八
「さあ永野龍太郎君、我々の力を見せる時がきたよ」
「ほとんど俺の力じゃないですか」
選手受付を済ませ、本部テント脇で出番を待つ。
すっかりとまではいかないが、先輩はいつもの調子を取り戻していた。
「むしろ先輩は足を引っ張らないように頑張ってください。そうすれば一位を取るのなんて簡単なことですから」
「む」
先輩が拗ねたように口を尖らせる。
「言うじゃ」
「言うじゃないか永野!」
男の声が先輩の言葉を遮ぎる。俺は相手の顔を見ることなく思った。
ああ、面倒くさいことになる。
「なんですか、原先生」
シャツの裾ををズボンに入れた原がこっちへ近づいてくる。
「一位を取るのは簡単、か。確かにお前は運動神経抜群の天才で、この競技のド本命だ。そこで提案が」
「お断りし」
「俺と勝負しろ」
原が言い切る前に断ろうとすると、原はさらに俺が言い切る前に提案を口にした。
「お前を何度勧誘してきたと思ってる。こういうときにお前が、話も聞かずに断ろうとするのは想定済みだ」
得意げに胸を張る原。
それによって俺がどれだけ迷惑するかは想定しないくせに。
「永野、お前が一位を取れなかったなら、その時は科学部へ入ってもらおう」
「勝手に話を進めないでください」
「はっはっは、それは面白い。受けて立とうじゃないか」
「なっ……!」
今度は先輩が話に割り込んでくる。それも面白い方へと進もうとする、先輩の悪い癖を伴って。
「先輩!?」
「永野龍太郎君、君は負けない。なら、勝負を受けたって構わないだろう」
「だからといって、俺の意見も聞かずに決めないでください」
「私は君のパートナーだよ。一緒に競技に参加する者として、持ちかけられた勝負を受ける権利はあると思う」
「横暴だ!」
俺達のやり取りに原はにんまりと笑みを浮かべ、俺に指を突きつける。
「話は決まったみたいだな。ふはは、絶対にお前を科学部に入れてみせるからな!」
それから原は踵を返して去ろうとする。俺は原の肩を掴んで止めた。
「待ってください」
「な、なんだ? 話なら済んだろう」
振り向いた原の額には、まだ競技が始まってもいないのに汗が浮かんでいる。
「仕方ないから勝負は受けましょう」
「お前もやる気になったか。よしよし、これでもう言い逃れはできないからな。なにせ、お前自身の口で受けると言ったんだ。俺は負けんぞ。お前を科学部に入れるためなら、自らの限界だって超えてやる。天才のお前が相手でも」
「そうまくし立てたって、誤魔化されませんよ」
「ご、誤魔化すって、ななな何をだ……?」
「万が一にも俺が一位を取れなかったなら、その時は科学部へ入りましょう。それで、俺が一位を取れたら先生は何をしてくれるんですか?」
「うっ……!」
原の汗は額に留まらず、頬を伝わって顎先から落ちる。まさか、一方的に条件を付けて勝負ができると、本気で思っていたのか。
「そこに気付くとは、やはりお前は天才だな……」
言葉の意味とは逆に、馬鹿にされている気がする。
「とにかく、勝負をするなら公平にいきましょう。俺が勝ったときのメリットはなんですか?」
「そうだなあ……、科学部の部長就任なんてどうだ? いきなり部長だぞ」
「却下です」
「なら、科学部栄誉部員だ。後輩に永く語り継がれること間違いない」
「先生」
「く~~、わかったよ! お前が一位なら、もう無理に勧誘したりしない! どうだ!?」
「わかってるなら、最初からそう言ってください」
「くそぅっ!」
原は今度こそ歩み去る。肩を怒らせ、足を踏み鳴らしながら。俺はそれを最後まで見送らず、先輩に向き直った。
「成り行きですが、俺にも勝たなければならない理由ができました」
「君の事情はよくわからない。ただ、どうやら楽しくなりそうだね」
そう言って先輩は口の端を吊り上げた。
『来たぞ! 今年も! あの競技が! 美原高校体育祭といえばこれだ! 幾多の困難も、二人なら乗り越えられる。それが愛の力! 誰にも負けない愛を見せろ! 愛の障害物競走だーーっ!』
実行委員による力の籠もったアナウンスに続いて、生徒達の歓声が沸き起こる。午前は体育館や武道館にいた生徒達が、今はこの馬鹿げた競技を見るために集まっている。
「本当にこんな競技が伝統になっているんですね」
「まさか今の今まで私の話を信じていなかったのかい?」
