三
あまり営為の良い生活を送っているとは言えない紬太郎は朝に弱く、岬が五時に起きて帰るまでの間には当然のように起きる気配は無かった。夜明け前の空が、暗闇から瑠璃色に、そして、太陽が空の色を完全な白に変える頃。胃の底から猛烈にせり上がってきた吐寫物を感じ、布団から起き上がった。いつもならばそのままトイレへ一目散に向かい、便器に向かって腹に溜めた物を盛大にぶちまけるのだが、その日は得体の知れない違和感があった。目を開けた時、見えたのは天井だった。昨日と同じように白と黒を混ぜ合わせたような色をした、見知った天井がぼんやりと視界に広がった。立ち上がってみたものの、足に力が入らず、そのまま横に倒れるが大した衝撃にはならない。床が、畳がいつもより近いように感じ、遠くの物が色を失って、ぼんやりとしか見えない。自分の手足が、自分の物なのにまるで動かし方が解らず、確認しようと顔の前に持ってこようといくら動かしても見えなかった。いや、届かなかったと言った方が近い。まるで、自分の手が縮んだような感覚だった。呼吸が早く、一度横になったまませり上がってきた吐瀉物を吐き出すと、いくらか楽になったが、吐き出した物を見ても明らかに量が少なく違和感を増やす要因になった。見えづらい視界の代わりか、嗅覚だけは鋭く、吐寫物特有の胃酸の酸っぱい臭いが鼻をつく。それに混じって、部屋の消臭に置いていた芳香剤の臭いが吐き気に拍車をかけた。一度吐けば、二度目も同じだと思った紬太郎は、せりあがる嘔吐感に任せて、もう一度畳に盛大に吐き出した。いくらか楽になった紬太郎は、立ち上がる。
それはまるで、小人になったような気分だった。昨日まであった座椅子が巨大なものになっていた。座椅子だけではない。机も椅子も布団まで、ありとあらゆるものが巨大な建造物になっていた。一体どうしたというのか。混乱したまま歩き出すと、自分が四足で歩いていることに気づいた。不思議な歩きやすさを覚えたが、やはり変だと思い、二本足で立ってみるものの、うまく立つことができない。仕方なく四足歩行のまま、洗面所に向かった。そこも同じく巨大に出来ており、鏡の前まで行くには骨が折れるぞと思っていた紬太郎だったが、以外にするすると登ることが出来てしまった。軽快に洗面台に攀じ登り鏡の前に辿り着いた。視界がぼやける為近づき、目を凝らす。そして、鏡に映る自分の姿に目を見開いた。
目も、耳も、鼻も、体全体がもはや人間と呼ぶには、あまりにかけ離れた姿になっていたのだ。灰のようにくすんだ毛に全身が覆われ、角膜領域が極端に広がった黒い目。物音を聞くのに極端に特化した大きな耳。突き出た前歯は鈍い光を放っていた。記憶の中でこの姿に当てはまるものがある。
鼠だ。その姿は今や鼠そのものだった。
鏡に映った自身の姿を信じることが出来ず、何度も確認した紬太郎だったがいくら見ても見間違う事は無く、頭を鏡に押し付けて途方に暮れたが、暫くして、これは夢だという結論に至った紬太郎はその場で眠りに着いた。起きても会社に遅れないように、そう考えながら。
けれど、再び目を覚ましても紬太郎の姿は依然として変わっておらず、一層この姿が現実味を帯びたものとなった頃、ありえないと思うよりも、何故こんな姿になってしまったのかを考え始めた。けれど、いくら考えても答えが出ることは無く、一旦洗面台から降りた紬太郎は、床に転がったスマートフォンの上に乗り、画面を表示させて時計を見た。十時四十二分。会社へ行くには一時間四十二分の遅刻だった。電話をしなくては、と思ったが、この姿ではそれもままならない。そもそも声を発する事さえ出来ない。浮かび上がったディスプレイには不在着信のアイコンが表示されていた。近づいて見ると、不在着信の数は四件あり、全て会社からのものだと気づいた紬太郎の焦りを募らせた。
