カニュ
クロエの住むヴォラスの中庭は、19世紀シルクの職人たちの組合のようなものがあったと言われている。シルクの職人はカニュと呼ばれた。決して労働条件が良いわけではなく、シルクがリヨンにもたらした繁栄を完全に享受していたわけではなかった。
継続的に低下する給与の維持を求め、1831年、34年、そして48年に立て続けにシルクの職人が反乱を起こすのだが、その中心的な役割を果たしたのがこのヴォラスの中庭であったとも言われている。
現在クロワルッスは、リヨンでも山の手にある少しハイソな雰囲気をもつ地区となっているが、わずか百年ほど前は荒くれ者の職人たちの牙城だった。
そもそも、シルクの職人たちが住み着いたクロワルッスという界隈は、当時リヨンではなかった。リヨンの町を守るためにクロワルッスに城壁が張り巡らされたのは、これらシルクの職人たちを牽制する意味もあった。実際、ナポレオン三世はクロワルッスがリヨンに編入され、クロワルッス大通りを開通するにあたり、
もはや要塞は必要ない。反乱を恐れ、強固な防御を備える理由がなくなった。相互の信頼関係とリヨン市民の愛国の象徴としてブルヴァール(大通り)がそれにとって代わるのだ。
と述べたと言われる。
幅36メートル、全長1.6キロの大通りには、リヨンでも数少ない毎日市が立ち、生活の大動脈となっている。