「ええ」
「言い切ったね……」
がくりと肩を落とす先輩は放っておいて、俺は案内役に促されるままスタート地点に立った。
『愛の障害物競走、まずはコースの説明だ。障害物は全部で四つ。一つ目は“プロポーズ~給料三ヶ月分にも勝る想い~”だ!』
どうやら、各障害にまで阿呆な名前が付いているらしい。実行委員はよくもまあ恥ずかしげもなく口にできるものだと、感心してしまう。
『スタートした選手の先には白線が引かれている。男子はここで止まってくれ。そして女子はさらに三メートル先にある台の上へ。男子の足下にはフラフープが置いてある。それは婚約指輪だ。最大限の、いや、無限大の愛を込めて女子に向かって投げるんだ! 見事婚約指輪が女子の体を通ればプロポーズ成功。次の障害へ進めるぞ』
人間輪投げといったところか。
『二つ目の障害は“ご両親に挨拶~お義父さん、娘さんを僕にください~”だ。かわいいかわいい我が娘。お義父さんが一言わかったと済ませてくれるわけがない。誠意を見せるため、頭を下げ、地に膝を付け、長さ二十メートルの網をくぐり抜けてくれ』
「二十メートル!? 長すぎないかい?」
「まるで軍隊の訓練だ……」
『三つ目は“駆け落ち~誰も二人の愛は止められない~”。残念だがお義父さんは結婚を許してくれず、二人は駆け落ちをすることに決めた。もう頼れるものはない。どんな責任も、自分達で背負っていかなければならないのだ。例えそれが、重さ百キロの砂袋に姿を変えても!』
「だから軍隊の訓練かって……」
『そして最後の障害は“壁”! これこそまさに、最大の障害! 立ちはだかる壁を乗り越えてこそ、幸せを掴めるのだ。二人で協力して、三メートルの垂直にそそり立つ壁を乗り越えろ!』
もう、何も言うまい。
『全ての障害をクリアした二人の邪魔をするものはいない。晴れてゴールインだ! 幸せになりやがれちくしょうっ!』
アナウンスに続いて、あちこちから男子達の蛮声が轟いた。
馬鹿か。
『さあ、次にこの愛の試練を受ける選手達の紹介だ。まずは第一レーン、三年一組佐藤裕二と、同じく三年一組小野寺加奈恵のバカップルチーム!』
実行委員の紹介で、一番左端のペアが一歩前に出る。そして互いに微笑み合いながら、いわゆるカップル繋ぎをした手を高々と上げた。生徒達は甲高い声で囃し立てる。
『言わずとしれた校内一のバカップル。教室でイチャイチャ、廊下でラブラブ。ところ構わず愛を確かめ合う二人は、先生に怒られることもしばしば。今日は私達にどれほどのストレスを与えてくれるんだ!? 続いて第二レーン! 三年三組菅原一星と二年二組曽根翔の生徒会チーム!』
次の二人が前に出ると、女子から黄色い声が上がった。
『イケメン生徒会長とショタな副会長。もしかするととは噂になっていたが、これは本当にもしかするともしかするぞ! アッー! そして第三レーン、物理の原先生と三年二組田原かほりの科学部チーム!』
原と眉を八の字にした小柄な女子が前へ出る。
「ロリコン!」
「変態!」
「鬼畜教師!」
「うるさいぞお前ら!」
生徒達の罵声に、原が腕を振るう。それからその腕を俺に向かって伸ばし、人差し指で俺を指す。
「この勝負、絶対に勝ってお前を俺のものにしてやる!」
『おーっと! 原による謎の告白! これはいったいどういうことだ!?』
どよめきが広がる。
事態をさらに面倒くさくしてくれた原は、興奮し過ぎて、自分が何を言ったのかわかっていないのだろう。パートナーの女子の背中を叩いて気合いを入れている。
ああ、実に面倒くさいことになった。
最後に俺たちの名前が呼ばれる。前に倣って一歩前へ出ると、先輩は周囲に手を振った。
しかし――、
「ふざけんな!」
「失せろ!」
「空気読め!」
「負けろ」
「負けろ!」
「負けろ!!」
俺達に浴びせられたのは、先ほどの原とは比べ物にならないくらいの大ブーイングだった。
「やっぱりか……」
先輩は驚きに目を見開いて周囲を見回す。誰も彼もが、俺達の負けを望んでいた。
いや、「俺の」負けを、か。
『我が校始まって以来の大天才が出場だ! 当然、優勝大本命! こんな競技はさっさと勝って終わらせよう。そう思っているに違いない! この男を倒せるペアは果たしているのか? 頼む! いてくれ! 凡人の力を見せつけてやれ!』
