二
目的地である博多口の駅ビル前に着いた時、一方的に待ち合わせを取りつけてきた波戸 岬は既に立っていた。手に持っているアイフォンを操作し終えると、ゆっくり顔を上げる。そして、険しい表情で紬太郎に気づくや否や「遅いよ」と言葉を乱暴に投げつけた。両耳からイヤフォンを外した紬太郎は、遅くなった事に関して一言謝罪の意思を伝えるが、悪びれない紬太郎の態度では納得できないらしく、険しい表情のまま目的地も言わず歩き出した。
波戸 岬とは以前の職場で知り合った。だが、それは同僚としてではない。懇意にしている保育所に営業で訪問した際、その園で保育士をしている岬と出会った。たまたま園長が不在であった為、初対面であるにも関わらず岬は、園長が戻るまでの間、伽の相手になってくれた。その時のやり取りが功を奏してか、その後、頻繁に連絡を取り合い、今では恋人のような友達のような関係をダラダラ続けている。主体性の無い紬太郎から見れば、主体性の塊である岬と一緒にいる事は気が楽だった。自分が悩む間に答えを出してくれる岬の存在は、紬太郎にとって有り難い存在だと感じており、生涯を共にするならこの人が良いと結論は出しているものの、先の見えない自分の将来と、岬がどう思っているのか聞けない事で中々言い出せずにいた。そもそもそんな事を言う以前に紬太郎は、付き合うという意志の明確な言葉も伝えておらず、岬と恋人であるのかさえ甚だ疑問であった。
岬は、そんな紬太郎の苦悩も知らず、職場でのジャージにTシャツというラフな格好から着替えて、二十歳半ばの身なりに合った清楚な服装をして紬太郎の前を歩いていた。流行の服装などに関心がなく、故に疎い紬太郎であっても、岬の服装を見て僅かに胸が高鳴る。人ごみに紛れて側に寄ると、女性特有の甘い香りが鼻腔を優しく擽った。それに混じって僅かにアルコールの匂いを感じたならば、さてはこいつ、ここに来る前に誰かと呑んでいたなと勘繰った。付き合いだして日の浅い紬太郎だが、岬という女性についてある程度の理解はしているつもりだった。顔は、それほど醜くはない。むしろ、整った顔立ちは見ようによっては美人と言えなくもないだろう。中身も中々の器量を併せ持つ。けれど如何せん、その断りきれない性格は彼女の美徳であり、紬太郎の最大の不安の種でもあった。一度考え出すと我慢の出来なくなった紬太郎は呑んできたのかを問うと、岬の口からは同僚の友達と飲んでいた旨の返答がくる。その同僚達と別れた後、呑み足りなくなったため、紬太郎を誘ったという言葉を補足して。紬太郎は「そういうことか」と安心したような言葉を述べるが、内心の疑惑はまだ晴れない。一緒に居なかった以上、言い繕う事などいくらでもできる。爾く紬太郎は、人の話になど聞く耳を持たない人間であった。話を受けようものなら、否定から始まり、最終的には自分が正しい事を主張する人種であった。
そんな紬太郎の心中を知らず、前を行く岬。「どこへ行くの?」と聞くと「居酒屋。できれば、ラーメンがある所」と返ってきた。
「それなら、君が天神の方に来てくれれば良かったのに。博多は美味しいとこ少ないよ?」
紬太郎の言葉を聞いた岬が振り返り「味なんてどうだっていいよ」と返答がきたならば、紬太郎はまるで、そんな事を気にしている自分を馬鹿にされているような気分に陥った。何も言い返せなくなった紬太郎は沈黙し、彼女の後ろを付いて行く。
