桜の木の下には、
BL要素があるので、耐性のない方はご遠慮ください。あと、暗いです。
ぼくには恋人がいる。いつも不愛想で、冷たくて、優しさなんて微塵も見せてくれないような女の子だ。
そんな紹介をすると、たいてい「温和な君には似合わない」とか「別れた方がいい」とか批判ばかり言われてしまう。「もっと優しくて素敵な女の子がいるから紹介するよ」なんて言われたこともある。彼女がいる男に女性を紹介するなんておかしいと思うが、とりあえずぼくはそんな批判を受けてもニコニコと笑って受け流すことにしていた。なぜならば、ぼくは彼女と別れる気が毛頭ないからである。
なぜ別れないのか。その質問には、付き合っているからとしか答えられない。なぜ付き合っているか。その質問には、別れていないからとしか答えられない。
こんな答えばかりしていると、みんな呆れて質問しなくなるのだ。だからぼくはそれらの言葉に、同じ答え、同じ反応しかしない。
掃除のあとのざわざわした教室の入口では、たくさんの人が出入りしている。どの人もだいたい友人に会うことが目的である。ある人は部活の友人を迎えに、またある人は帰ってしまう友人と話すために。もちろんぼくにも無関係な話ではない。
「おーい、掃除終わったかー?」
友人の大きな声が聞こえてきて、ぼくは教室の入口に向かった。入口傍でぼくに手を振っている、いかにも運動部で活発そうな男子は、隣のクラスの加木屋だ。彼は、ぼくの友人が数年前に失踪した時、大して仲良くもなかったぼくのために善意を尽くしてくれた。それ以降、一緒に遊んだり、果ては同じ高校を受験して現在に至る。いまだに仲良くしてもらっている。
「相変わらずバカでかい声だな」
「癖なんだよ、おまえの名前呼ばなくなっただけ良いと思え!」
「それは本当に嬉しいけどね……」
開き直る加木屋に、ぼくは苦笑を返す。中学時代の彼は何かあると大声でぼくの名前を呼んでいたので、物静かで知名度は群をぬけて低かったぼくは、名前だけ校内に知れ渡ってしまっていた。高校ではそれを避けるべく、入学前から「校内でぼくの名前は呼ばないこと」を決めていたのである。それを律儀に守ってくれているあたりも含めて、彼は本当に良い人だ。
そんな良い人だからこそ、彼は何度も同じことを口にする。
『おまえ、まだ別れてないのか?』
聞きあきた言葉でも、彼の口から出てくるものは本当の心配から生まれているものだと分かるのは、彼の人間性のおかげなのだろう。その思いを理解しているからこそ、ぼくは彼に言われるとうまく笑えなくなってしまうのだ。
今日はまだ聞いていないその言葉を思い出しながら、ぼくは彼の手元に目をやった。そこには大きな鞄がある。
「今から野球部? 加木屋も大変だな。たまには休んで遊びにでも行こう」
「ばっか、なにいってんだよ! エースのおれが部活さぼるとでも思ったか?」
「いや、全然」
「誘っといてなんだそれ」
加木屋はけらけらと笑う。つられてぼくも笑った。「エースのおれがさぼるわけない」という意思表示に、加木屋らしさを感じる。もしぼくがそういう立場だったら「エースだからさぼれない」と言うだろう。
彼の前向き思考に何度助けられ、あこがれたかわからない。もしも彼のような人間だったら、ぼくは。浮かんでは消えていく想像に、ぼくは何度も心を奪われた。
だからこそ、ぼくは彼に手を伸ばしたかった。その手を、握りたかった。
そっと手を持ち上げ、加木屋に近づけていく。教室の喧騒も、彼の声さえも、ぼくから遠ざかっていく。
やっと、彼に触れられる。