「なんだあのアナウンスは。まるで君が悪者じゃないか」
「まあ、いつものことです」
天才だと人を持ち上げておいて、天才だからと人を貶める。
俺が勝ち続けるのは事実で、反論のしようもない。
長年の経験で、こうなってしまったなら、ただ黙って周囲の興味が他へ移るのを待つのが一番だと知っている。
「どうせこの競技の間だけですから、先輩も気にしないでください。とにかく、さっさと終わらせましょう」
「永野龍太郎君」
静かな先輩の声が、どうしてか耳によく届いた。
「絶対に勝とうじゃないか」
「なんですか? 妙に改まって」
「いや、なに。勝たなければならない理由がもう一つできた。それだけだよ」
「それって」
「君たち!」
先輩が叫ぶ。
「私たちは勝つよ! それはけして、覆らない事実だ!」
「な!?」
先輩の挑発に、ブーイングは勢いを増す。
「死ね」、「くたばれ」といった脅迫が混じり、先程までは競技の行方になど無関心だった者たちまでが、俺たちに敵意の眼差しを向けていた。
『言ったなてめえら! 覚えてろ、目に物見せてやらあ!』
実行委員は口調を取り繕いもしない。ここまでひどいブーイングは、さすがに初めてだ。この状況を作り出した本人はといえば、心底楽しそうな笑みを浮かべながら、
「そういうわけだよ、永野龍太郎君。逆に、目に物見せてやろうじゃないか」
俺はもう何も言えず、ため息を吐くしかなかった。
『おら、さっさと行くぞ! スタート五秒前!』
「さあ、始まるよ」
『四……三……二……一……スタートだ!』
ピストルが鳴り響く。
同時に一瞬で体を低く沈めて力を溜め、開放。関節から関節、筋肉から筋肉への力の移動をイメージし地面を蹴った。一歩で先頭に飛び出す。さらに差を広げて、一つ目の障害、人間輪投げにたどり着いた。足下のフラフープを拾って構える。
投げるべき相手が、いない。
他のチームがどんどん追いつく中振り返ると、先輩がスタートから数メートルのところで身を起こしているのが見えた。
『よっしゃあ! 永野チームはいきなりのアクシデントだ! 午前に行われた五十メートル走で二度も転んだドジっ娘が、またもややってくれたぞ!』
他のチームは順調に輪投げを攻略、次の障害へと向かっていく。
「永野、約束を忘れるなよ!」
三番手の原が意気揚々と駆けていく。原にとっては自身の順位などどうでもいいからだ。俺が先頭でなければ、それで原の目的は達せられる。そうなれば俺の科学部への入部が決まり、原は思う存分俺に実験をさせられる。
「そんなのは考えるだけで億劫だ」
俺がそんな呟きを零す頃、ようやく先輩が定位置の台に登った。
「来たまえ」
先輩が言い終わるか否かの内にフラフープを投げる。フラフープはイメージ通りの柔らかな曲線を描いて、先輩の体に触れることなく通り抜けた。
「行きますよ、先輩」
ぽかんとしている先輩の手を取る。こうでもしないと、また転ばれては大変だ。
『おーっと、みんなの願いが天に通じたか、あの永野が最下位だー! しかーし、二人手を取り走る様は、正直羨ましいぞこの野郎! やっぱり負けちまえ!』
アナウンスと男子からの罵声が強まるが、なんとでも言えばいい。勝負には関係ない。
二つ目の障害である二十メートルの網の前に来た時、先頭は生徒会チームだった。すでに網の中間まで進んでいる。二番手は体一つ分遅れてバカップルチーム。そんな中科学部チームはといえば、五メートル地点で息を荒げた原の背中を、パートナーの女子がさすっていた。
「急ごう永野龍太郎君」
「先輩がそれを言いますか」
気持ちだけは誰より急いでいる先輩はそう言うが、無策で網に挑もうものなら、科学部チームの二の舞だ。だからといって、ここで悠長に迷っている暇は無い。
「失礼します」
「え? わあ!」
先輩の手を引っ張る。そして腕を首に回させ、一息に背負い上げた。
『なんだぁ!? 永野がさらにけしからん行動に出やがったぞ? ジャッジ、あれはセクハラで失格にはできませんか?』
「君、まさかこんな場所で積極的になるなんて」
「これも勝つための作戦です」
俺は先輩を背負ったまま四つん這いになり、網に潜り込んだ。
「障害はあと二つも残っているんです。ここで原みたく、先輩の体力を使い切るわけにはいきません。ですからここは俺に任せて、先輩は体力を温存していてください」