午前の強い日差しが部屋に入り、部屋の温度を上昇させていく。茹だるような陽気に、全身が蒸されるような感覚を覚えた。クーラーのリモコンを見つけた紬太郎は。前足で踏んで、体重をかけることでクーラーの電源を入れる。冷たい風が送り出され、全身を包み込む。冷たい風に晒されたことによって頭は一先ず落ち着きを取り戻していった。広くなった部屋に小さく佇んだ紬太郎は、これからどうするかを考えた。部屋の中に居ても、冷蔵庫が開けられない以上、食料は無く、外に出て助けを求めようにも窓もドアも鍵がかかっており、完全に閉じ込められる形になっていた。どうすればいいかわからなくなった紬太郎は、部屋の隅に行き、身体を縮こまらせる。それが、自然と落ち着いた紬太郎は、そこで、暫くジッと動かず考えた。呼吸をする度に上下する小さな身体は、暗澹とした思考など微塵も感じさせず、濛濛と蓄えた体毛を揺らす。暗闇の中で、静かに息をして、考えを巡らせていると、はっと思い立ち、玄関へ向かった。そして、ドアと一体になっている郵便受けを見つめる。一々開けるのが面倒くさくなった郵便受けは、幸い取り出し口を常に開けっ放しにしている。そこは、今の紬太郎が飛びあがれば届くぐらいの高さに設置されていた。紬太郎はすぐに、ジャンプをして郵便受け内の出っ張りを攀じ登り、投函口を鼻先で何とか押し上げて、外に顔を出した。無理矢理こじ開けたせいか、鼻先にジンジンとした痛みが残る。痩せ我慢をしながら、そのまま身を捩る。玄関の方は日陰になっていた。そのことに救われた気になる。もし日差しだったならば、熱せられたドアに剥き出しになった肌を接し続けるのは少々熱いかもしれないと考えていたからだ。身を捩り、どうにか身体が出たものの、掴む物が無く、そのまま地面に叩きつけられた。強く打った腰に暫く悶絶した後、立ち上がった紬太郎は自然、鼻をひくひくと動かして、辺りの匂いを確認した。近くからも遠くからも様々な匂いが絡み合い、嗅覚が麻痺しそうになる。不快に感じた紬太郎は、こんな事をしている場合ではないと思い、とりあえずの腹ごしらえをしようと、近くのコンビニへ向かう事にした。
アパートの階段は、小高い山のように見えた。一段一段、決死の思いで降りていく。階段が吹き抜けになっているため、手を滑らせたならば、吹き抜けから真っ逆さまに地面に叩きつけられ、痛いでは済まないだろうと慎重になった。やっとの思いで下に着いた紬太郎は、辺りを見渡したが、視界の不良はもちろん変わらない。おまけに、昨日とは違い、視力まで落ちているように感じた。近くの物なら見えるが、遠くの物は全く見えない。その代わりに、目が左右に付いている為か視野は広がっており、斜め後ろの物でも視界に入ってきていた。
目で見るより、鼻を動かして匂いを辿った方が早いと、感じた紬太郎は鼻を動かした。やはり色々な匂いが漂ってくる。その中に、食べ物とも、何とも言えない匂いが鼻をついた。匂いの正体に首を傾げていると、紬太郎の前を巨大な影が通り過ぎる。慌てて、影に隠れた紬太郎は、花壇に隠れつつ、その影の正体を見た。
その影の正体は、知らない人間だった。小さくなった紬太郎から見れば、足音を五月蠅いくらいに響かせて歩き、靴が地面に付く度に、風が勢いよく巻き起こった。砂利が飛んで顔に当たった紬太郎は、すぐさま身を隠す。同時に、先程首を傾げた匂いの正体も判明した。これは、人間の匂いだったのだ。もう一度鼻を動かした紬太郎は、確信した。自分が鼠になったことで人間の匂いがわかるようになるなど、考えても見なかった紬太郎だったが、自分が、人では無くなったということを改めて認識させられた。しかし、ということは、この匂いが沢山集まっている方向に行けばコンビニにたどり着くかもしれない。小さくなった頭を最大限に働かせると、次第にコンビニを目指す方法が見え始めた。先程の人が居なくなったのを確認すると、早速身を乗り出した紬太郎は、匂いを嗅ぎ始めた。やはり先程の、人間の匂いが多く集まる場所を感じた。聴覚も手伝い、その道標が明確に見え始める。ある程度の距離を割り出した紬太郎は、空腹に抗うことが出来ず、夢中で走り出す。けれど、照り付ける午後のアスファルトの上は、焼けるほど熱せられており、熱さに踊らされながら、日陰を見つける度に休憩することになった。その中でも人通りの少ない道の、端を選んで歩いていく。元々の二日酔いがここにきて響き、中間地点に到着する前に既に道端で吐いた紬太郎は一つ咳払いをした。口の中の気持ち悪さと、日差しの強さに堪らず水を欲したが、道路の真ん中にそんな物あるわけが無い。コンビニに着くまでの我慢と思い、何とか耐えつつ歩いた。