九
振り替え休日の月曜日、先輩は約束の場所に来なかった。
電話にも出なかった。
まさか、自分から提案しておきながら忘れたのだろうか。そんな馬鹿げたことも、相手が先輩では大いにありえることだった。
結局、俺は約束の場所で一日待ち続けることになった。
自分に対して、いつからこんなに律儀になったんだと呆れてしまう。次に会った時、先輩には少しの文句くらいは我慢してもらおうと思った。
休日が明けて火曜日。
俺はいつものように先輩がやってくるのを待った。
登校中――、
始業時間前――、
休み時間――。
先輩は来なかった。
俺はここにきて、さすがにおかしいと感じ始めた。先輩と出会って一週間。先輩は頻繁に俺の下へやってきては、無茶なことをお願いしてきた。それが休みを挟んだ途端にぷつりと途切れるというのは、いささか変だ。
もしかすると、今までとは比べものにならないくらいの無茶を考えついたのかもしれない。
そう考えたとき、俺の足は先輩のクラスに向いていた。
廊下から教室を覗く。
先輩の姿は無かった。鞄も置いていない。
もう帰ってしまったのだろうか。
そうするとますます怪しく思えてきた。
そして気づけば、先輩の住むマンションの前まで来ていた。
とても明日までなんて待っていられない。
階段で二階まで上り、一番奥の部屋の呼び鈴を押す。
急な訪問に先輩は驚くだろうか。しかし、それは電話にも出ない先輩が悪いのだ。こっちは休日を一日無駄にしてしまったのだから、それくらいの仕返しはさせてもらおう。
そんなことを考えている内に、しばしの時間が経った。
反応が無い。
「まだ帰っていないのか?」
念のためもう一度呼び鈴を鳴らして待つ。やはり反応が無い。
どうやら留守のようだった。
「先輩め、どこで道草を食っているんだ」
このままここで待つべきか、それとも晴れない心を我慢して帰るべきか悩んでいると、扉が開いた。
ただし、隣の部屋の扉だ。
髪を大雑把に後ろで結んだ、初老と中年の間くらいの女性が顔を出す。女性は俺を指さすと、涸れ気味の声で訊いてきた。
「あんた、お隣さんに用?」
「ええ、まあ」
「そ。でも、何回ピンポン鳴らしても意味ないよ」
「え?」
「そこ、もう誰もいないから」
「いないって……」
「誰も住んじゃいないんだよ」
女性が何を言っているのかわからなかった。
俺も阿呆じゃないから、言葉の意味は理解できる。
誰も住んじゃいない。
つまりは、この部屋は既に空き家になっていると。そういうことだ。
どういうことだ?
ここは先輩の家。
俺が道を間違えるわけもない。
部屋番号だって合っている。
しかし部屋番号を確認するために、呼び鈴の上に向けた俺の目は、別の物も同時に映していた。
表札。
以前訪れた際は確かに先輩の苗字が書かれていたのに、今は空白。
ここには誰もいない。
なら、先輩はどこにいる。
「いないってどうして! どこに行ったんですか!?」
俺は女性に詰め寄っていた。
「ちょっと、大きな声出さないでよ」
「あっ、す、すみません……」
落ち着かなければ。
一歩下がり、改めて訊き直す。
「ここにはいないっていうのは、どういうことなんですか?」
女性はばつが悪そうに下へ横へと目を泳がせた後、ぽつりとこぼした。
「死んだよ」
息が止まった。
頭の中が真っ白に染められる。
「本当、嫌な話だわ。旦那さんは自殺するし、天才少女なんて呼ばれてた娘さんは急に馬鹿になるし、辛いのはわかるけど、自殺なんてねえ……。こっちだって子供がいるから簡単には引っ越せないっていうのに」
自殺、だって?
そんな、それじゃあ、
「……先輩、は?」
「先輩って、ああ、あんた娘さんの後輩なのね。娘さんなら生きてるわよ」
強張っていた肩から力が抜けた。反動で全身が重い。
「親戚に引き取られたみたい」
「あの、親戚ってどこの人ですか?」
「さあね、そこまでは知らないわ」
「そう、ですか……」
女性に礼を言ってマンションを後にする。
何故?
どうして?
いつ?
どこに?
それに、女性が言っていた天才少女ってなんのことだ?
次々と疑問が疑問を塗りつぶしていく。一つとして答えは出ない。全てを答えられるのは先輩だけで、その先輩がいなくなってしまったのだから。
俺は携帯電話を出して、発信履歴の一番上にある先輩の番号を選ぶ。
『おかけになった――』
何度も試した結果と変わらず、すぐに不通の音声案内に切り替わる。
「なんで電話にも出ないんだよ」
電柱に寄りかかり、額に握った拳を当てる。
考えても考えても、わからない。
こんなのはどの本にも書かれていないし、当然、授業で習うこともない。
「ああ、そうだ」
授業という単語で思い至る。
教師ならば、俺の疑問の全てとまではいかずとも、先輩の居場所くらいは知っているはずだ。
俺は夕暮れの中、学校へと駆け戻った。
「悪いけど、とにかく教えられない決まりなんだ」
先輩の担任教師は困り顔で言った。
先輩がどこにいるのか、先輩に何があったのか、先輩はどうしているのか。全部に対する答えだった。
「今のご時世、生徒の個人情報保護にはすごく厳しくてね。そういうのを教えちゃうと、僕の首が飛びかねないからさ」
「どうにか、なりませんか?」
「こればっかりは、どうにも、ね」
「……そうですか」
無駄足だった。
担任教師は先輩の居場所を知っているようだが、教えてもらえないのであれば、どうであれ無意味だ。
俺がうなだれていると、担任教師は「でも」と切り出した。
「これだけなら、教えても平気かな」
「なんですか!?」
「彼女はもう、この学校には来ないよ。転校手続きも済んでる」
「転、校……」
どうして先輩はそんな大事なこと、話してくれなかったんだ。
「あ……」
逆に、俺はどうして話してもらえると思ったんだ?
先輩にとって俺は、話すに値しない程度の人間だっただけなんじゃないか。
俺と先輩が過ごしたのは、たった一週間ほどのこと。
考えてみれば、俺と先輩の関係はそんなに親しいものではなかった。
先輩と後輩。
利用する者と利用される者。
それだけでしかなかったのだ。
家に帰ってくるなりベッドへ寝そべり、それきり何もする気が起きなかった。
どうして?
なんで?
幼い子供みたく、頭の中はそればっかりだった。
胸が痛む。
手で押さえても、この痛みはまるで和らがない。
もっと、ずっと体の奥にあるところが痛むのだ。
こんな痛み、俺は知らない。
鳩尾に肘打ちを食らった時よりも、四メートルの高さから落ちた時よりも、今の方が堪らなく苦しい。
先輩がいなくなったと知ってから痛み出したのだから、この責任は先輩に取ってもらわなければ。
どうやって?
先輩はもう、いないのに。