博多口から駅構内を抜けて筑紫口に出ると、そのままヨドバシカメラの方面へ行き、この時間でも空いている居酒屋で、且つラーメンがメニューに載っている店を探した。紬太郎も、表に出ている看板を懸命に探したが、依然として色素の無い世界は普段と全く見え方が異なり、結局先に店を見つけたのは岬の方だった。情けなさを覚えつつ、店内に入った二人は、カウンターの端に座り、荷物を置いた。「とりあえず、ビール。二つでお願いします」と何処かから貼り付けたような台詞を店員に伝えた。女性に注文を取ってもらう事に再び自身の情けなさを感じた紬太郎は煙草に火をつけ、気を紛らわす。
「煙草。臭いから、煙吐くときはむこう向いてね」
そう言われ、紬太郎は天井に向けて白い息を吐いた。けれど、それでも煙草を目の前で吸っている事には変わりなく、ついには「服が煙草臭くなる」「外に出て吸って」と散々言われる羽目になった。挙句「禁煙はしないの?」と言われた紬太郎は「岬が禁酒するなら僕も煙草を止めるよ」と返して、無理矢理話を終わらせた。一本目が吸殻に変わる頃にはお通しが運ばれてきた。小洒落た小鉢に入ったモツの酢和えと漬物が二人の前に置かれ、後を追うように、ジョッキに入ったビールが運ばれてきた。ふと思い出して「ラーメンはいいの?」と訊ねた紬太郎に「それはあとから」と言って、乾杯を求めてくる。紬太郎はそれに応え岬から差し出されたジョッキに自分のジョッキをキンと当てた。そのままジョッキに口付け、喉を鳴らす岬を紬太郎は複雑そうに見つめる。音を立ててジョッキを机に置いた岬は「紬くん、呑まないの?」と訊ねてきた。
「いや、呑むよ。君があんまりにも美味しそうに呑むから魅入ってた。でも、君はもう少し淑やかさを身に着けたほうがいいよ。呑み方がまるでおっさんだ」
紬太郎の言葉を聞いた岬は鼻で笑う。「めんどくさい人だね」と思っているのが、言葉にせずとも伝わってきた。紬太郎は、耐え切れず自身のジョッキに口を付ける。淡雪のように弾ける泡を、茹だった喉に一気に通すと、体の芯から冷ましてくれるようだった。岬にそう思われた事からのショックを紛らわせるように、空になる寸前まで一気に呑んだところで、ジョッキを机に置いた。
「一気に呑むと身体に障るよ」身体を労わる岬に「そうだね」と相槌を打つ。
店内に居る客は疎らで、先程まで人混みの中を歩いてきた紬太郎を楽にさせた。一気に胃に流し込んだアルコールと相成って自然と気持ちが緩む。
「今日の呑みは仕事仲間?」
既に終わった話題を持ちかけられ、岬は呆れた様子だった。「まだ疑ってるの?」と言われて、言い淀んでいる紬太郎に、アイフォンで撮った写真を見せられた。そこには岬を含めた女性三人が写っており、ホールケーキを囲んではしゃいでいる様子が、収められていた。ケーキには今日の日付も書いてある。その下にはコメントと今日祝われたであろう人物の名前もあった。それを見て安心した紬太郎の心中を見抜いたかのように「やっと信じてくれた?」とからかう様な表情を向けてくる。その視線は、紬太郎からしてみれば少し不快だった。写真があるなら、最初から言ってくれれば良かったのに。心配させておいてと心中で毒を吐く。
「僕の仕事中に、楽しそうに過ごしてたんだね」と嫌味をたっぷり含んだ口調で言うと「まぁね」と返した岬は、お通しであるナスの漬物を口に運んだ。
「久しぶりの女子会だったからね」
彼女が口に運んだ漬物の小鉢に箸を伸ばす。ナス、胡瓜、大根の三種類の野菜で彩られた中から胡瓜を箸で摘み口に運ぶ。あまり、漬物に関心を持ったことは無かったが、失った塩分が程よく補給され、その味に舌鼓を打った。
「美味しいね、この漬物」いつの間にか二口目を口に入れていた岬から言われると、紬太郎はメニューを睨んで、その漬物が何かを調べた。
「京風漬物って書いてあるね」
