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 喩えて言えば、暗渠の傍を走る溝鼠のような色だった。

 スーツ姿の≪灰町はいまち 紬太郎ちゅうたろう≫は木曜日の仕事帰り、天神の通りに並ぶスタアバックスの前を通り過ぎて、自身の視界に起きている違和感をそんな風に例えた。(したた)かに狂気を孕んだ街は、臭いも、色も、外観も、質感も、味気の無い素鼠色(すねずみいろ)を、様々な色感の上から、まるでフィルタリングしたように見えた。街も人もその全てが色彩を失った視界は、まるで灰が舞っているように、街灯の周りで羽音を立てる夜光虫を映す。前から後ろからと、人が横切り、追い抜いて行く。都心の人混みの中で、項垂れる。よくよく見れば、それは紬太郎だけではなく、その他の人間も例外ではない。宛らその光景は、世間の嘆きを如実に表現しているように思えた。きっと疲れているのだろう。喫煙所を見つけた紬太郎は背広の胸ポケットからライターとゴールデンバットを取り出すと、たて続けにふかしつつ、気持ちを落ち着かせた。煙は揺蕩(たゆた)い、脳細胞を心地よく溶かしていく。いつから自分の視界がこうなってしまったのか。紬太郎は一日を振り返り、真白い煙を吐いた。

 ……今日も会社では上司に小言を言われた。『話、ちゃんと聞いてる?』『なんで報告しないの?』『そんな事くらい、自分で考えろ』どれも紬太郎からしてみれば理不尽な事ばかりだった。本人としてはやっていると思っていた事なのに、周りからは思われていなかったらしい。とはいえ、理不尽な叱責に黙って耐えられる程人間は出来ていない。紬太郎は紬太郎なりの言い分はあった。けれど、上司は感情に任せて物を言う人間である。一度興が乗り出すと、一、二時間は止まらない。人の話も聞いていれば、確認もちゃんと取り、可能な限り自分で判断した上で仕事をしていると言うのに。そんな事を言おう物なら、即座に言い訳だと見做される。結局、他人からそう見られたということは、自分が知らない内にそんな態度を取っていた、と歯を食い縛って納得するしかない。だが、頭では解っていてもやはり本心では納得出来てはいなかった。反抗心で煮えたぎった頭のまま仕事をこなした紬太郎は、終業時間を過ぎても、タイムカードを押して当たり前のように仕事をこなし、先に帰り支度を終えた上司の背中を見送るとようやく会社を後にした。エレベーターに乗っている最中、不意に目に違和感を覚え、擦って目を開くと、次の瞬間にはもう世界は色を失っていた。紬太郎は、戸惑いながら辺りを見渡し、もう一度目を擦ってみたが、景色はそのままだった。その行動の中に何かあっただろうか? 考える。街の片隅に設置された喫煙所を出て、再び雑踏の中へと戻った。思い返せば、目に違和感があったのは今朝からだ。

 初夏の賑わいを見せる歓楽街は、紬太郎の憂鬱を増徴させるように人で溢れかえっていた。茹だるような熱気に包まれ、その街の熱に溶け込んでいく。今を楽しむ事しか考えていない若者。制服のまま街を歩く学生。飲み屋帰りなのか、陽気な情緒テンションで往来を闊歩する中年サラリーマン。同じくスーツ姿で一人肩を落とす青年。手を繋いでホテル街の方面へ歩くカップル。その背中に、いらぬ想像を働かせた。他人が居れば、退屈は紛らわせる事が出来る。時間はいつでも、満ち溢れた日時計から滑り落ちてゆくように過ぎていくから、一人ぼっちは怖くないんだろう、きっと。愛される事より、ずっと。

 街に蔓延る人々は紬太郎の心を汚すように通り過ぎる。色を失った月を見上げたとき、手の甲で両目を擦った。もしかしたら、この目に色が戻ることは無いのかと思うと、途端に胸を締め付けられる気持ちになった。やはり疲れている。悪い病気なのかもしれない。そう思った紬太郎は、目を休ませようと思い、土瀝青(アスファルト)を見た。灰の色をした地面には染みがいくつか落ちていた。その一つ一つに歴史が存在する。それを生気を失った目で見つめる。汀のように続く土瀝青は今宵も人の足で波打つように揺れる。人工的な蜃気楼は音になり、不協和音を立てる。速い足音と遅い足音。まるで不文律のようだ。休ませようと思ったのに、懊悩は更に深まった。

