四
特別な印象を抱くような場所ではなかった。
学校の最寄り駅から四つほどの駅で降り、徒歩十分から十五分という近くも遠くもない場所に建つ、五階建てのマンション。それを二階まで階段で上り、一番端の扉まで歩く。先輩はスカートのポケットから何の飾り気も無い鍵を出すと、ドアノブに差し込み捻る。
「さて、我が家にようこそ、永野龍太郎君」
先輩が扉を開いて俺を促した。
とにかく早さだ。
何を作るつもりかはわからないが、さっさと食べてさっさ帰るんだ。
そんな決意を胸に、俺は先輩の家に足を踏み入れた。
短い廊下の先には、開きっぱなしの扉。その先はリビングだった。
先輩はアイボリーの革張りソファーに鞄を放り、入り口右手にある対面式のカウンター脇を抜けてキッチンへ向かう。
「とりあえず、麦茶でいいかい?」
「いえ、お構いなく」
「はっはっは、私が飲みたいんだ。まさか客の前で一人喉を潤すわけにいかないだろう?」
俺の返事を待たずに、先輩は二つのコップに麦茶を注いだ。
「さて、かけてくれ」
コップをテーブルに置き、先輩はどっかりとソファに腰掛けた。先輩の礼儀に対する基準は不明だ。俺も座らなければ話が進まなそうなので、先輩の向かいのソファーに腰を下ろす。ソファーは予想していた感触よりずっと柔らかく、後ろに倒れそうになった体を背もたれが優しく包んだ。
「まずは飲むといい。ここまで暑かったろう?」
「さっきの言葉を聞いた後では、その労いも実に薄っぺらく感じますね」
しかし、暑かったのは事実だ。喉は渇いているし、昼に先輩から言われた通り、何も食べていないせいで、腹は強烈な空腹を訴えている。
これも早く帰るため。
誰にとも知れず言い訳めいたことを考えながら、俺は一息に麦茶を飲み干した。
「いい飲みっぷりだね。どうだいもう一杯?」
「結構です」
「そうかい?」
「それよりも、料理の方をお願いします。俺は先輩の料理を食べに来たんですから」
「はっはっは、そんなに心待ちにしていてくれたなんて、嬉しいよ永野龍太郎君」
「この際、先輩がどう思おうと構いません。とにかく料理を」
「待ちたまえ、そうせっつかれても困る」
先輩は盾にするように手のひらを俺に向けた。
「何事にも準備というものがだね」
「なら、早く準備して早く料理してください」
「君には亭主関白の素質があるよ」
「変なことを言って、話を逸らそうとしないでください」
「うっ……うぅ~」
いったいなんだと言うのだ。手料理を食べさせたいから家に来いと言ったのは先輩のくせに、どうして恨めしげな目を向けられなければならないのか。
「そんなに、すぐに食べたい、かな?」
「ええ」
「そうか。……わかった。でも!」
先輩が指を立てる。
「その前にたった一つだけ言っておかなければならないことがある」
「……たった一つ『だけ』なんてくらいですから、それはそれは重要なことなんでしょうね」
「ああ。いいかい、よく聞いてくれたまえ」
先輩は手を組んで肩で大きく一呼吸し、表情を引き締めた。
「永野龍太郎君、私は――まるで料理ができない」
「……………………は?」
この人は今、なんと言った?
百点をとるためにカンニングに協力してくれたお礼に、手料理を食べさせたいと言っていたのに、
手料理を食べてくれないと屋上から飛び降りると脅してきたのに、
料理ができない、だと?