紬太郎の言葉に「へぇ」と相槌を打った岬は、ビールを煽る。喉を鳴らして呑む姿を見て、紬太郎も自身のジョッキを持った。負けじと喉を鳴らして呑むと、残っていた中身は瞬く間に空になった。そのままジョッキを口から離すと、勢いに任せて机に置いてしまい、大きな音を立ててしまった。岬が止めるのを振り切り、店員に二杯目を注文すると、素早くビールが運ばれてくる。モツの酢和えを一気にかきこんだ紬太郎は、並々と注がれたジョッキをまたも一気に呑みはじめた。
「絶対、身体壊すからね。どうなっても知らないよ」と念を押すように言われたが、既に聞く耳は持っていない。紬太郎の性格を知っている岬は諦めてメニューを見る。
「さて、私は宣言したとおりラーメンを頼むけど、何か頼む?」
岬はメニューを差し出して、紬太郎に訊ねると「じゃあ、同じものを。それからこの鳥の刺身も」と返した。店内を忙しなく動く男性店員を呼びつけて、注文を取る岬を見て、紬太郎は、また女性に注文をさせてしまったという事に気づいて、ビールを一気に煽った。
「今日はどうしたの?」呆れを通り越した笑みを浮かべて、岬は訊ねる。何か変な事があっただろうかと思った紬太郎は「なにが?」と聞き返す。
「イライラしてる」
そう言った岬の言葉は的確だった。本人さえも自覚のない事を平然と言ってのける。呆気に取られた紬太郎は岬を見つめて、今日の自分を振り返ると、確かに少し思考が乱暴になっていたかもしれないと思う点がいくつかあった。では、何故乱暴になっているのだろうと思考を巡らせると、行き着いた先は、やはりこの視界の不明瞭さであった。心中を悟られたついでに、紬太郎は、この視界の事について話してみた。退社後、外に出たときから、全ての色が失われている事を。……紬太郎の話を聞いた岬は「それで、今日はメニュー表あんま見なかったのね」と納得した様子だった。「見てたじゃないか」紬太郎が言い返すと「見ても、物凄い顔で睨んでたよ」と馬鹿にした様子で笑われてしまい、紬太郎はジョッキに口を付けるが、空だったことに気づいて、手を離した。
「おまちどおさまでーす」
男性店員がそんな二人の間に割ってはいる。湯気の立つラーメンが二人の前に置かれた。店員が去る前にもう一杯ビールを注文する紬太郎に「緑内障とかじゃない? ウチのお父さんが、緑内障になった時、そんなこと言ってたよ」
ビールを飲み干していた岬は割り箸を持って答えると、麺を啜った。再びジョッキを持って戻ってきた店員からジョッキを受け取ると、一口含んで喉を唸らせる。
「ここに来る途中、スマホで調べてみたけど、緑内障は外側から視野が狭まっていくらしいよ。僕のは違う。いきなり、全体にフィルターが敷かれたみたいに全部灰色になったんだ。網膜剥離とか視神経の炎症かもしれないけど」
紬太郎の言葉を聞きながら麺を飲み込んだ岬は「いずれにせよ、明日病院に行ったほうがいいかもね」と言って麺を啜った。
岬にそう言われて、一気に不安感が募った紬太郎は遅れて、ラーメンに手を付ける。ぶよぶよの背油の浮いたスープが麺に絡まり、その上に白髪葱と厚い焼豚が乗せられている。店内の照明を映す表面を箸ですくって、麺を一気に啜ったが、勢い余って咽てしまった。
「大丈夫?」
優しく声をかける岬に頷く。咳が落ち着いた後、今度は落ち着いて麺を啜った。
「うん。凄い脂っこいけど、美味しいね」
麺を飲みこんだ紬太郎が言うと「どうしてそう素直に『美味しい』って言わないかなぁ」と岬はぼやいた。
「人聞きの悪い。僕はちゃんと素直に言ってるじゃないか。素直に自分の思ったことを言ってるだけだよ」
その言葉に言い返す気力も無くした岬は、「ふぅん」と適当に相槌を打った。
「どうでもいいけど、麺はちゃんと噛んで飲み込まないと消化に悪いよ」
