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「……空にはまあるいお月様、か」
晶はふと足を止めて見上げた満月をしばらく眺めた後に、小さく呟く。
直後、自身が呟いた実に安直で捻りも何もない恥ずかしいセリフを聞いた者がいなかったかと慌てて周囲を見回し、周囲に全く人影がないことを確認して小さく安堵の溜息をついた。
「……今日は早く寝た方がいいかもしれないなー」
晶は、しかしやはりどこかふわふわとした口調でそう呟くと軽く頭を振る。
さっきのような恥ずかしいセリフを思わず零してしまったのは、ここ暫くの間卒業論文の作成とそれにまつわる諸々の雑事をこなしていたせいなのだろう。
何しろ記憶があるだけでもこの一週間、合間合間に仮眠をとった覚えはあるが、自室の布団で熟睡をしたという記憶がない。
それに加えて連日の食事は多少の変化があるとはいえ、基本的には代り映えのしないコンビニ弁当三昧。
さすがに色々とまずいと思ったので、一日おきにファミレスのランチタイム提供格安サラダバーをローテーションの中に加えることにはしたが、それでもやはり色々とよろしくないことには変わりはない。
気分的なものもそうだし健康的にもそうだが……特によろしくなかったのは財布の中身だった。
別に苦学生というわけでもないが、さりとて余裕を持った仕送りをされているわけでもない。
金銭に対しては若干几帳面なところがある晶はネットで拾ったフリーの家計簿ソフトを使って管理しているのだが、その食費の項目がすでに前月比で180%を超えてきているのだ。
実に由々しき事態であると、そう言っていい。
が、それももう暫く……明日か、遅くとも明々後日あたりで終りになる。
おおよそ概略は当初の予定通り出来上がっているし、総論の体裁も整えた。
あとは各論拠の枝葉の体裁を総論に合わせて整えれば終了である。その後はまあ同じゼミの連中と読み合わせもした方がいいかもしれないが。書き上げた文章と言うものには常に誤字脱字や適切さを欠いた表現などが一定量含まれており……厄介なことにその文章を書き上げた本人にはなかなか気づかれにくいという特徴がある。
別に研究職に就くつもりなどないお気楽文系学生の晶にとって、卒業論文は何らかのマイルストーンではない。頭を悩ませ懐が寂しくなる問題ではあるが、大学生生活における一つのイベントに過ぎないのだ。
やや小さくはあるが、それなりに地場産業に貢献している地元企業への就職が内定していることもそんな気楽さに後押しをしている。
「ま、あともうひと踏ん張りということで」
晶はそう呟くと、夕食と夜食の入ったコンビニの袋を右手に握ったまま、なんとなく思いきり背筋を伸ばし背伸びをする。
――その瞬間……何かがずれた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
指先に引っかかっていたビニール袋。
それが軽い音を立てて地面に落ちたことで晶は自分が――どれくらいの時間かはわからないが、呆然としていたことにようやく気が付いた。
目の前に広がっているのは、見慣れたはずの自宅周辺の風景ではなかった。
コンビニのある国道から一本入ったところにある住宅街であるが、道を照らす街灯の類も不足していない。
そこにあったのは鬱蒼とした木々の連なりであり、鼻を刺激するのは濃密な樹木と土の香りであり、時折吹く風が木々の梢を揺らす音。
端的に言うならば、東西南北もわからない深い森の中。
が、彼が三年半ほど住んでいる賃貸アパートの周辺には記憶をたどってもこんな濃密な森林などなかったはずであるし、そもそも普通に道路を歩いていただけでこんな場所に普段着のまま迷い込むわけがない。
そこまで考えてからようやく慌てて晶は周囲に視線を走らせ、背後を振り返るもそこに自身が見慣れたはずの光景は欠片もなく、広がるのは似たように折り重なる木々の連なりばかり。
――……って、なんでこんなに明るい?