「開いた口が塞がらないといった様子だね」
まさかその原因にそう評されることがあるなんて思いもよらなかった。というのも、先輩の言うように開いた口が塞がらず、声にならなかった。
「君に私の手料理を食べてほしいとは思っているんだ。でも料理はできない」
俺は無言で先輩に空になったコップを突き出す。
「ん? やっぱりおかわりが欲しくなったのかい?」
先輩は俺からコップを受け取ると、キッチンで麦茶を注いでくる。
「さあ、どうぞ」
先ほど同様、一息に麦茶を飲み干す。軽く息を吐き、
「あなたはどこまで馬鹿なんですか!」
「うわあっ!」
先輩がソファーの上で跳ねる。
「いきなり叫ばないでくれ……」
「先輩が言ったのは、俺がそうなってもしかたないほどのことですよ。というか本当ですか? 料理ができないって」
「ああ。まったく、まるで、これっぽっちもできない」
そう言って先輩が示した親指と人差し指はぴったりとくっついている。
「それでどうして手料理を食べさせたいなんて考えが出てくるんですか……」
「したいという気持ちと、できるできないは別だろう? それに、私は料理ができないけど、安心してほしい。ちゃんと秘策があるんだ」
「この際、カップラーメンにお湯を注いで手料理と言われても我慢しましょう。あれは作り手を選びません」
「おいおい、何を言ってるんだ。私はちゃんとした手料理を君に食べてもらうよ」
「その料理ができないって、自分で何度も言ってるじゃないですか」
「うむ、できない。一人ではね」
先輩が例の笑みを浮かべた。
「君の協力が、必要だ」
「なんですかそれ」
つまりだ、俺に食べさせる料理を作るのを、俺自身に手伝えと。
自炊じゃないか。
「君がこの提案を断った場合、いったいどうなるだろう? 私一人でキッチンに立ち、私一人で献立を決め、私一人で食材を選び、私一人で料理をする。腹を空かせた君の前にあるのは、食べ物かな?」
「俺に食べることを拒否する権利は?」
「私が屋上から飛び降りる理由が『満足』から『悲しみ』に変わるね」
拒否権は無いか。
何度も思ったことだが、やはりこれしかないだろう。本当にこの先輩といると、ろくでもないことになる。紆余曲折色々ありながら、結局はこう言うことになってしまうんだ。
「……わかりました」
冷蔵庫を覗く。幸い、先輩の親まで料理のできない人ということはないらしく、食材は十分にある。むしろその豊富さから、なかなかの腕を有していることが伺い知れた。ほんの少しだけでも、それを先輩に教えておいてほしかった。
「さて、私は何を作ればいいんだい? ちなみに私の一番の好物はラザニアだ」
「そんな本格的な料理、先輩に限らず、普通の高校生だって作れませんよ」
冷蔵庫の食材、難易度、料理に対する達成感、俺の空腹感と趣向を考慮する。そうして、一つの料理名が浮かび上がった。
「決まりました。作るのはオムライスです」
「おお! それは私の一番の好物だよ!」
「ずいぶん変動の激しいランキングですね」
両手を上げて喜んでいた先輩だったが、その眉間にしわが寄る。
「む、しかし先ほど君は、本格的な料理は駄目だと言わなかったかい?」
「凝ったものを作ろうとしなければ、オムライスなんて幼稚園児だって作れますよ」
俺は先輩がよくするように、指を立てた。
「一、食材の下拵え。二、チキンライスを作る。三、卵を焼いてチキンライスに載せる。この三行程しかないんですから」
「そう言われると、ふむ、簡単そうに聞こえなくもない、かな?」
「それじゃあ、さっそく始めましょう」
冷蔵庫から目星を付けた食材を出していく。目指すのはシンプルでおいしいオムライス。食材もできる限り少ない方がいい。
「玉ねぎ、人参、鶏もも肉、卵、冷凍されたご飯、後は調味料と……」
「永野龍太郎君、ぜひこれも使おう!」
先輩が俺と冷蔵庫の間に割り込んで手を伸ばす。掴んだ物を俺へ突きつけた。
「ピーナッツバタークリーム! 甘くてとてもおいしくなりそうじゃないかい?」
「却下です」
俺は先輩の手からピーナッツバタークリームを奪い取って、冷蔵庫の一番上の一番奥へしまう。
「なら蜂蜜は」
次に出された蜂蜜はピーナッツバタークリームの隣に並べる。
「イチゴジャム」
蜂蜜の隣へ。
「シュールストレミング」
「何故そんなものが一般家庭の冷蔵庫に入ってるんですか!?」
ピーナッツバタークリームを押しのけて、冷蔵庫の裏側に突き抜けんばかりの勢いでしまう。
「先輩、料理は足し算じゃありません。おいしそうな物を足せば、もっとおいしくなる、とはいかないんです」
「でももしかすると、将来は誰もがそうするほどおいしいオムライスができるかもしれない」
「その実験は、どうしても今しなければならないことですか?」
料理を教えてほしいと言ったのは、いったい誰だ。
こぼしたため息が、冷蔵庫の冷気で白くなる。
「余計なことなんかしなくても、十分おいしいオムライスが作れるようにします。それとも、俺の料理の腕前が信用できませんか?」