匂いが近づき、紬太郎はこれでやっと食べ物にありつけると、ホッとしていたのも束の間、辿った匂いの先にあったのは、ただの大通りだった。匂いはそこで途切れており、不思議に思った紬太郎は冷静に考えて気づいた。覚えたての人の匂いに頼りすぎていたことに。思えば、人の匂いを辿っていけばコンビニに着くなど、早計も甚だしい。この辺りは、昼間といえどもそれなりに人が多い。匂いをバカ正直に辿っていたことに後悔しつつ、トボトボと歩道を歩いていく。アパートのあった路地から離れ、人通りの多い大きな道に出た紬太郎は、普段当たり前に目にしていた雑踏に恐怖を感じた。普段見る他人の足はさながら怪獣映画のように、目の前でその迫力を顕著に物語っていた。雑踏の不揃いな足音に気が遠くなる。けれど、ここで止まっているわけにもいかず、木陰や建物の影など、なるべく目立たない端の方を行くことにした。
又、人の匂いが混ざったせいで、混乱した匂いの道標を、今度は食べ物の匂いに切り替えることで、目的の場所を目指した。足音も声も、耳障りなほど紬太郎の耳に入ってくる。聞こえすぎて、耳が遠くなりそうだった。そこで、ふと疑問に思う。人の声の数が少ないことに。足音と比べると、人の声は圧倒的に少なかった。会話が少ない。この地域、この時間に限ったことだったのかもしれないが、紬太郎は携帯を見ながら歩く女性にも、険しい顔で額の汗をタオルで拭う男性にもある種の同情のようなものを感じつつ、目的地を目指した。ようやくコンビニの看板らしき物が紬太郎にも見えた。それまで歩いていた紬太郎は最後の力か、或いは温存していた全ての体力を使い走り出した。けれど、よくよく見てみると、そこは本屋であり、気づけば人の匂いはするものの、食べ物の匂いは全くの皆無だということに気づいた。紙とインクの匂いに肩を落とした紬太郎は、再び歩き始める。ぬか喜びだった為、その足取りは目に見えて重くなっていた。一体、どこまで行けば、コンビニがあると言うのか。苛立ちが募る。ここまで一心不乱に歩いた紬太郎だったが、とうとう限界がきたのか、眩暈を覚え、ふらふらと日陰に入った。路肩へと倒れるようにへたり込んだ紬太郎は、体毛に覆われた腹部を大きく揺らして深呼吸をした。全身が毛に覆われているせいか、熱が篭る。そういえば、と実家で飼っている猫の事を思い出した。猫は夏毛、冬毛と生え変わるが、鼠はどうなんだろうかと疑問に思う。そんな詮無い事を考えている内に体力も僅かづつ回復の兆しを覚える。起き上がって、また歩き出そうとした時に、背後に気配を感じて、急いで振り向いた。黒い影が、紬太郎めがけて迫ってきていた。慌てて、走り出した紬太郎は間一髪で、その影の下敷きになるのを免れる。見れば、黒い影の正体は通行人の靴だった。都心の人々は絶えることなく街を行き交う。時折、自転車を走らせて、紬太郎の目の前を通り過ぎていく。一刻も早く、人のいない通路を探さなければと思い、嗅覚を頼りに、なるべく人のいない方へと向かった。危うく踏み潰されそうになった紬太郎は、心臓が速く鳴るのを落ち着かせつつ、路肩から、歩道へ移動する。人の足に踏まれないよう、神経を尖らせる。必死に人の気配を感じ取り、紬太郎は、ようやく、人の通りが少なくなってきた所で、本来の目的地を見失っている事に気づいた。人の気配に気を配りつつ、鼻先をひくひくと動かす。人の匂いに混じり、懐かしい匂いを嗅ぎつけた。「これは?」と頭を回転させて、匂いの正体を思い出す。だが、いちいち思い出す事叶わず、目的を失ったのを良い事にその匂いの方角へ向かう事にした。嗅覚と、今まで暮らしてきた土地勘を元に、人気の少ない裏通りを慎重に選び、尚且つ人目に触れないように陰のある場所を通る。よもや、道を選ぶことが生死の分かれ目になるなど、人間の姿では考えたこともなかった。角を何度も曲がり、走る。けれど、いくら嗅覚と聴覚が発達したとはいえ、視界に頼って生きてきた紬太郎は、自分が何処にいるのかさえ解らず、気づいたら、完全に迷子になっていた。