「でも、それじゃあ君の体力が」
「これくらいで俺がへばると思いますか?」
「……思わない。しかしだね、いささか恥ずかしいじゃないか……」
「それはお互い様です」
『永野ー! お前ってやつはー! お前ってやつはー!』
実行委員が何か叫んでいるが、体力の消費とは無関係に速く大きくなる鼓動が邪魔をして、うまく聞き取れない。
今更何を動揺する。
以前の先輩の言葉を借りれば、俺と先輩は肌を重ねた仲ではないか。
自分に言い聞かせながら手足を動かす。原に追い付くのに時間はかからなかった。その横を抜き去る。しかし、
「まっ……、て……」
もはや言葉にすらならない呻き声が聞こえ、急に足が重くなった。
「あ!?」
「ふっ……ふっ……ふっ……げほっ!」
「原先生、色んな意味で汚いです……」
俺の足を掴む原に、その原にかけられた唾を拭う科学部の女子。
「……か、勝あつ……ごふ!」
「うぅ……」
ほぼ全校生徒の前でここまでするなんて、とんだ執念だ。だがまあ、それもそうか。
『汚いぞ原! でもナイスだ原!』
「よくやった!」
「そのまま押さえてろ!」
周りは皆、俺の敵なのだ。原の妨害も、奴らにしてみれば英雄的な行動に他ならない。
「くっ……」
何度足を振っても、原は両腕で抱え込むようにして離さない。そうしている間に、前のニチームは先へ進んでいく。
広がる差。
このままでは――。
『先頭の生徒会チームが網を抜けた! さすが生徒会! 我らが生徒会! 永野に引導を渡すのは、やはり生徒の代表、生徒会だあ!』
俺が、負ける?
「この、原め。離せ、離したまえ」
原を引き剥がそうと、先輩が俺の脚に絡みつく原の腕を蹴る。
「くっ、教師を足蹴にするとは、なんて生徒だ。おい、田原! こいつの足を押さえろ!」
「ええ~……」
「田原!」
「もう、わかりましたよ」
科学部の女子は、しぶしぶといった様子ながら、先輩の足をがっちりと抱え込んだ。
「わわ!? ど、どうする永野竜太郎君」
先輩が尋ねるように俺を呼ぶ。
俺はそれに答えなかった。
代わりに、肺が破裂せんばかりに、大量の空気を吸い込む。
「ふうう!」
短い叫びと共に、全身に力を込めた。両手が地面を削る。
俺が初めて体験する敗北が、こんなものであって、たまるか。
歯を食いしばり、原のしがみつく足を引き付ける。
「なん、てっ……奴だ……!」
『永野が進んだ! 信じられない。三人も体にくっつけたまま、進んでいるぞ!』
指先が針を刺されるように痛む。
間接が軋み、筋肉は引きちぎれそうだ。
しかし、進んでいる。
力任せに進み続け、やがて、
『こいつは天才どころの話じゃない、化け物だ! 三人を引きずったまま、二十メートルもの網を潜りきったー!』
「うわ」
網を抜けた途端、体が軽くなった。
俺の後ろで、原と科学部の女子が地面に伸びたまま、ぴくりとも動かない。先に力尽きたのはこいつらのようだった。俺から降りた先輩が、眉尻を下げた表情で俺の顔を窺う。
「君、大丈夫なのかい?」
俺は一度だけ深呼吸をして、再び先輩の手を取った。
「ええ。それよりも、先を急ぎましょう」
三つ目の障害、砂袋担ぎ。といっても、やはり百キロは重過ぎる。先を行く二チームは担ぐのを諦めて引きずっていた。
俺はしゃがんで袋の口を両手で掴み、肩に回す。袋を背中にしっかりと密着させて、一息に担ぎ上げた。同じように引きずっていては、追いつけない。
「行き、ますよ」
先輩は何か言いかけたが、結局は何も言わず俺についてきた。
『永野チーム、すごい追い上げだ! 負けるな生徒会、バカップルチーム!』
一歩進むごとに、砂袋が肩に食い込んだ。
痛みは前に進むことだけに集中することで、意識の外へと追い出す。
生徒会チームはさすがに男子二人だけあって、これでも差はほとんど縮まらない。一方のバカップルチームは男子が良いところを見せようとしているのか、それとも女子が非力をアピールしているのか、男子が一人で袋を引きずっている。そのため、簡単に差を詰めることができた。
『科学部チームに続いて、バカップルチームまで永野に抜かれてしまうのか!? おーっと!』
気がつくと、俺は地面に倒れていた。間髪入れずに鳩尾が圧迫されて、肺の空気が搾り出される。遅れて痛みが襲い、目の前が真っ暗になった。