そう思った瞬間、視界の隅に無表情な少女の顔が見えた。加木屋の体の直前まで来ていた手をすぐさま下げる。周囲の世界が一気に押し寄せてきた。心臓が口から飛び出るほどに脈打っている。震えが止まらない手は、加木屋から見られないように背中の後ろに持ってきた。
彼女が来た。
ぼくが息を飲んだのをみて気づいたらしく、加木屋は自身の横を見て「あ……」と滅多に出さない小さな声をあげた。
「三好さん……来てたんだ」
「ええ」
加木屋の言葉に軽く返事をすると、彼女は黙ってぼくをみつめた。もう行かなければならない時間だ。
ぼくは「じゃあ、帰る準備するから。またな、加木屋」と加木屋に手を振ると自分の机に向かって歩き出した。さっきまでの幸せな気分はどこへやら、ぼくの心は恐怖に支配されていた。
「おい! 待てって!」
机についたころ、すぐ後ろから加木屋の声がした。さっきより近いその声に驚いて振り返ると、加木屋が教室まで入ってきてぼくの手を掴んだ。思わず身構えると、彼は極力小さな声で、ぼくに、いつもの言葉をかけた。
「おまえ、まだ別れてないのか?」
胸に刺さる言葉。彼から言われるからこそ堪える言葉。ぼくは不器用な笑顔で「あたりまえだろ? そんなにプレイボーイに見えてた?」なんて軽口をたたいてみる。
出会って仲良くなって、ずいぶんと一緒の時間を過ごしたからだろう、彼にはぼくのウソがすぐに見破れたようだ。彼は「なに馬鹿なこと言ってんだ」と少し怖い顔でぼくを見た。
「おまえら、どうやったって付き合ってるように見えないだろ。なんで好きでもないやつと付き合ってんだ」
「彼女のこと馬鹿にしたら怖いよ?」
「彼女じゃない、おまえのことだ」
本当のことを言え。柄にもなく真剣な表情をする彼をぼくはしばらく見つめることしかできなかった。その瞳にはぼくしか映っていない。彼の雰囲気とは対称的に、ぼくは至極穏やかな気分でただ彼を見ていた。それを硬い意思の表れと勘違いした彼は、耐えかねたかのようにため息をついてぼくから離れた。力強く握っていた手も離れていく。
「そんなに言いたくないならいいけどさ、耐えられなくなったらちゃんと言えよ?」
「うん、ありがとう、加木屋」
「……じゃあな」
加木屋は悲しそうな表情を見せた。しかしすぐにぼくに背を向けてしまったので、そのあとどんな顔をしていたかわからない。ぼくは握られていた箇所を自分の手で握りしめてから、荷物をまとめて彼女のいる入口へと向かった。
彼女が口を開いたのは、学校からしばらく歩いたところにある森の前だった。手入れもされていないその森は、不気味で何が出るかわからないからと誰も近づかない。肝試しなんかでぼくらが小学生くらいのころは使われたけれど、いまではそんなことすると怒られるからとしなくなったらしい。
「ちょっと、花見でもしましょう」
その言葉に対する拒否権をぼくは持ち合わせていない。持っていたとしてもこの誘いは断らなかっただろう。それは彼女が珍しく寄り道を誘ってきたから、ではない。彼女がどうしてここで「花見」を提案したかが分かっていたからだ。
ぼくは黙って彼女のあとをついていく。彼女は、乱雑に生えた草木には目もくれず、初めて来たら迷子になってしまいそうな森の中を歩いて行く。靴下とスカートの間にある肌に、細く赤い線が刻まれていく。ぼくの制服にも、汚れがはっきりと見え始めた。
そろそろぼくの息も乱れ始めるころ、ようやく目的地に到着した。目印にできるものといえば、この時期だったらこの美しい桜くらいしかない。それほど何もない場所。だが、ぼくと彼女からすれば大きな意味のある場所だった。
満開の桜を見上げて、彼女は言う。
「今年もこの桜は、『彼』の栄養を使って美しく咲き誇っているのかしらね」