再び、人の多い通りに出ていたことに気づき、紬太郎は道の選択を失敗したことに気づいた。なるたけ注意をしながら進むが、いくら注意をした所で、鼠くらいの大きさでも、動く物が対象となれば、自然と目が行ってしまうものである。それは人気の少ない道を選んでいても変わらず、何度か人に見つかってしまった。ある者は紬太郎の姿を見つけたせいで、驚きの奇声を発していた。ある者は、目の敵のように箒で何度も叩いてきた。そんな待遇を受ける度に、自分がまた人間に戻れた時は小さな生き物に優しく接するように考えた。元よりそんな事考えた事もなく、子どもの時は捕まえても平気で死なせてしまっていた。それはやはり子どもながらに、命とはいえ所詮自分よりも小さなモノだからとバカにしていた節もあり、買っていた昆虫類やハムスターにも今更ながらに同情の念を感じてしまう。一寸の虫にも五分の魂という言葉の意味を頭では解っていながらも、自分で経験してみて、その言葉の重さに改めて気づかされることになった。
自分の身を守ることに精一杯の現状は宛ら自分でも滑稽に感じており、なぜこんな苦労を自分だけがしなければならないのかと悔しさに歯噛みした。
体力的にも精神的にも限界が近づいているのを感じて、木陰の隅で暫し休憩を取る。雑踏の中で小さく丸まり、耳を澄ましていると足音に混じって、蝉が鳴いていることに気づいた。いつから鳴いていたのか。気づいていなかっただけで最初からずっと鳴いていたのかもしれない。あぁ、そう言えば、蝉ってもう鳴いてたんだな、と夏の訪れを感じて、木陰の向こう、遠くに広がる日向を見つめる。太陽の日差しは強く照らしつけて、真っ白な日差しはツギハギのように舗装された黒い土瀝青を抱きしめる。日差しに包まれて、目の前を過ぎる女性の汗が地面に弾けた。地面に一粒の水玉模様を残して、長い髪を風にそよがせる。女性は、そのままショルダーバックを携えて、人ごみの中へ消えていった。その後ろ姿を見つめて、岬はどうしているのかと、気になった。
朝、紬太郎より早く起きたのならこの姿になった紬太郎を見ている事になるが、もしそうならば隣に鼠が倒れていることに驚く筈だ。もしかしたら、岬が起きていた時にはまだこの姿になっていなかったのかもしれない。なら、一体いつ? どこからこうなったのだろう? 疑問が錯綜する。こんな非現実的な事が、何故起こったのか。疑問はやはり尽きることはない。だが、まずは空腹を満たさなければ、頭は上手く働いてくれそうになかった。休憩を終えた紬太郎は木陰から歩道へ。そして、また人気の無い路地裏へ入り、空気中を微かに漂う懐かしい匂いを辿る。僅かな道標はまた徒労に終わるかもしれないという予感を孕み、けれど次第濃くなっていく匂いに縋りついた。そして、その匂いが発している場所へ到頭辿り着いた紬太郎は、その建物を間近で見て、懐かしさの正体を思い出した。
大理石で出来た入り口に、紬太郎の主観から見ると空までも続いているような六階建てのビル。その五階が、紬太郎の職場だった。家から、会社までの距離は歩いていける距離ではあるが、今の姿で考えるとそれなりに離れている。いつの間にこんな所まで? と自分に感心していると、エレベーターの到着音が鳴った。正面玄関に立っていた紬太郎は誰か降りてくるのかと思い、慌てて、隅の方に隠れる。すると、数人の声が聞こえて、扉の入り口――紬太郎が入ってきた所――から出て行った。エレベーターから降りてきたのは三人。いずれも聞き覚えのある声だったが、会社の人間とはあまり良い関係を築いていない紬太郎は、あまり話した事のない人間だった。話している内容から察するに、どうやら昼食を食べに行くようだ。
ちょうどいいと考えた紬太郎は、職場に行けば、食料も水もあることを思い出して、職場に上がることにした。さすがにエレベーターからでは難しそうだった為、階段から上がることにする。