「き、君!」
先輩の声と、肩を揺さぶられる感触。
『接触事故だー! バカップルチームの佐藤と永野がまさかの衝突!』
「ご、ごめん、手が滑って」
明るさを取り戻した視界に、先輩の顔と、男子の顔が映る。
実行委員と男子の言っていたことで、状況はわかった。袋を引きずっていた男子の手が滑り、勢い余って、偶然横を抜こうとしていた俺にぶつかったわけだ。
男子が俺の手を掴んで引き起こした。
意図せず膝が折れて、男子の体にもたれかかってしまう。
「おっと、大丈夫か?」
男子が俺を心配する言葉と共に顔を覗き込んでくる。
それに俺はぎょっとした。
男子の表情が、『笑み』だったからだ。
俺と、隣に立つ先輩にしか聞こえないような声で男子が言う。
「悪く思うなよ。てめえの邪魔したら、次のテストでは良い点くれるって、原との約束だ」
それから俺の体を離すと、わざとらしく大きく頭を下げた。
「ほんっとごめんな」
まるでさっきのことが全て気のせいだったように、悪意の欠片も見られない、本当にすまなそうな顔をして、砂袋を引きずる作業に戻っていった。
「君、今の……」
「ふっ」
「え?」
「はっはっは」
俺は笑っていた。肺が痛みを訴えるが、俺は笑ってやった。
いっそ清々しいほどに悪役だな、原。
「先輩」
「な、なんだい?」
「俺、勝ちたいです」
思えば、ここまで本気で向かってくる相手がいるというのは久しぶりのことだった。成長するにつれて、周囲が俺に向けるものは羨望や対抗心から、諦観や嫉妬に変わっていった。俺がそれに対して抱いたのは呆れだった。
周囲が諦めるほどに俺は興味を無くす。
しかし、先輩がそんな状況を変えてくれた。
原との勝負を受け、敵意を煽り、周囲が俺に強く対抗心を抱くようにしてくれた。
たぶん意図したことではない。先輩はそんなに器用ではないから。
ただ、俺に機会をくれた。
今までの、諦めと嫉妬の混じった罵声に黙っているしかなかった状況に、真っ向から勝負する機会をだ。
これだけの敵意を向ける相手に負けたなら、『やっぱり』なんて言葉だけで済ませることはできないだろう。
それこそが、俺が一矢報いるということなんだ。
俺は再び砂袋を担いだ。
『永野がアクシデントから復帰! しかあし、てめえにはもう勝ち目なんかねえぞ。生徒会チームが最終障害の壁に到達だ!』
終わっていないのなら、勝ち目はまだ消えてなどいない。
苦しみも痛みも、耐える。
才能も何もあったものではない。
ただ、ただ耐える。
耐えて歩を進める。
大股に、足早に歩み続け、もう一度バカップルチームに追いついた。
バカップルチームの男子が肩越しに俺を見た。
――来る。
予想通りに男子は袋から手を離し、俺に向かって倒れてきた。
そして予想通りでありながら、俺はそれをよけなかった。
肩から俺にぶつかる男子。さらに残した軸足で体重を乗せてきた。
俺は痛みや苦しみと共に、それも耐えた。
『佐藤と永野が二度目の接触! しかし今度はどちらも転倒を免れたようだ!』
寄りかかる男子に問いかける。
「大丈夫か?」
「あ、ああ……」
男子が俺から体を離す。目を泳がせる男子に、
「それは何よりだ」
思う様に皮肉を込めた笑みを向けてやる。
呆然とする男子を置いて歩き出す俺に、先輩が言う。
「君らしくないね。でも、嫌いじゃないよ」
「そうですか」
ほどなくして砂袋を担ぎ終えた。
『遂に永野チームが最終障害まで来てしまった! 生徒会チームは未だ壁を越えられず!いったいどうしたというんだ?』
壁を見上げたまま動かない生徒会長。俺はその姿に違和感を覚えた。
生徒会長はだいぶ長身で、百八十センチメートルはあるだろう。
それに対して、壁が異常に高く見える。
副会長が手を伸ばして飛び跳ねても、まるで頂上に届く気配が無い。
「近くで見ると、三メートルの壁というのはすごい威圧感だね」
「いえ、これは明らかに」
頂上を見上げようとすると、ほぼ真上を向くようだ。
『両チームともに壁を見上げたまま――え? なんだよこんなときに、って、はあ!?』
実行委員が素っ頓狂な声を上げた。かと思えば、今度ははっきりしない声音で話す。
『あの……、たった今、入った情報なんだけど……、壁、三メートルじゃないって……。製作陣が勘違いして、一メートルばかり、高くなっているみたいです、はい』
