってるわけでもないし。
そのマンションに住んでる他の人にも訊いてみたんだけどさ、特に雨漏りがあるって話もなかった。
これなら、ま、いっかと思って、その部屋に決めたんだよ。
で、住んでみたんだけど、やっぱり欠陥らしい欠陥はなかった。
壁が少し薄い感じもしたけど、学生用のマンションだし、そんなものかと思ってた。隣から、たまに女の声が聞こえてくるし。
ホントに気になるって、それくらいだったな。
でもさ、家賃が安いっていうのには、やっぱりそれなり理由があったんだよ。
俺が住み始めてから、一ヶ月くらい経ってたかな。
なんかさ、妙な気配を感じるようになってきたんだよ。
例えば、部屋に入ろうとした時だ。
部屋のドアを開けようと、俺はポケットからカギを取り出すんだよ。
そしたらさ、誰かに見られているような気配を感じるんだ。
振り向いても、誰もいない。
そんな感じで、どこかで気配を感じるなんてことが、結構あったな。
部屋でマンガを読んでる時とか。誰かの視線を感じるんだよな。なんかベランダのほうから。
で、俺はベランダの窓を開けて、確かめてみる。勿論、誰もいないんだけどな。
あと、誰かが風呂とかトイレに入っている気配とか。
なんかトイレの水を流した音とか、シャワーの音が聞こえるんだよ。
でも、見に行っても、誰もトイレやシャワーを使った様子がない。
その時は、他の部屋で誰かが使っていて、音が響いてきた程度にしか考えなかったんだけどな。
まあ、その時は気のせいかって、思っていたんだよ。
そういうことが何度かあったけど、俺が初めての下宿生活で緊張してるのかなって。神経質になっているだけなんじゃないかなって。
でも、ちょっとこれはマジでヤバイかもって、ことが起こった。
風呂掃除をした時のことだ。
風呂の排水溝のところあるだろ。あそこを掃除しようとしたんだ。
いろいろ詰まったら、面倒なことになるしな。
でさ、排水溝のカバーを開いた時、俺は自分の目を疑った。
カバーにさ、髪が絡まっているんだよ。
それは自体は不思議なことじゃない。俺だって風呂に入ったら、髪の毛くらい抜けるからな。
勿論、俺の髪が絡まっていたんだったら、問題はないんだよ。
でもさ、俺の髪じゃないんだよ。その髪、長さが三十センチ以上、あるんだぜ。
俺の髪なんて、見ればわかるだろ。十センチもないよな。
黒くて長い髪。多分、女のものだと思う。
でもさ、そんなにありえないよな。
俺、彼女とか、そんなの生まれてこの方、いねぇからな。
勿論、女の友達が、俺の部屋に遊びに来たことなんてないしな。
その前に掃除した時には、何にもおかしなところなんて、なかったんだぜ。
それから、さっきさ、たまに隣から女の声が聞こえてくるって、言ってただろう。
あれもおかしな話だったんだよ。
たまたまさ、隣に住んでる人と話す機会があったんだけどさ。
隣に住んでいるの、男なんだよ。
俺と同じで、彼女もいたことないし、遊びに来る女友達もいないんだってよ。
まあ、その時は建物のどこかで反響して、上か下の階の声が聞こえてきたんじゃないかって、思うことにしたんだけどさ。
それぐらいの頃だったかな、俺がおかしな夢を見るようになったの。
俺はマンションの自分の部屋の前にいるんだよ。
ポケットを探って、カギを取り出そうとしている。
そこで俺は気配を感じて振り返るんだ。
そこにはさ、長い髪の女がいたんだ。
身長は一七〇センチくらいかな。
身体付きは華奢な感じでさ、白いワンピースを着ていたかな。
え、美人だったのかって?