身体を気遣う岬の言葉にやはり耳を貸さず、麺を啜る。そのさりげない優しさも、今の紬太郎には煩わしく聞こえていた。
「ねぇ、ちゃんと聞いてる?」
「あぁ、ちゃんと聞こえてるってば」
身を乗り出してきた岬にそう返すと、今度はジョッキを一気に煽る。これにはさすがに「もう、社会人なんだから。いきなり倒れても知らないよ」と心底呆れた様子で言い捨てられた。岬が少しだけ嫌悪感を顕わにしていることも意に介さず「その社会人だからっての、やめてくれよ。自分が飼い慣らされてるみたいで嫌いなんだ」と威圧的に返した。
運ばれてきた鳥の刺身を、惜しまず二、三切れづつ一気に食べる。会話も疎らに、麺を食べ終えた岬はスープにも手を付けて、二、三匙を蓮華で飲むと、満足したように笑顔を見せる。子どもだけならまだしも、顔も知らない保護者にもこんな顔を向けているのかと思うと、紬太郎の心に言い知れぬ不安感が現れた。合間に、今度は芋の焼酎を頼んだ紬太郎はその不安を消すように、運ばれてきたコップを煽ると酒気を含んだ息を吐きだす。タバコに火をつけた。今日はいつになくペースが速いことを岬に指摘されるも、酒が無ければ飯が進まないと屁理屈を捏ねて、構わず追加の注文を出した。まだ呑む気か、と言わんばかりの表情で見ている岬の前でグラスを空け続けた紬太郎は、店を出る頃には岬の肩を借りて帰る羽目になっていた。
完全に酔っていた紬太郎だったが、忠告を無視してこうなった事に、何度か謝ってはみたものの「謝るぐらいなら言ったときに止めときなよ」と一蹴されてしまう。その一言で更に面目ない気持ちに苛まれた紬太郎は、何とか自力で歩こうと試みたがやはりすぐに潰れてしまい、岬に身体を預けたままに歩いていく。酔いと、視界の悪さも重なり何処を歩いているのか把握できていない足は波間に浮かぶ船のようにゆらゆらと揺れている。流眄を向けると、岬の顔が真横にあり鼓動が速くなった。所々茶が混ざった鳥の羽のような軽いクセ毛が浪うちながら、紬太郎の頬を擽る。次第に荒くなる呼吸が首筋に凭れた左腕にかかる。
「おもいよー」
苦しげに唸る岬は、コンビニの前の花壇の石垣に紬太郎を座らせて、暫しの休憩を挟んだ。自販機にて飲み物を買い、その内の一本を紬太郎に差し出す。礼を言って、受け取った物は青いラベルのスポーツ飲料だった。
「すっきりするよ」と言われ、蓋を開けようとするも、酔っている為か手に力が入らず結局岬に開けてもらった。懲りずにお礼を言った紬太郎はペットボトルに口付ける。火照った喉にすっと染み渡るような冷たさが、少しだけ酔いを醒ましていく。それで気持ちが大きくなった紬太郎は「ここからは一人で帰れるよ」とのたまうが、信用されずやはり鼻で笑われた。
空を仰ぐ。今日は曇りかと思った後、自分の視界の事を思い出した。
「あぁ、このままだと今日の天気もわかんないのか」と呟く。隣に居る岬にはよく聞こえなかったのか「うん?」と聞き返して反応した。
「なんでもないよ。それより、明日も仕事?」
岬はまた「うん」と言って、紬太郎にも同じ質問をした。紬太郎も同じく肯定すると、続けて「新しい仕事慣れた?」と聞いてきた。少し沈黙をした後、首を横に振る。気まずい雰囲気に、岬もペットボトルのお茶を飲む。
「紬くんがせっかく心機一転して始めた事だもの。もう少し頑張ってみようよ」
元気付けているのか解らない岬の言葉にただ一言「頑張ってみるよ」と頷いた。だが、それも本心からの言葉ではなく、言い繕った言葉であり、仕事のことに関して言えば、最近は仕事中に、退職について考える時間の方が長いことにも一抹の後ろめたさを感じていた。岬に励まされた今も、酔いの回った頭の中では辞表を出すタイミングを考えている。それを応援してくる岬の姿はさらに紬太郎を追い込む足枷になっていた。