ばかり、なんて言葉で済ませられる誤差ではない。
『うわあああ、どうすんだよお前ら! そんなに高くして、誰も超えられなかったら、ぐだぐだにも程があるだろうがよ!』
『うっせえ! 今の今まで気づかないお前だって悪い!』
『なんだと!』
実行委員はマイクがあるのも忘れて喧嘩を始める始末だった。
それにしても、本当にどうする?
いくらなんでも四メートルの壁を一人で乗り越えるのは無理だ。先輩の手を借りたとしても、解決には至らないだろう。
生徒会チームの様子を窺う。
生徒会長と目が合った。
目を見てわかったのは、相手もまだ諦めてはいないということだった。
「永野」
生徒会長が短く俺を呼ぶ。
「なんですか」
「この壁はを一人で超えるのは不可能だな」
「ええ」
「こっちは男二人だが、それでも無理だ。男女ペアのそっちは尚更だな」
「そうですね」
「なら、男三人ならどうだ?」
「……手を組め、と」
「そうだ。俺とお前が土台になって、まずはうちの曽根を上げる。次に俺たちの土台と、上にいる曽根の力でお前の相方を上げる。そうしたら体操着を結び合わせてロープ代わりにし、残りが登る」
確かにそれならなんとか届くかも知れない。しかし、
「登る順番が気になるんだろ? まあ、当然だ。先に二人とも登ったチームが圧倒的に有利だからな。例えここで、両チームが二人とも登り終えるまでは休戦なんて口約束しようとも、まるで信用できない」
その通りだ。
俺は勝ちたい。
負けるかもしれないという可能性は、わずかであっても作りたくなかった。
すると、生徒会長が親指で自分の胸を差した。
「俺は一番最後に登る。これならどうだ」
「そんなことしたら」
「そんなことしたら、お前が先に行くかもしれないって? いやいや、お前は行かないよ。そんな自分の才能を自分で馬鹿にするようなこと、するわけない。だろ?」
口調こそ問いかけだが、意味するところは挑発だ。
元より卑劣な勝利なんか望んではいない。
「わかりました。組みましょう」
こうして一時的な休戦協定が結ばれた。
生徒会長の提案通り、まずは俺と生徒会長とで向かい合って立ち、互いの肩を掴んで土台を作る。それから、副会長が生徒会長の背中をよじ登り、俺たちの肩の上に立った。
「もう少し……ほっ!」
肩にかかる重みが増したかと思えば、その次の瞬間には消えていた。副会長がジャンプして壁の頂上に手をかけたのだった。
『おおおお! 想定とはだいぶ違うけど、これで誰もクリアできないなんて最悪の展開は無さそうだ!』
副会長が壁をよじ登る。
「よし、作戦通りだ」
生徒会長が俺にうなずいて見せた。続いて先輩を持ち上げ、副会長に引き上げてもらう。それから俺と生徒会長、副会長は体操着の上を脱いで、ロープ代わりに壁の上から垂れ下げた。
「それじゃあ永野、先に行ってくれ」
もうこれ以上の確認は野暮に思い、俺は何も言わずに軽く跳んで体操着を掴んだ。壁に足を着き、体操着を手繰り寄せながら登る。
反り返るようにして見上げていた壁の頂上が、あとほんの少し先にまで来た。
あと二回ほど体操着を手繰れば届く。
俺は右手を伸ばし、残るは一回だった。
しかし、壁の頂上は近づくどころか、急速に遠ざかっていった。
体を預けていた体操着の端が、二つとも見えた。
浮遊感。
そして、今までに感じたことの無い衝撃が体を襲った。
「か――――」
先ほどバカップルチームの男子から受けた肘打ちとは比べ物にならない苦しみだった。
目の前が真っ暗になる。
呼吸がうまくできない。
いや、吐くことはできる。
というよりも、穴の開いた風船のように口から肺の空気が漏れ出る。
だが一方で吸うことができない。
空気を吐き出しすぎて、体が薄い一枚の紙になったように感じた。
耳鳴りに混じって、叫び声が聞こえる。
女の声で、男の声で、意識して初めて意味が取れた。
大丈夫か。
ああ、そうか。
俺は落ちたのだ。
四メートルの壁の、ほぼ頂上から。
気づくと同時に痛みが増した。
どこが、とははっきりわからない。一箇所だけが酷く痛むようにも、全身が重く気だるいようにも思える。不意に吐き気がこみ上げてきたかと思えば、刺すような痛みに全てが消し飛んだりした。
どうしてこんなに暗いんだ?