「まさか! 信用しているとも!」
「なら、これからはちゃんと俺の言うことを聞いてください」
「……うむ」
先輩がしょんぼりとうなだれる。さっきまでのはしゃぎぶりが嘘のような落ち込みようだ。まるでこっちが悪者になった気になってくる。
俺はもう一度白い息を吐いて、冷蔵庫の中に手を伸ばした。
「ピーナッツバタークリームも、蜂蜜も、イチゴジャムも、シュールストレミングも使いませんが、変わりにこれを入れましょう」
先輩が顔を上げて、俺の手中の物に目を丸くする。
「それは、生クリーム?」
「ええ、生クリームです」
「それをいったい……? もしかして、オムライスにケーキみたくトッピングするんじゃないだろうね?」
「違います」
ホイップクリームでデコレーションされたオムライスを想像してみる。湯気の立つオムライスに、ケチャップではなくホイップクリームがこれでもかとかかっているものをだ。
それを食べるのは、空腹で腹と背中がくっつきそうな今でさえ、並々ならぬ勇気を要するだろう。
「じゃあ何に使うんだい?」
「それは使うときになったら教えますよ」
「む、焦らすじゃないか」
先輩の表情が、いつもの笑みに戻る。これでしばらくは余計なことをしなくなるはずだ。こうして紆余曲折の末、ようやくオムライス作りが始まった。
俺は先輩に玉ねぎを手渡す。
「さて、まずは食材の下拵えです。玉ねぎの皮を剥いてください」
「よし任せたまえ」
先輩の細い指が、ぎこちなく玉ねぎの皮を剥き出す。もたつきながらも一枚、二枚と。
そうして、
「ところで、玉ねぎというのはどこまでが皮なんだい?」
「とりあえず、玉ねぎは先輩が思っているほど、面の皮の厚い奴ではありません」
拳くらいあった玉ねぎは、チューリップの球根サイズに縮んでしまった。
先輩の料理の腕は想像を絶するものだった。
玉ねぎのみじん切りで指を切り、人参の皮むき、みじん切りでも指を切った。それから、まるでそれが当然のように、鶏もも肉と一緒に指を切った。
「さあ永野龍太郎君、他に切るものはないかい?」
「いえ、包丁を使う作業はもう終わりです。ついでに、料理もここで終わらせてもいいんですが」
俺は先輩の左手、人差し指から小指に貼られた絆創膏を見ながら訊く。
しかし先輩は、その左手を握り締め、あっけらかんと笑った。
「はっはっは、冗談はよしたまえ」
「このまま、冗談にならない事態になるのだけは勘弁ですよ……」
その五分後。
「おおおお――」
「ちょっと先輩、目を輝かせている場合ではありません!」
チキンライスを作っていたフライパンから、火柱が上がった。
「はあ、はあ、はあ……」
皿に盛られた、あちこち焦げているチキンライスを前に、俺は肩で息をしていた。
俺達は、料理をしているんだよな?
そんな疑問が浮かぶ。
「次は、次は何かな?」
先輩はといえば、俺とは逆にとても活き活きとしていた。
「先輩はすごく楽しそうですね」
皮肉が出るのも仕方ないことだろう。先輩は俺の意図なんかには気づかない。満面の笑顔で大きく頷く。
「ああ、すごく楽しい。すごく、すっごくだ!」
子供のようにすごくすごくと何度も繰り返す。
「料理に限らず、何か物事を成し遂げるというのは、とても楽しいものだよ」
「そんなものですか」
「君は天才だから、なんでもできて当たり前だと思っているだろう。一度、できない側の人間になってみるといい」
「なろうと思ってなれるなら」
気のせいだろうか?
どうしてか先輩の笑顔に、影が差したように見えた。
「せ……」
「龍太郎君」
「あ、はい」
遮るような先輩の声に、思わず身構えてしまう。
「ところでだ、あれはいつ使うんだい?」
「あれ?」
「生クリームだよ。君が使うといったんじゃないか」
「ああ、生クリームですか……。それなら、今から使いますよ」
「おお! 遂に登場するのだね! それで、いったいどのように?」
先輩が上目遣いで尋ねてくる。その子供っぽい表情に影はない。やはり、さっきのは気のせいだったらしい。だいたいテストで八点なんて取っても、自慢げに話す先輩だ。暗い話とは無縁に決まっている。
俺は先輩の前にボウルと卵、そして生クリームを用意する。
「とりあえず、卵を割ってください」
「うむ」
先輩は卵を固く握り締め、思いっきりボウルの縁にぶつけた。白身の半分はボウルの外に流れ、もう半分の白身と崩れた黄身、そして殻がボウルの中へ。
「先輩、もう一個割ってください」
「うむ」
二個目の卵もだいたい同じ末路を辿った。俺は無言でボウルから殻を取り除き、こぼれた白身を布巾で拭き取る。この程度のことでは、もはや驚きも呆れもしない俺がいた。
「塩と胡椒を軽く振って、卵を溶きましょう。箸で白身を切るようなイメージで、箸を回すのではなく縦に往復させるようにです」
「ふむふむ、任せたまえ」
全く任せられる手つきではないが、幸いにもボウルをひっくり返すという最悪の事態を起こすことなく、卵を溶き終える。