スポーツ飲料を一口飲んだ紬太郎は「免許を取って、岬の職場で働くのも良いかもしれないな」と漏らすと、即答で「止めたほうが良いよ」と岬に止められた。理由を聞くと「子どもが好きなだけじゃ保育士になれないから」と返事が来て、紬太郎は頭を捻った。
「よく意味がわからないな」
「酔っ払った頭じゃねぇ……」
岬は苦笑する。その言葉の意味を上手く飲み込むことができなかった紬太郎は憤りを感じて言い返す。
「じゃあ、君は今の仕事は辛いのかい?」
「辛いよ。だって、仕事ってそういう物でしょう?」
「……よくわからないな」
はぐらかしてペットボトルを一気に空にした。返事の代わりに微笑みかけた岬の瞳はひとときの憂いの色を秘めて、紬太郎の心を慰める。「そろそろ行こうか」岬の声に導かれるようにまたぞろ歩き出した。
天神から少し通り過ぎた赤坂に紬太郎の家はあるが、時刻は既に深夜一時を回っており、こんな時いつもはバスを使う紬太郎だが、この時間からのバスはさすがに出ていない。結局、岬にタクシーを呼んでもらう事にした。博多口方面で待っていると、タクシーはすぐに捕まり、ドアを開けてもらった紬太郎は岬に肩を借りつつ乗り込んだ。一緒に乗り込んできた岬を見て「今日は帰らないの?」と聞くと「さすがにそんなにへべれけな紬くんをほっとけないでしょ。家まで連れてくよ」と、きた。岬の家は博多からは遠い、西区の方にある。終電に間に合わなくなったときなどは時折紬太郎の家に泊まっていくこともあるが『連れて行く』という言葉に、鄙猥な妄想を抑える事は本能が許さなかった。そんな心中を置き去りにドアを閉めた運転手は、目的地を聞いてタクシーを走らせる。次々に景色を移していく車窓を見つめる。夜の暗闇とネオンの光は、今や味気の無い色に褪せて、景色が変わる度に胸を締めつけた。いつの間にか繋いでいた岬の手は、紬太郎の手の熱を伝えていく。無言でタクシーを走らせること、十数分。家の近くまで来た二人はそこで降ろしてもらい、手の覚束無い紬太郎の代わりに岬がお金を払うと、礼を言ってタクシーを見送った。
「大丈夫?」
数分置きに聞いてくる岬の言葉に「大丈夫」と返事をして、一人で歩き出そうとした所で膝から崩れ落ちる。「あぁもう」岬は駄々を捏ねる子どもをあやす様に手を取り、肩を貸した。もう何度言ったか解らない謝罪の言葉を伝えると「ごめんねはもういいよ。どうせ、今度から気を付けるつもりは無いんでしょ?」と返され、すかさず「今度から気を付ける」と付け加えた。
アパートの玄関前まで着くと、岬は紬太郎のビジネスバックの中から鍵を取り出し、家のドアを空けた。
一日部屋の中で熱された空気が一気に二人を包む。「うわ」と思わず言ったのは岬だった。隣に居る紬太郎にはその温度を感じることが出来ず「あぁ、少し臭う?」と見当違いな事を言った。
「ううん。暑いだけ」
岬は玄関に紬太郎を座らせて、ドアを閉めると、急いで部屋の中に入りクーラーを付ける。冷房を二十四度に設定すると、鈍い音を立てて送り出された冷たい風が、紬太郎をここまで運んで汗だくになった身体を冷ました。玄関に置き去りにされた紬太郎は、地べたを這って岬の居る居間まで辿り着くと、部屋の電気を点けた。
「電気くらいつけなよ。暑いのはわかるけど」
「あら、ごめんなさい」
岬の身体を通して送られてきたクーラーの風は、甘い香りと汗の匂いを含み、部屋を満たしていく。十分に身体を冷ました岬は、クーラーの前から離れて狭い台所に向かった。その行き先を見て、危機感を覚えた紬太郎だったが、何分部屋自体が狭いせいで、振り向いた時には、既に岬は台所の前に立ち尽くしていた。「あぁ」と思ったときには遅く、予想通り、台所から驚きの声が聞こえてきた。