簡単だ。俺は目を閉じているんだ。
いちいち自分の状況を意識しながらの確認作業。
まぶたを上げるというのそれだけの行動を、こんなにも重労働に思ったのは初めてだった。
細く、視界に光が差す。やたらに眩しい光だった。
光は幅を広げ、次第に色を持ち始める。
色は像を結び、始めに見えたのは笑みだった。
喜んでいる。
俺が目を開けたことではなく、俺が落ちたことに。
笑みの持ち主は生徒会長だった。
俺に安否を確認する声をかけながら、その表情に心配なんて欠片も見られない。
「おい、保健委員は早く来てくれ!」
生徒会長が本部テントに向かって叫ぶ。それを聞いて、ようやく俺は気づいた。
嵌められた。
生徒会チームは、わざと体操着を緩く縛っていたのだ。強い負荷がかかれば解けるように。
そうして俺が壁から落ちれば、保健委員がやってくる。なにせ四メートルの高さだ。その後は怪我の有無に関わらず、俺は保健委員に連れられて退場。残った生徒会チームは敵もなく、楽々と優勝できる。
「その目、気がついたか」
生徒会長が俺を見下ろして言う。
「全校生徒の代表である生徒会が、今やその全校生徒の敵であるお前に負けるわけにはいかないんだ。まあ、恨むなよ」
恨むなだって?
これだけしておいて、どの口が言いやがる。
そう噛み付いてやりたくても、口も喉も肺も言うことを聞かなかった。
視界の端がまた暗くなっていく。猛烈な眠気が俺のまぶたを下へ下へと引っ張っている。
抗う気力さえ、眠気の中に融けていく。
ああ、駄目だ。
途切れる。
「永野龍太郎君! 君は、こんなところで終わるのかい? 負けてしまうのかい?」
先輩の声だ。
壁にあいた小さな穴から覗くような視界に、薄ぼんやりとだけ先輩が見えた。
「彼らの自分勝手な羨望と嫉妬に振り回されて、そんな終わり方で悔しくないのかい?」
そんなの、悔しくないわけが無い。
俺は右手で砂を掴んだ。
左手で砂を掴んだ。
そして自分に言い聞かせた。
ほら、手が動くだろ。
なら次は足だ。
それができたら起き上がれ。
立ち上がれ。
『な、永野が立ち上がった! あれだけの高さから落ちて、立ち上がったぞ!』
罵声は消え、代わりにどよめきが広がった。
「おいおい、安静にしておけよ。保健委員!」
生徒会長が慌てている。こっちへ走ってくる保健委員をさらに急かし、俺をこの場から排除しようとしている。
そうはさせるか。
「あの、すぐに保健室へ行きましょう」
そう言って伸ばしてきた保健委員の手を、俺は振り払った。
「触るな。俺なら何も問題ない」
「ば、馬鹿言わないでください! あの高さから落ちたんです。早く先生に見てもらわないと!」
俺は喚く保健委員を無視し、壁を背にして数歩歩いた。
それから、もう一度壁に向き直る。
『まさか、まさかまさか永野! 壁にリベンジするつもりなのか!?』
そのまさかだった。
こんなのところでは負けられない。
こいつらには、負けたくない。
そのためには、この壁を乗り越えなければならない。
なら、乗り越えるまでだ。
無理だなんて決め付けてしまった、さっきの自分の問うてやりたい。
何故無理なんだ?
