七
校庭で爆竹が弾け、真っ青な空にけたたましい音を響かせる。
軽快な音楽と、実行委員による放送が流れた。
「ただいまより、第六十二回、美原高校体育祭を始めます」
早くも遅くもなく、時間は律儀に過ぎて今日になった。体育祭当日に。
天気は晴天。憎らしいほどに体育祭日和だ。どうせなら雨が降って中止になってしまえばいいと、少しばかりの期待はしていたのだが。
校長の話を聞き流しながら、先輩の並ぶ二年生の列を見やる。他の生徒が邪魔で、先輩の姿は見えなかった。今頃はたぶん、ウキウキワクワクといった文字が見えそうなほどに興奮している。
まあ、興奮しているのは先輩だけではない。こうして校庭に並んでいる生徒の中にだって体育祭を楽しみにしていた者は多くいるだろうし、教師の方もそうだろう。これなら、多少先輩が張り切り過ぎても、目立たずに済むはずだ。
そう、きっと。
きっと……。
考えれば考えるほど、嫌な予感しかしてこなかった。
あのふざけた名前の障害物競走は、午後一番の種目だ。他の種目に参加する予定も無く、午前中はひたすらに暇を持て余していた。
俺はバレーとバスケが行われている体育館にも、スペースの関係で無理やり運び込んだ台で卓球が行われている武道館にも、他の競技が行われているどこにも行かず、一人、教室から校庭を見下ろしていた。校庭では陸上競技が行われている。
降り注ぐ日差しに照らされ、晴れの舞台とばかりに存分に実力を見せつける者。
強引に参加させられたのか、だらだらと走って顰蹙を買っている者。
手持ち無沙汰でやたらに柔軟体操をしている者。
体育祭に対する意気込みは人それぞれだ。しかし、耳に届く歓声には笑い声が多い。結局は皆、年に一度のイベントを楽しんでいるのだ。
俺はカーテンを閉めて、机に伏せた。
午前はこのまま寝てしまおう。
そう思って目を閉じると、ますます外からの声がよく聞こえた。応援、アナウンス、意味不明な雄叫び。
俺の意思とは無関係に、脳は勝手に古い記憶を掘り起こす。
『またか――』
『どうせ――』
『やっぱり――』
『いい加減に――』
『失敗しろ――』
『負けろ――』
「はあ……」
低い声を漏らしながら、肺の空気を全て吐き出すつもりで息を吐いた。
埋もれたままになってろよ。
どうしてわざわざ思い出させるんだ。
胃が動き回っているような不快な感覚に、吐き気が込み上げてきた。それを奥歯が軋むほどに噛み締めて耐える。
頭の中ではいつまでも、存在しない声が響く。
「やめてくれ……」
俺の声は誰にも届かない。
当然だ。誰もいないのだから。
わかっていても、そう言わずにはいられなかった。
急き立てられるように俺は跳ね起きた。
何か、気晴らしになるようなことでもしよう。
これといった当てはない。しかし、ここで丸くなっているよりはいいだろう。
行こう。
そう思ったとき、一段と大きな笑い声が聞こえてきた。無意識に目が校庭に向く。
生徒が倒れている。
それが誰なのか、俺はすぐにわかった。
今日は後ろで一つに結んでいるが、腰まで伸びる黒髪には見覚えがある。
先輩はのたのたと立ち上がると、すでに決着のついたゴールへと走る。
一年生にまで「頑張れドジな先輩」などと茶化されていた。
こういう大事な場面で失敗するあたり、実に先輩らしいとさえ思えた。
圧倒的な差を付けられてゴールした先輩が、係員の誘導でテントに入る。ここからはもう先輩の姿は見えないが、たぶんどこかを擦りむいて治療してもらっているのだろう。
「はあ……、一応、大丈夫か聞きに行ってみるか」
教室を出て、校庭へと向かった。本部テントの近くで左の膝と肘に絆創膏を貼った先輩を見つけた。パイプ椅子に座りうなだれている。
「先輩、怪我の具合はどうですか?」
「……ああ、永野龍太郎君。大丈夫、ちょっと擦りむいただけだよ……」
顔を上げた先輩は、どこか元気がなかった。浮かべる笑顔も、眉尻が下がり、いつものどこから湧いてくるのかわからない自信が見られない。
「転んでしまったのは残念でしたね」
「見てたのかい? ははっ、うん、失敗してしまったよ。やっぱり私は、駄目だめだ……」
力無い笑いを零す先輩。
変だ。
「何かあったんですか?」
「何か、とは?」
「それはわかりませんが、今更、転んでしまったくらいで落ち込んでいるのは、先輩らしくないな、と」
「君の超能力者っぷりにも磨きがかかってきたね。……はあ、実はね、母と少し喧嘩してね」
「親子喧嘩、ですか」
「うむ。私が、母の言うとおりにできなくて、怒られた」
先輩は勉強ができない。
運動や、料理だってできない。
それらのどれができないことで怒られたのはかは知らないが、そんな子供を持った親ならばきっと。
「心配なんでしょうね」
「え?」
「親だっていつまでも手をかけられるわけじゃないでしょう? 先輩のお母さんも、先輩を心配して言い過ぎてしまっただけだと思いますよ」
「そう、なのかな?」
「こればかりは断言できませんが、おそらく」
一度も会ったことのない人間の考えることを、完璧に推測するのは無理だ。しかし、大きくはずれてはいないだろうと思う。
「そうすると、するべきことは簡単です」
「私は何をすればいいんだい?」
「当初の予定通り、先輩が体育祭で一位を取ればいいだけです。それだって、俺と一緒ですから容易いでしょう」
俺は先輩に手を差し出した。
「永野龍太郎君……」
先輩がふっと笑い、頭を振る。それから俺の右手を握った。
変なのは俺もだと、今になって気づく。
先輩は怪我をして、しかも気持ちも落ち込んでいた。それを理由に、結果がどうあれ、障害物競走への参加をやめるよう説得もできたはずだ。
それなのに、どうして俺は先輩を励ますようなことを言って、しかも積極的な参加表明をしているんだろう。
次にうなだれるのは、俺の番だった。
*
掃除をしましょう。
リビングもキッチンも、玄関もトイレもお風呂もベランダも寝室も下駄箱もクローゼットも、あの子の部屋も。
埃一つ無くピカピカにしましょう。
私は愚図でも間抜けでもアホでも役立たずでも駄目な人間でもないのだから。
あの子の頼れる母親なのだから。私が掃除してあげないと、あの子はすぐに部屋を散らかす。
今日だってそう。
脱いだ服は脱ぎっぱなし。
読んだ本も出しっぱなし。
ゴミ箱の脇に転がるお菓子の空箱。
本当にあの子は駄目な子だ。
そこがかわいいのだけれど。
これって、親馬鹿っていうのかしら。
ううん、違うわ。
だって私は馬鹿じゃないもの。
私は生きていていい人間なのよ。
一通りゴミとそうでない物を分け終え、次は出しっぱなしだった漫画を本棚にしまっていく。
あら?
本棚の奥に、本で隠すように一枚の紙がしまわれていた。
何かしら?
私は母で、あの子にとって常に頼れる存在であり続けないといけない。
そのためには、あの子の全てを知る必要がある。
だから私はその紙を手に取った。