一段一段が小高い山のように感じられたが、ジャンプをすればぎりぎり届く高さだった。紬太郎のアパートの段差とは違い吹き抜けになっていない分、気持ちが楽だった。一時間ほどかけて、五階まで辿り着いた紬太郎はそのまま、戻ってきた人間が再び入っていくのを見計らって社内に潜り込む。外の温度とは違い、クーラーの利いた社内は鼠の紬太郎からしても快適だった。一息ついた紬太郎は見えづらい視界の代わりに記憶にある社内図を思い出して、給湯室へ向かった。幸い、休憩時間はもう終わっている様子で、社内の奥からは、カタカタとキーボードの音と、人の声が聞こえてくる。その音に、仕事を無断欠勤したという罪悪感を覚えつつ、給湯室に着いた紬太郎は、人が居ないのをいいことに、台所によじ登って、流しに残っている水滴を飲んだ。本来の感覚ならば、当然流しに残っている水など汚いと感じるのだが、そんな事を考える余裕さえない程、喉の乾きは極限だった。十分に喉を潤した紬太郎は、台所を降りて今度は食料を探す。給湯室内の匂いを嗅ぎまわり食べられそうなものは無いか探し回る。
よもやこれ程情けないことをするとは思いもしなかった自分の姿を振り返り激しく落ち込んだ。本当ならば、今頃は何をしていただろうかと考える。思い浮かんできたのは、昼飯を食べ終えて、上司に仕事の報告に行ったものの、理不尽な事に小言を言われて、悔しがっている自分の姿だった。どちらにしても惨めであることには変わりなく、自分の人生は一体なんなのだろうかと考える。もし、人間に戻ったとしたら、恐らく仕事を無断で休んだということで真っ先に怒られるだろう。同年代の同僚の前で自分の無能さを包み隠さず言われるというのは、もはや紬太郎にとって公開処刑だった。紬太郎は、自分が怒られている際に向けられる同期の視線が堪らなく嫌いだった。自分が何も言われていないのを良い事に、人を見下すその顔面をいつかぶん殴ってやろうと思っていた。自分の小さくなった手を見つめる。もし、人間に戻れなくなったら、その手はもう奴らの脛にさえ届くことはない。そのことを考えて悔しさは一層募った。いっそ嫌いな奴の電源コードでも齧ってやろうかと考えたが、それでは自分も感電してしまうことを思い出してその考えを止めた。そしてその考えを至り、改めて自分が鼠である姿に毒されているかを感じ、激しい自己嫌悪に陥った。一匹の鼠が出来る事のなんと小さい事か。自分の嫌いな奴に制裁を加える事さえままならない。紬太郎は苛立ちを紛らわせる為、胸ポケットを探る仕草をしたが、勿論、胸ポケットなど付いている筈はなく、煙草もライターも無いことを思い出して、椅子の柱を思い切り蹴った。
ある程度見て回った紬太郎は、食べ物がありそうな所を見つけるが、ひとつは冷蔵庫、もう一つは蓋の付いたゴミ箱であり、どちらにしても容易に開ける事は難しそうだった。紬太郎は、まず冷蔵庫から探す事を試みる。流しから攀じ登り、置いていた箸を冷蔵庫の隙間に挿して、無理矢理こじ開けようとしたが、開くことはなかった。ならばと今度はテコの原理で開けようとしたが、弾き返されて、危うく流しの上から下に落ちそうになった。もう一度、同じ方法で試してみるものの、やはり冷蔵庫のドアは寸分も開かず、ドアから冷蔵庫内の食料を取ることは諦めざるを得なかった。一度、下に降りた紬太郎は、今度は僅かな隙間を見つけて、冷蔵庫の裏に忍び込む。巨大な綿埃の塊が顔を掠めて体毛に絡みつく。液体が漏れた後のようなベタベタとした感触が不快に感じさせた。埃っぽい生ゴミのような匂いが効き過ぎる鼻をつく。すると、目の前に黒い塊が見えた。ぼやける視界では見えづらく辺りが暗い事もあり、更に近づいて見た。ようやくその正体が解る近さまで来たところで紬太郎は固まる。その正体は巨大なゴキブリだった。壁に張り付き、触覚が不気味に蠢いていた。紬太郎と対峙していることに気づいたのか、足を動かして移動する。虫に関して言えば、それほど苦手ではないものの、自分と変わらない大きさのゴキブリに出くわすのは、やはり抵抗があった。何をしてくるかわからない恐怖に怯えながらも、傍を通り過ぎていく。ゴキブリの方も、紬太郎が怖いのか、その距離をどんどん広げていった。裏側に回り込んだ紬太郎は、壁に張り付くゴキブリに注意しながらも、進んでいくと、何かを踏んづけた。それは死骸となったゴキブリだった。紬太郎が踏んづけたせいで、足の一本が欠けていた。折れた足の先に乳白色の液体が溜まっている。居た堪れない気持ちになった紬太郎は、胸中で謝罪しつつ、冷蔵庫の裏から内部へ入る穴が無いかを探した。アルミの側面からは、低い雀蜂の鳴くような音が常に鳴り耳の奥に響く。コンデンサーが放つ温かい風が体毛を揺らす。裏面には入れそうな場所を見つけることが出来ず、底の方を覗いてみた。マグネットやチラシが落ちており、掃除が行き届いていないことが散見される。身を屈めて狭い隙間を見渡すと、そこに窪みを見つけた紬太郎は、しめたとばかりにその中に入っていく。中はやはりベタベタとしていたが、幸い中に入れそうだった。攀じ登って、更に奥に入ると、先程の黒い塊が今度は無数に蠢いていることが確認できた。冷蔵庫の中は、どうやらゴキブリの巣になっているらしく、さすがにその中を進むことは無理だと感じた紬太郎は冷蔵庫内の食料は諦めることを余儀なくされた。