ぼくも彼女に倣って桜を見上げる。その美しさはたしかに子どものころに見たものよりも断然美しく見えた。
「ああ、きっとそうだろうな」
そっと視線を落としてくれば、その木の根元に『彼』がしゃがみこんでいそうだった。童顔で、華奢で、愛らしい笑顔をいつも浮かべていた『彼』。『彼』はぼくの初恋の人だ。人付き合いが苦手だったぼくのことを気にかけて、優しくしてくれた『彼』がぼくは好きで好きでたまらなかった。『彼』の瞳を、ぼくだけでいっぱいにしたかった。
目を閉じると、今でもあの日のことが思いだせる。「綺麗な桜を見せたいんだ」とこの森に『彼』を呼び出したぼくは、この木まで『彼』を案内した。いままで都会に住んでいた『彼』は森の中にひっそりと咲いている桜に感動して、地面に何かを書いた。何を書いているのか尋ねれば、「君が教えてくれた場所だって書いておくんだ」とぼくの名前が書かれた地面を見せてくれた。へらっと笑う彼が愛おしくて、ぼくだけのものにしたくて、ぼくは『彼』のことを抱きしめた。『彼』の心臓に刃をつきたてながら。
最期まで『彼』は美しかった。なんで、とぼくを見る瞳も、かすかに動く唇も、すべて。しかし『彼』は動かなくなった。温もりも無くなっていった。もう一度あの笑顔を見たくて名前を何度も呼んだけど反応はなかった。寂しさがどんどん強くなり、ぼくも死ぬしかないと思ったが、それは叶わなかった。三好がその場にやってきたせいで。
「加木屋くん……」
彼女はぼんやりと眺めていた桜からぼくに目を戻した。その目はいつもの無表情とは違って、ほんの少し、憐れみがちらついていた。
「あなたは彼もまた、手にかけるつもりなの?」
ぼくはしばらく何も答えなかった。今日の帰りに起きた衝動、あれは『彼』のときにも起きたものだった。だから、手にかける可能性は高いと言えるだろう。彼を我が物としたい、彼の最期をほかの誰にも見せたくない。この思いは、加木屋に好意を寄せるようになってから、日に日に強くなっている。
「そうだと言ったらどうする? また、『恋人だから』って埋めるのを手伝ってくれるの?」
彼女の強いまなざしに負けてどうにか出した言葉は、殺人予告になってしまった。これでは本音はばればれだ。そんな焦りをどうにか隠すべく、ぼくは笑顔を貼りつけた。彼女はあのとき、『彼』を埋めるのを手伝う代わりに自分と付き合うように言いだしたのだ。生きるのを手伝うからと。
『彼』が動かなくなって、寂しさに打ちひしがれていた当時のぼくはそれをやけになりながら承諾した。まさかその関係が未だに続いているとは、彼女の決意の強さを感じる。
静かな沈黙が流れた。彼女の髪が優しい風でふわりと揺れる。それに合わせるかのように桜の花びらが待っていく。
まるで絵画の一部のような彼女が小さなため息をついた。目に湛えていた憐れみは決意に変わっていた。
「何があろうと彼を殺させはしない。もし殺したとしても、あなたを警察に渡しはしない。……あなたが好きだから」
彼女はそう言ってぼくに背を向けた。歩いて行く背中はぴんとしていて、迷いなどなにもないかのようだった。
ぼくは彼女が去った桜を見上げた。美しさを放ち始めたのは『彼』がそれを生み出しているからなのか、それとも彼女が舞台役者として登場したからなのか。ぼくは小さく首を振った。
「どちらでも構わないけど、そろそろまたぼくの好きな人を連れてくるから、待ってて」
穏やかな気分のままぼくは、ぼくを一途に思っているだけなのに周囲に敵視されているぼくの『彼女』の背中を追った。
おわり。
読了ありがとうございました。