それがさ、覚えていないんだよな。
いや、顔は見ているはずなんだよ。でもさ、目が覚めたときには、その女の顔が思い出せないんだよな。
そういうのって、あるだろ。夢の中では、はっきり見ているのに、目が覚めたら忘れていくっていう感じ。あんな感じだよ。
で、その長い髪がさ、俺の顔を見て言うんだよ。
「あと、十三日」
それからだよ。その長い髪の女は、毎日、俺の夢に出てくるようになったんだ。
次の日は、その長い髪の女、ベランダに立っていたんだ。
ほら、俺が部屋にいたら、外から誰かに見られているって話、しただろ。あれと同じ状況なんだよ。
違うのは、本当に覗かれていたってことだ。
真っ暗なベランダに、その女の姿だけが、くっきりと浮かび上がっているんだ。
そして、その女の唇が開いて、こう言ったんだ。
「あと、十二日」
その次の日は、風呂場だった。
シャワーの音がしたからさ、見に行ったんだ。そしたら、いたよ、その女が。
白いワンピース姿のまま、長い髪から水を滴らせたて、突っ立っていたんだ。
そして、俺を指差して、こう言った。
「あと、十一日」
もう分かるよな。髪の長い女の『あと何日』っていう言葉が、カウントダウンしてるってことに。
それからも、その女は毎日、俺の夢に出てきやがる。
それだけじゃないんだ。あの女が出てくる距離が近くなってきているんだよ。
最初は、マンションの廊下。次はベランダ。その次が風呂場。
四日目には、部屋の中にいたよ。
「あと、十日」
五日目には、テーブルのそばに立っていた。
「あと、九日」
六日目には、俺が寝ているベッドのそばだ。ベッドで寝ている俺を見下ろしていた。
「あと、八日」
そして、ちょうど一週間後。
眠っていた俺は、急に苦しくなって目が覚めたんだ。
俺は、髪の長い女に首を絞められていた。
苦しくて堪らないはずなのに、手足は動かない。金縛りって、ヤツだ。
声も出ない。まあ、首を絞められているからな。
女の腕は、華奢で細いはずなのに、滅茶苦茶な力をしていた。
女の指が、喉に食い込んでいるのが、自分でも分かった。
目を開けているはずなのに、目の前が真っ暗になってきた。
意識が、どんどん薄れていく。
俺はマジで死ぬかと思って、怖くて堪らなかった。でも、どうすることもできなかった。
薄れていく意識の中で、女の声だけがはっきりと聞こえた。
「あと、七日」
流石にこれはヤバイだろ。
最初はただの夢だって思ってたけど、一週間も続いてこんな夢を見るなんて普通じゃない。
もしかして、家賃が安いのって、コレが原因なんじゃねぇのかって、思うようになった。
俺は部屋を世話してくれた不動産屋に行って、事情を説明した。
結論から言えば、俺が住んでいる部屋は事故物件ってヤツだった。
昔、俺が住んでいた部屋で事故があったらしい。
告知義務とかないのかなと思ったが、何度も借主が変わっているみたいだ。
詳しいことは、あまり教えてもらえなかった。
例えば、誰が死んだなんて、向こうも知らないと言っていた。
本当かどうは分からないけれど、面倒になるのが嫌だったから、話したくなかったのかもしれない。
仕方ないから、俺は自分で調べることにした。
まずはネットで適当に検索を掛けてみたが、ダメだった。
適当なキーワードを打っただけでは、無理なようだ。
「あと、六日」
次に俺は市立図書館に行き、片っ端から昔の新聞を調べてみた。
時間は掛かったけど、目当ての記事を見つけることができた。
七年前。俺が住んでいる部屋で殺人事件があった。
殺されたのは、若い女で『K.Y.』という名前だった。
年齢は、殺された当時で二十六歳。犯人は捕まっていない。
顔写真も乗っていたけれど、小さくてあまりよく分からなかった。
でも、これであの女の名前が分かった。あいつが何処の誰だか分かったんだ。
俺はもっとアイツのことを調べようと、もう一度ネットで検索した。
今度は名前が分かっているんだ。前よりは、少しはマシな結果になるだろう。そう思っていた。
女の名前、住所、その他のキーワードを組み合わせて検索した。
まず、当時の新聞記事がヒットした。書いてある事は、図書館で閲覧した記事とほとんど同じだった。
次にヒットしたのが、『K.Y.』の友人のブログ記事だった。
そこには『K.Y.』と友人が親しかったこと、『K.Y.』が突然の不幸に巻き込まれたことに対しての悲嘆と、犯人への怒りが綴られていた。
そして、そこに『K.Y.』の写真が掲載されていた。
『K.Y.』は、髪の短い女性だった。
『K.Y.』は、背の低い女性だった。
『K.Y.』は、少しぽっちゃりとした丸顔の女性だった。
『K.Y.』は、俺の部屋に出てくる髪の長い女とは、似ても似つかなかった。
「あと、五日」
もう限界だった。
俺はほとんど何も持たずに、実家に帰った。
そして、両親に事情を全て話し、もうあの部屋に住みたくないと言った。
初めは、両親も半信半疑だった。でも、殺人事件の記事を見せると、流石に顔色を変えた。
夢の話が信じられないとしても、俺の住んでいる部屋で殺人事件が起こったのは、事実だからな。
そして、最終的には両親も納得してくれた。
俺は両親と一緒に新しい部屋を探して、引越しの手配を済ませた。
落ち着くまでの間、俺は友人のところを泊まり歩いた。あの部屋には、一度も戻らなかった。
あれから、あの長い髪の女には、会っていない。
◇◇◇
「──俺の話は、以上だ」
先輩の話が終わった。
僕たちは、「なかなか面白かったな」「なあ、その話って、マジ?」「やべぇよ。俺、一人でトイレ行きたくねぇよ」なんて、感想を言い合っていた。
そして、次の先輩がまた別の怪談を喋り始める。
結局、その夜は午前二時頃までは起きていただろうか。
やがて話も尽きてきたし、眠くなってきたので、みんなで雑魚寝した。
朝になると、先輩たちはノロノロと起き出して、「それじゃあ、世話になったな」と言って、ゾロゾロと帰宅していく。
例の事故物件の怪談をしてくれた先輩が、一番最後に帰って行く。
先輩は、玄関で靴を履きながら、こちらを振り返る。部屋の中を眺めながら一言呟いた。
「ここ、本当に懐かしいよな。オレ、一年前はここ住んでたんだよな」
先輩が一年前に住んでいた事故物件の部屋。
それは現在、僕が住んでいるこの部屋だった。
ああ、言われて見れば。
家賃が安かったのは、ここが曰くつきの部屋だったからか。
そういや、昨日も髪の長い女に追いかけられる夢を見たなぁ。
ああ、僕はどうすればいいんだ。
「あと、一日」
どこかで女の声がした。
『髪の長い女は此処にいる』了