出来るものなら冷蔵庫のものを食べたかった紬太郎だが、さすがにゴキブリの中を進むことは出来ない。苦肉の策だったが、もうゴミ箱で食べ物を探すしかないと思い、覚悟を決めた。とは言っても蓋が付いているゴミ箱は冷蔵庫と同じく開けることは容易ではないと思いきや、パンパンに昼食の残骸が詰められたゴミ箱は蓋が完全には閉まらず、紬太郎が入るには十分な隙間を残して浮かせていた。それを見つけた紬太郎はもう一度攀じ登った流しの上からゴミ箱の蓋の上に飛び降り、隙間の中へ入った。様々な臭いが混ざり合い、周囲を漂う生ゴミの臭気は、噎せ返る程鼻の奥をツンと刺激する。小さな袋の音を立てて、袋の中を探る。きつく結ばれた袋がある時は、前歯が役に立った。ゴミ箱から食べられそうな物を漁るという辛酸を舐めた紬太郎は、コンビニ弁当の殻を歯で齧り、余った漬物や魚の骨についた僅かな肉を食べる。それはもう人間としてのプライドを半分捨てたような物だった。ただ、元の姿に戻るために生きなければならない紬太郎は食べ残しをひたすら見つけては貪っていく。生ゴミの匂いにつられてブンブン飛ぶ回る小蝿を払いながら存分に胃を満たした紬太郎はゴミ箱から出た。生ゴミの匂いが体毛に染み付き不快だったが、空腹には変えられない。空腹と喉の渇き。同時に満たした紬太郎はそのまま人のいない給湯室をうろついた。クーラーの利いた室内は鼠の姿になった紬太郎にとっても居心地が良い。給湯室で暫くの休憩を取っていたが、人の話し声と、足音で我に返る。見つからないように室内の隅に隠れると、男二人が談笑をしながら部屋に入ってきた。声から察するに、どうやらその二人は紬太郎の知る人物のようだった。正確に言えば、忘れたくても忘れられない。一人は西浦と言う名であり、紬太郎の上司に当たる人物である。西浦は日頃から紬太郎の指導係をしている人物でもあり、毎日のように西浦の小言を浴びていた。西浦という人物は紬太郎の視点から見れば、自分勝手な人物であり、いつも自分の価値観で物事を話し、他人の意見を聞けば、まず否定から入るという取っ付きにくい人間であった。そんな印象もあり、入社した当初からあまり好きな人物ではなかった。もう一人は、黒崎と言う人物だ。黒崎は紬太郎の一月遅れ程で中途入社をしてきた、ほぼ同期と言ってもいい人物だった。唯一の同期ということもあり、終業後には呑みに行くことも多かったが、先に述べた西浦や他の人間とも仲が良く、所謂八方美人である為、黒崎のことも個人的な劣等感から、あまり好意的に思ってはいなかった。それどころかその社交的な性格を、コミュニケーション能力が些か欠けている紬太郎の前で見せつけられる事は、紬太郎の神経を逆撫でした。一度、西浦に怒鳴られている最中、黒崎が前を通った事があり、その時の人を小馬鹿にしたような表情は今でも忘れられない。その後、呑みに行った際にはかなりの言い争いになった。
「灰町さん、今日来ませんでしたね」と黒崎が控えめに呟くと、西浦は少し不機嫌そうに相槌を打つ。
「全く、入社して三ヶ月で無断欠席とは。最近の奴らは仕事に責任と言う物を感じていないから困る」
西浦の悪態の対象に自分が含まれていないことを感じ取った黒崎は、ご機嫌を取るように苦笑いで返す。陰から西浦の言葉を聞いた紬太郎は「人の気も知らないで」と言い返したい衝動に駆られるが、自分の置かれた今の姿を省みて、思いとどまるしかなかった。
「で、連絡取れたか?」西浦が訊ねた所、黒崎は「それが、何回鳴らしても出ないんですよ。まだ寝てるんですかね」と呆れたような物言いで返した。
「何回かけても出ないんならサボりだろどうせ。全くあの根性無しが」