「あー、やっぱり。紬くん、流しに物を溜めたらダメだって言ったじゃない。この前、掃除したばっかなのに、こんなにゴミ溜め込んで……しかも、カップ麺とか惣菜とかばっかり食べてる。ちゃんと食べてるからいいとして、もう少し栄養とか考えないと身体に障るってば」
心配そうに言いながら、流しのゴミをビニール袋に入れていく。岬の説教は聞きながら、申し訳なさを感じつつ胸ポケットから取り出したゴールデンバットをふかして、テレビを点けた。画面の向こうでは、お笑い芸人が身体を張って挑戦するバラエティ番組が映し出されるものの、いつもと見える景色が違うためか楽しむことが出来ず、つまらなそうに半分程吸った煙草を灰皿に押し付けた。再び台所に視線を向けると、水の流す音が聞こえる。皿を洗ってくれているのだろうと流眄を向けて、座椅子の背に凭れかかった。やがて、水を流す音が止まると岬が戻ってきて、紬太郎の前に水の入ったコップを置いた。
「これ、飲んで」岬の言葉に紬太郎はそのコップを受け取る。短く礼を言った紬太郎は、その水を一気に飲み干すと、思い出したように「トイレ」と言って居間を出てすぐ左手にある個室に入った。洋式便器の水溜まりに向けて小用を放ち、手を洗って電気を消した。居間に戻ると、岬は先程消したばかりのテレビをまた点け、正座をして見ている。足を崩して良いのに、とは思いながらも、岬は正座の方が落ち着くと以前言っていた事を思い出して、その隣にドッと倒れるように腰を下ろした。
「ほんとに、大丈夫?」
顔を覗き込んでくる岬に「大丈夫だって。それよりテレビ、何か観たいのがあってるの?」と言い返した。それを否定した岬は「点けてるのが嫌なら消すけど?」と付け足し、紬太郎は「どっちでもいい」と曖昧に返した。
「それより、今日はどうする? もう遅いから泊まっていく?」
「うーん。泊まっていこうかと思ったけど、明日、早いし……紬くんも明日仕事でしょう? 迷惑かけるから今日は帰ろうかな」
「どうやって?」
「迎えに来てもらおうかな」
「誰に?」
「お母さん。多分、まだ起きてるから」
紬太郎は「そうか」と言って納得したような素振りを見せたかと思うと「せっかくだから泊まっていったら? 迷惑になると思うんなら心配しなくていいよ。それが許せないなら、朝飯でも拵えてくれれば助かるよ」と食い下がった。岬は悩んだ挙句、泊まることを了承して、シャワーを借りる事を伝えると、脱衣所に向かった。着替えは、前に泊まりに来た時に置いていた洗濯物から適当に使い、岬がシャワーを浴びている間に紬太郎はゴールデンバットをまた一本ふかすと、座椅子に凭れたまま目を閉じた。灰皿から立ち上る煙が部屋一杯に充満する頃、岬が脱衣所から出てくる音が聞こえる。
「紬くん。お風呂、空いたよ? 紬くん?」
風呂上がりの岬が声をかけた時には、紬太郎は既に目を瞑って寝息を立てていた。
「もう」と悪態をついた岬は、押入れから二人分の布団を取り出して、畳の上に敷くと、その上に紬太郎を寝かせた。意識の無い人間を運ぶのは、女性の岬にとっては容易ではなく、スーツの上着を脱がせて、寝かせたら少し汗が滲んでいた。
紬太郎を寝かせて、安心した岬は自身も床に就こうと洗面所に向かう。置きっぱなしにしている歯ブラシを使い、歯磨きを済ませた後、お手洗いを済ませ、戸締りを確認してから部屋の電気を消した。アイフォンの目覚まし機能をセットし、寝る準備を全て終えた岬は、安心して布団へ横になる。そして、小さな窓の外で空に一つ輝く星を見つめながら、そのまま静かに眠りに着いた。