萎み続けようとする肺を強引に押し広げて空気を取り入れる。
不足していた酸素が筋肉に行き渡るのが実感できた。
俺は重たい頭を上げて、壁の頂上を見た。
困惑している副会長の隣で、先輩はいつもの笑みを浮かべていた。
俺ならできて当然だと、そう思っているに違いない。
まったくその通り。
俺ならできるに違いない。
体を重力に引かれるまま前傾に倒し、自然と前に出る右足で力強く地面を蹴った。
痛いとか苦しいなんてのは、今は全部無視する。
とにかく前へ、より速く。
壁の直前で地面を踏み切る。
前へ進む力をできるだけ多く、上方向へと変換する。
全身がバネであるとイメージし、伸び上がる。
『高ーい! なんて跳躍力だ! しかし、四メートルはまだまだ先!』
実行委員の言うように、頂上はさらに上にある。だが、まだだ。
「ふ!」
俺は左足で壁を蹴り、跳んだ。
頂上が近づく。
体はなおも上昇を続けた。
そして、手のひらが壁の高さを越えた。
高さは十分だった。
しかし、壁を蹴ったことで体が壁から離れてしまっていた。
頂上へと手を伸ばす。
「届けええええええ!」
叫ぶ。
指先が、縁にかかった。
『届いたああああああああああああ! 信じられない! 信じられなあい!』
実行委員の絶叫がこだまする。
俺は反対の手も縁にかけ、体を引っ張り上げた。
壁の上は案外と陳腐な作りだった。
そこに二つの足を着いて立つ。
それから手を伸ばし、
「さて、さっさと行きましょうか」
笑顔で待っていた先輩の手を取った。
「ああ」
先輩が頷いた。
二人で壁の反対側にある下り階段へ向かう途中、副会長の姿が目に入った。俺におびえた表情を向け、上半身はのけぞっている。生徒会長が計画犯なら、副会長は実行犯なのだから当然だ。俺に何か報復されるとでも思っているんだろう。
俺はそんな副会長に顔を寄せると、先輩の真似をして片一方の頬だけを上げてみせた。
鏡も無く、自分がどんな顔をしているのかわからないが、副会長が尻餅を突くくらいには様になっているようだ。
階段を下りて、ゴールテープまでの短いストレートを歩きながら思うことがあった。
俺がこのままトップでゴールしたなら、いつものようにブーイングが起こるに違いない。
しかし、それでも俺の心は晴れやかだった。
本気を出すということは、こんなにも気持ちの良いことだったのか。
それはきっと普通の人間にとっては当たり前のことかもしれないが、俺にとっては新鮮な感情だった。
この感情は悪くない。
この感情を味わうためだったと言われれば、徒労にさえ感じていた先輩のお願いが、何か尊いもののようにも思えた。
これからも先輩のお願いを聞いていたら、またこの感情を味わえるだろうか。
もしそうなら――。
俺は隣を歩く先輩を横目に見た。
先輩は心底うれしそうに、俺と繋いだ手を子供みたく大げさに振りながら笑っている。
もう少し、この先輩に付き合ってもいいかもしれない。
「君、これはぜひとも祝勝会を開かないといけないね」
大ブーイングのゴールの後、蒼褪めた顔でやってきた養護教諭に引っ張ってこられた保健室のベッドで横になっていると、傍らで先輩がそう言った。
「なんといっても一位だよ、一位。この私が、一井を取れるなんて、夢でなければ奇跡だよ」
「ほとんど俺の力ですけどね」
「はっはっは、私たちはチームじゃないか。途中がどうであれ、結果は二人のものだ」
「まあ、別にいいですよ」
「ふむ。そんなことより祝勝会だ。といっても、君はその具合だからね。今日、明日はゆっくり休みたまえ。幸い、振り替え休日で明後日は休みだし、祝勝会は明後日にしよう。場所はそうだね――」
それから先輩は、一人でどんどんと祝勝会の予定を進めていった。
「以上の予定でどうだい?」
先輩が最後に、形ばかりの確認を取ってくる。俺が渋ろうがどうしようが、先輩の中ではとっくに確定事項になっているのだ。
「ええ。それでいいですよ」
「そうか! そうかそうか、実に楽しみだね」
先輩は無邪気に笑った。
*
扉の前で顔を揉む。
知らずしらずににやけてしまう表情を隠すために。
うん、大丈夫。
ひとつ深呼吸をしてから、玄関の扉を開けた。
「ただいま」