本人に聞こえているとも知らずに、西浦の言葉はまるで凶器のように紬太郎の心を傷つける。西浦の無神経さにも、黒崎が何のフォローを入れない事にも激しい憤りを感じた。
悔しさに歯噛みする。けれど、心の中でいくら思っていても、鬱積した憤りは消える筈も無く、もやもやした感情を残した。
同僚である二人と紬太郎とは毎日顔を会わせなければならない間柄でもあり、紬太郎が今の会社を辞めたいと思った理由の一つでもある。黒崎の長いものに巻かれる姿勢は社会人として本来あるべき姿なのだが、紬太郎はやはりどうも合わないと感じていた。挙句、陰でこんな事を言われているのであれば、もう普段の小言さえも指導とは思えず、気に入らない部下へのたんなる憂さ晴らしであったのかと思えた。
「まぁ、人事もこれを機会に今度はもうちょっとまともな奴を入れてくれるだろう。あんな、仕事もまともに出来ない役立たずじゃなくな。そうなれば、俺もお前も少しは楽できるな」
西浦の言葉に「そっすね!」と黒崎はまた愛嬌のある声で応える。西浦の為に用意した紙コップにコーヒーを注いだ黒崎は、取っ手付きのホルダーを付けて西浦に手渡した。
「あぁ、すまん」と短く言われた黒崎は「いえいえ」と恐縮し、自分の分もコーヒーを紙コップに注いだ。一口飲んだ西浦は「あいつもこれぐらい気が回ればな」と再び紬太郎を引き合いに出す。
「しょうがないっすよ。灰町さんですから」
黒崎は返すが、その言葉はどう聞いても貶しているようにしか聞こえなかった。紬太郎はその場に出て今すぐ二人を殴り殺したい衝動に駆られたが、それを必死に抑え、どうにもならない現状に、ただ給湯室を出ることしか出来なかった。
給湯室を出て左手にある出口から出ようとしたが、入った時とは違い、中々タイミングよく社外へのドアも開かず、せめて見つからないように途方に暮れていると、給湯室の奥、社員が作業をしている部屋から、人が出てきた。足音が聞いた紬太郎は、やっとこちらの方に向かって来たかと思い、すぐさま身を潜めたが、どうやら給湯室の方に曲がったらしく西浦と黒崎に対して「お疲れ様でーす」と言う声が聞こえた。中にいる二人は適当な返事をした後、「おい、聞いてくれよ」と西浦が話を切り出す。
「灰町さんのことですか?」と名前もわからない人物は聞き返した。
「よくわかったな。あいつ、今日来ると思うか?」
西浦の質問に「来ないでしょ」と即答で答えた。たちまち給湯室は笑い声に包まれる。
「こんな短期間で無断欠勤するなんて、この先仕事が勤まるかどうかも怪しいですし、いっそもう辞めて欲しいですけどね」
名前の知らない人物は、冷たく言い放つ。
「バカ。あいつは、無断で欠勤したんだ。今までの事もあるし、正当な理由でも言い繕わない限り、自主的に辞めさせられるだろうよ。あいつに、言い繕える程の頭があると思うか?」
「ははは」と黒崎の声は優越感を含んで紬太郎の耳に届く。部屋を離れていながらも聞こえてしまう今の聴覚が恨めしかった。やり場のない悔しさに憤り、元の姿に戻ったならば、まずはこの三人を殴ってから辞表を出そうと三人の声を耳にしっかり焼き付けた。そんな紬太郎を余所に、名前の知らない人物は更に続ける。
「どのみち無職になろうが、職歴に傷がつこうが、俺の知ったことじゃないですけどね。みんな忙しいんだ。あんな自己中心的な奴に構っている暇はないですよ」
トドメの様に放たれた言葉は、紬太郎にまるで関心の無い発言者の様子を容易に想像させ、紬太郎の傷痕を更に深く抉る。悔しさに顔を伏せていると、社外へのドアが開き、外から帰ってくる人物とすれ違いざまに出て行く。
「あいつにとって、この三ヶ月は全て無駄だったわけだ」
出る間際、西浦の笑い声と共に、そんな言葉を聞いた気がした。
三人の言葉が耳に焼き付く傍ら、只管毒吐く。聞いていたのに、目の前に出て言い返せない事がこの上なく悔しかった。階段をジャンプして降りる。