 バス停の前を通り過ぎた時、バスから人が雪崩れのように降りてきた。その所為で大画面前は更に賑わいを見せる。いつもは仕事の寂しい帰り道を優しく癒してくれる空の星達は、その黄金の輝きを見せてはくれず、今日に限っては形を潜めるように色褪せて映っていた。その僅かな輝きに裏切られたような気分に陥り、一つ溜息をつく。初任給で買った腕時計を覗く。短針は、既に二十三時を回ろうとしていた。ソラリアの中へと足を踏み入れる。施設内は大きな口を開けて、獲物を次々と飲み込んでいく鯨のようだった。その中に紛れて、紬太郎は足早に中を通り過ぎる。建物の中は昼夜遜色なく明かりが灯っている。塾帰りの女子高生も髪を染めて(たむろ)する少年達もアクセサリィを体中に装飾している娼婦のような格好をした女性も皆、長い夜に身を捧げる。

 無意識に背広の胸ポケットに手を伸ばすが、街頭は禁煙であったことを思い出して、巻紙を咥えた所で思いとどまった。その煙草を再び仕舞い込む。人と人との間を縫うように歩いた。しかし、視界が不明瞭なせいか、いつもはそんなヘマをしない紬太郎でも何度か人にぶつかり、都度謝る羽目になった。長い空洞を抜けて広場へ排出される。紬太郎は、空を見上げた。病院は空いていない。家にも今日はまだ帰りたくない。でも、特に目的はない。これから、何処へ向かおうか。

 糅てて加えて半刻はんときほど遡る、夜二十二時頃。別の部署の上司から帰り際、呑みの誘いを受けたが断ってしまった。理由として、外せない予定があると言ったが、そんな物は無い。彼が断った理由は単純に、自分の時間を失うのが苦痛だ、ということだ。

 半年前、前職にあたる営業の会社を退職した。子ども向けの遊具や絵本を児童福祉施設に売り歩く仕事だが、その会社に就職したのも、始めは素朴な自身の夢を叶える為だった。

 幼少の頃より、紬太郎は絵本や遊具に囲まれて育った。と言っても、その殆どは本人の意思ではなく、絵本や遊具を知的教材として過大評価している母親に拠るところが大きい。だが、紬太郎自身も決して絵本が嫌いだったわけではなく、寧ろ、母親から絵本を読んでもらう夜の時間が楽しみで仕方なかった。幼少期に自分を楽しませてくれた絵本に携わる仕事をしたい。その思いは公立の高校に入学した頃より膨れ上がり、高校卒業と同時に、地元の小さな営業の会社に就職した。そこでは人手が足りず多忙であったが、自分の夢を叶えた事による欣びはあった。元々子どもが好きだった事も相成り、それなりに順調に仕事をこなしていた。けれど、その職について五年目の冬。ふと生活に厭気を覚える。高い金で子どもの笑顔を買っている。その実感は、徐々に膨れ上がり、我慢の出来なくなった紬太郎は年の瀬に退社することを決意した。当然、いきなり辞めることを社長に伝えると、慌てた様子だったが、それを振り切り、半ば強引に退職した。円満退社とはならなかったが、その時は妙にすっきりとした気分だった。

 我侭な事だとは思いながらも、紬太郎は、営業会社が自分の本当にやりたかったことなのか、甚だ疑問に感じていた。夢は、所詮夢だ。見てしまったら、さめるものだ。三ヵ月程の充電期間を貰った後、今度はIT関連の小さな会社に再就職をした。それが現在紬太郎の働いている会社だった。畑の違う職種に少し胸を躍らせながら就いた紬太郎も、初めのうちは楽しんでいた。上司に言われたことも只管素直に頷いていた。呑みに誘われれば、朝になるまで付き合い、その足で仕事に行くことも珍しくなかった。