晶は、周囲の光景を目で見て認識できているそのこと自体に遅まきながら驚愕の表情を浮かべた。
自分はほんのついさっきまで間違いなく
何よりもおかしいのは時間だった。
晶は確かに先ほどまで、夜の住宅街を歩いていたはずだ。何しろ月を見上げながら自身でも赤面するようなセリフを呟いていたのだから間違いない。
だというのに、何故周囲はこんなにも明るいのか。
百歩譲ってここが森の中であるとしてもだ。月明りしかない森の中がこんなにも明るいはずがない。
深い森特有の薄暗さは感じる。頭上に視線を送れば幾重にも折り重なった枝葉がさらにその上に存在する光源からの光を遮っているのもわかる。時折偶然できた隙間を貫いてちらちらと光の筋が
しかしもし今が夜だったならば、それを確認することもままならないのではないか?
小学生のころ、級友と共に夜釣りに行ったことがあった。
無論保護者同伴のものであったが、それでも随分と楽しかったのを晶は覚えている。それと同時に、月明り以外の高原がない夜の暗さも
最終的に警察まで動員された捜索が行われる大騒ぎになり、両親と担任教師から大目玉を食らい、その後半年間小遣いカットを言い渡された実に何とも言えない経験であったが、
明らかに普通ではない異常な事態である。そしてそれは周辺の環境だけではなく晶自身の身体にももたらされていた。
「……、……!?」
声が出なかった。
呆然として、だからこそ何事かを呟こうとして無意識に唇を動かした晶は、己の身体に起きている異変の一つにようやく気が付いた。
――声が……出ない!?
思わずその両手で喉を押さえ、それから今度はゆっくりととりあえず50音を唱えてみようとやや腹に力を入れてから口を開く。
しかしやはり喉から声が出ることはなかった。
僅かばかりに出てくるのは、声帯を震わせることのできなかった肺からの呼気が起こすささやかな風の音だけであり、何らかの意味を成す言葉も何の意味も持たない単なる叫びもついに形を成すことはなくそして……晶は己の身体に起こった異変が声だけでないことにようやく気が付いた。
――おれの手じゃ……ない?
最初に気が付いた箇所は声を出そうとし続け、思わず咳込んでしまい、涙を目元に浮かべつつ口元を押さえることになった自らの両手だった。
まるで丈のあっていないぶかぶかのダウンジャケットからちょこんと飛び出している色白で、華奢で、可愛らしい指先。
確かに最近はあまり体を動かしていない。
高校まで続けていた剣道は、大学進学を機に余暇の一部を埋める趣味の一つに落ち着いている。
インターハイに出場できるほどの戦績は残せなかったが、それなりに熱心に続けていたそれは大学生になったことを機に上達することを目的とするものから、主にストレス発散と体力の維持のためのものに変わっており、近場に合った剣道道場にも週二回程度にしか通っていない。
しかしいくら高校時代よりも明らかに熱心ではないとはいえ、この手、この指先は断じて竹刀を握る成人男性の指先ではない。
呆然としていた時間は、この森の中にいると気が付いた時よりも長かったのか短かったのか。
慌ててジャケットを脱いだ拍子に自分の頬をなでたのは、長く伸びた髪の毛だった。
本格的に慌ただしくなったのはこの一カ月とはいえ、その前からもなんやかんやと忙しかった。それ故しばらく床屋に行ってはいなかったせいで、最近少し長く伸ばしすぎたかななどとは思っていたが……腰まで届くほど長かったわけなどなく。
その自らの身体の異変に慄きながらも晶は半ば機械的に自分の身体を目で追い、小さくなった掌で触れながら確認していく。
明らかにだぶだぶになっているシャツとその上に着込んでいたスウェット。ゴムのおかげで腰の部分でかろうじて引っかかっているだけの同じくスウェットパンツ。締め付けが緩くなったせいで足首までずり落ちている靴下と明らかにサイズの合っていない靴。そして……
股間を押さえる掌には、あるべきはずのものの感触がない。
――女の……身体だって?
一周してようやく落ち着いたのか、あまりの事態に精神が摩耗したのか、晶は平板な調子で呟く。もっともそれが言葉になることはなかったわけであるが。
ガサリ
背後から何者かが下生えを踏みしめる音が響いたのは、その時だった。