気がつくと紬太郎は、職場のビルの前に立っていた。どうやって五階から一階まで降りたのか。記憶が飛んだように思い出せない。あまりの悔しさに頭が馬鹿になったのかと思った。もしかしたら、今まで職場に居たことさえ夢だったのかもしれないとさえ感じていた。けれど、満腹になった胃が、それを現実に引き戻す。あんな奴らの残飯で生き延びた事が何より滑稽だった。叫んで走り回りたい衝動に駆られる。いっそ気が狂えばどれだけ楽に受け入れられるだろうか。しぶとく正気を保つ頭に日差しが降り注ぐ。太陽は赤く焼け、体毛を緩やかに焦がす。自分の小さな影を見つめる。それは、紬太郎の人間としての小ささを映している鏡のようだった。
密かに。心のどこかで、自分は心配されているんじゃないだろうかと思っていた。会社にとって、必要な人間だと信じていた。けれど、この場所に来て、自分は改めて必要の無い人間だと思い知らされた。傷つけられた矜持は行き場をなくして彷徨う。歩きすぎて覚束無い足になりながらも出てきた外には、人間の足が舞っている。雑踏が、人の会話が、呼吸音が五月蠅く鼓膜に鳴り響いた。どこか遠くへ行きたい気分だった。傷心旅行では無いけれど、何か一つ救いが欲しかった。自分が、まだ生きていていいんだと。こんな姿になっても生きていていいんだという拠り所が欲しかった。
来たときよりも力なく、街の中へ消えていく。人気の無い裏路地へ入る。どこへ向かうのか、考えないまま歩いていく。野良猫が一匹、ゴミを漁っていた。膨らんだ袋を破り、生ゴミを夢中で食い漁っていた。その様子を見つめて、自分もあの野良猫と変わらないと思う。胸中で乾いた笑いを浮かべた。その姿の何と滑稽な事だろうか。自分もこんな風に奴らのゴミを漁ったのかと思うと、もはや笑うしかなかった。野良猫は腹を満たしたのか、今度は紬太郎の存在に視線を移した。新しい玩具を見つけたと言わんばかりにゆっくり近づいていく。ぴくりと動こうものなら鋭く研いだ爪は、すぐさま紬太郎を捕らえるだろう。遅れて、興味の対象が自分に向いた事に気づき、紬太郎は息を飲んだ。野良猫はじりじりと距離を詰めていく。今にも獲物を追い詰めんとばかりに好奇心に満ちた目を丸く見開いて、鼻先を近づける。ひくひくとピンクの鼻を動かして、匂いを嗅ぐ。それはまるで、紬太郎が玩具となる存在に値するのか確かめているようだ。
(待ってくれ。俺はお前と一緒なんだ。俺は――)
そう思っている間に、気づいたら紬太郎は左側の壁に叩きつけられていた。何が起こったのか解らず惚けていると、野良猫は再び眼前まで迫ってきた。丸く見開かれた目に体ごと射抜かれたようにその場に縫い付けられ、恐怖に身を震わせた。自分がその猫の右手に叩かれた事に気づいたのは、二発目を食らった後だった。地面を転がる紬太郎を猫は追いかける。猫にしてみれば、それは単なる遊戯に過ぎないのだろう。けれど、紬太郎は迫り来る死への恐怖に初めて心の底から恐怖した。ここで自分は死ぬかもしれない。そう思った時、ふと岬の顔が思い浮かんだ。死にたくない一心で、紬太郎は最後の力を振り絞り走り出す。だが、動くものに反応した野良猫は紬太郎に三発目のパンチを食らわせた。鋭い爪で、体毛を肉ごとごっそり抉りとる。鋭い痛みが背中に走った。首を絞めたような甲高い鳴き声を短くあげ、立ち上がって逃げようとした所を前足で押さえつけられた。爪が傷口に食い込み、痛みは更に増す。
(あぁ、もうこれは死ぬな)
薄れゆく意識の中でついに死を覚悟した。野良猫は前足を退かし、動かなくなった紬太郎の身体を咥えて、歩き出した。住処にでも持ち帰るのだろうか、と考える。
(あぁ、今から自分は猫に食べられるのか)
振り返れば、紬太郎の人生は何と詰まらないモノだったろうか。同僚にも見放されて、自分と境遇を重ねた野良猫にさえ裏切られた。まるで弱肉強食で成り立っているこの世の縮図のようだ。自分の弱さを思い知った。
紬太郎を咥えた猫は、裏路地を出ると、人の多い通りを早足で抜ける。猫の唾液が抉れた背中に沁みてじんじんと傷んだ。口に咥えたまま、暫く歩いていた猫だったが、顎が疲れたのか口から紬太郎を離した。その隙をついて、紬太郎はその場から逃げ出す。走る度に爪痕の残る背中が傷んだが、背後に迫る死の危険に比べれば、そんなことに気を割いている余裕はなかった。
逃げることに夢中で、前を良く見ていなかった紬太郎は、下水の匂いにも気づかずに、そのまま排水溝の隙間に落ちてしまい、真っ逆さまに薄暗闇の中へと消えていった。