 それから一ヶ月勤めての事。紬太郎は会社に損害を出した。損害といっても、小さな程度だったが、話を聞いていれば避けられる筈だった。避けられなかったのは、紬太郎の不手際だ。そしてそれは、上司の機嫌を損なうには十分だった。何事も、無理やり叩けばホコリは出る物で、日を追う毎に、上司の口調は厳しくなっていった。気づけば日に何度も罵倒を受ける事も珍しくなかった。また、そうした扱いの中、気の合っていた先輩や同僚には、避けられるようになった。自分に飛び火が来ないようにするのは、至極当然の事だ。それはもはや悪循環となって、日に日に紬太郎の心に苦艱を吹きかけていった。無論、そんな時は誰かに愚痴を零せばいいだけの事であり、大抵の人間ならば、友達を頼りに愚痴を零して娯楽に身を投じ、ストレスを解消するものだろうが、人に頼るという事はつまり他人に弱みを見せる事と同義であり、その行いに嫌悪感を抱いていた紬太郎には、せいぜい心中で厭み辛みを毒づく事しか出来なかった。それがただの檮昧だと解っていながらも、そうする事しかできない自分が嫌になった。前の職場に戻る事も考えたが、自身の安い矜持に依ってそんな事も出来ず、早計過ぎた決断の結果残ったモノは、今や後悔のみとなった。

 退勤のタイムカードを押している時、同僚達は今日の予定を聞き合っていた。各々予定があるのだろう。そんな連中を尻目に仕事を熟して、何とか今日の勤めを終わらせた紬太郎は職場を後にする。そして、外に出て異変に気づいた。外が、景色が味気のない素鼠色になっていることに。浮き彫り画のように動く人物達。月から伸びる光をルミニズムのように映し、蒸し暑い風が、汗ばんだ身体を更に暖める。不安になった紬太郎はいつも乗る赤坂の地下鉄を通り過ぎ、現実から逃げるように天神へと赴き、現在に至る。途中、薬局で買った目薬を差してみたが、一向に回復はしない。ただ見辛いが、視力に問題が無いのは幸いだった。一晩寝たら治るだろう、と楽観視する。これは悪い癖だった。他人の事は勿論のこと、自分の事であっても、どうにも適当に扱う癖がある。口では大丈夫とは言うものの、その実、物事の本質は全く捕らえていない、或いは履き違えていることが多かった。子どものように理性の少ない紬太郎は、やはり今の仕事には向いていないと思う。

 暗い路地を歩く。地べたに座ったストリートミュージシャンは、愛しい恋人のようにギターを抱き締めて、歌声を披露していた。機嫌が良ければ、そこに拍手の一つでも送って、チップを放りたい所だが、生憎今はそこまで機嫌も良くない。視界も一向に治る傾向を見せず、さて、もう帰って寝ようと考えていた時、ポケットに入れていたスマートフォンが振動する。紬太郎は誰からの発信かを確かめるべく、ポケットからスマートフォンを取り出した。ディスプレイには人物像の上に≪波戸はと みさき≫と表示されている。通話の方向に指をスライドさせて、受信すると『あっ』と向こうで声が聞こえた。その声に話しかける。発信者は『お疲れさま』と2つ、3つ挨拶を交わして、この後の予定を尋ねてくる。それに「何もないよ」と答えると『今から博多駅に来て』と一方的に告げられた。相槌を打った紬太郎は、相手の通話が切れたのを確認して端末をポケットに収める。蒸し暑さにネクタイを少し緩めて、上のボタンを一つ外した。若干の面倒さを内心に秘めつつ、歩き出す。待ち合わせの場所までは、少し遠い。いつもならば西鉄バスに乗って向かうのだが、今日は散歩ついでに歩いていくことにした。ついでに、彼女と話す事でこの視界不良の改善案とストレスの解消法も拝聴できることを期待して。暗い路地を抜けた紬太郎は、ビッグカメラの横を通り、中洲方面への道程を乗り切るため、小型の音楽プレイヤーから伸びるイヤフォンを両耳に装着し、茹だるような人の海へもう一度飛び込んでいった。


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