「では、ここで生クリームを使います」
生クリームを軽量カップに少量注ぎ、先輩に渡す。
「これを、これをどうするんだい?」
「ボウルに空けて、卵と混ぜてください」
「よし」
生クリームと卵が混ぜ合わさり、ボウルの中が淡いクリーム色に変わっていく。
「それで?」
「後は普通に焼くだけです」
「え? 焼くだけ?」
「ああ、焼いて終わりではないですね。焼いたら、さっき作ったチキンライスに載せて、今度こそ終わりです」
「生クリームの出番は、これだけかい?」
「ええ」
なぜか先輩はぽかんと口を開けたまま動かなくなってしまう。
「先輩? あと少しで完成ですよ」
「……君が」
「はい」
「君が焦らすものだから、生クリームはもっとすごい使い方をするものだと思っていたのだけど」
「いえ、卵と一緒に混ぜる。それだけです」
「私のワクワクを返したまえ!」
箸を持ったまま先輩は腕を振り回してきた。
「危ないですって! 確かに派手な使い方はしませんでしたが、効果はすごいんですよ。調理過程においては焦げにくいというメリットがありますし、なにより、ふわふわとろとろに仕上がります」
「しかしだね……」
「おいしそうだと思いませんか? ふわふわとろとろの卵」
「う~……、思う……」
恨めしげに睨んではくるが、箸を振り回すのだけはやめてくれた。俺はほっと胸を撫で下ろし、オムライスの最終工程に入った。
「……このオムライス、本当に私が作ったのかい?」
「俺も見ていましたから間違いありません。これは先輩が作ったオムライスです」
完成したオムライスを前に、先輩は疑いと困惑、それに驚愕が入り混じった顔を、俺とオムライスへ交互に向けていた。
さて、肝心のオムライスの出来だが、少なくとも見た目に関しては、
「おいしそうにできましたね」
卵の焼き加減は、俺も細心の注意を払って横から見ていた。フライパンを火から上げる際に、先輩がもたつくことを見越して早めに合図を出したのが正解だった。焦げることなく、絶妙な固さに焼きあがった卵。不器用な先輩では、これでチキンライスを楕円形に包むのは無理だ。よって初めから包むのは諦め、チキンライスに被せるだけにした。フライパンを傾け、卵をチキンライスに被せる瞬間は、トランプタワーの最上段を載せるような緊張感だった。
「おいしそう、だね」
先輩の顔が、徐々に喜色に満ちていく。
「でも肝心の味は食べてみないと、って……!?」
先輩が視界からいなくなる。幽霊でも超能力者でもない先輩が、どうやって消えたのか。理由は体が知っていた。自分以外の誰かの熱を感じる。これで何度目だったろう。
先輩に抱きつかれるのは。
「ありがとう永野龍太郎君! 君はやっぱりすごいよ。こんな私にも、オムライスを作らせることができるのだから」
「え、ええ、まあ、はい、わかりました。ですからひとまず離れてもらっていいですか!」
「む? ああ、嬉しくてつい」
密着していた体が離れる。しかし、それと変わるように、がっちりと手を握られた。
「君への恩返しのつもりで始めた料理だったけど、さらなる恩ができてしまったね。ありがとう、ありがとう」
右手を大きく何度も何度も振られる。
「落ち着いてください。そう乱暴に振り回されては、肩が痛いです。それに、せっかく先輩が作ったオムライスが冷めてしまいますよ」
「む」
無造作に右手が離される。突然のことに拳の勢いを殺しきれず、自分の太ももを殴ってしまった。
「冷めてしまってはいけないね。早く向こうで食べよう!」
悶絶する俺には目もくれず、先輩はオムライスを持ってリビングに走っていった。振り回されているのは、腕だけではないようだ。
「そんなところで何をしているんだい? 早く来たまえ!」
本当に感謝の気持ちなんてあるのか?
長々と息を吐き出し、足を引きずりながらリビングへ向かう。先輩はそんな俺を見て首を傾げている。
「今行きますよ、っと?」
体を支えようとカウンターに手をついた拍子に、そこにあった写真立てに手がぶつかった。落ちそうになったそれを、慌てて反対の手で受け止める。
「ふう、危ない」
元の場所に戻そうとして、写真が目に入った。写っているのはどこかの岬と、一組の家族らしかった。
らしかったというのは、父親と思われる背広の男の顔が、ペンで黒く塗りつぶされて、よく判別できなかったからだ。
その横で、眉を八の字に下げて微笑む母親。
そんな母親に後ろから抱かれて笑っている子供。
先輩の家に飾ってある家族写真なのだから、この家族は先輩の家族で、子供は幼い頃の先輩のはず、だ。
しかし、写真の子供は先輩をそのまま小さくしたようなのに、俺にははっきりと「これは先輩だ」とは思えなかった。
目だ。
時間も場所も越えて、俺の全てを見透かされている気がした。不思議と不安な気持ちになる。
俺の知っている先輩は、そんな目をしないし、そもそも意識してできるようなものでもないだろう。写真の少女には、普通の人間とは違った何かがあるのだ。
「永野龍太郎君、いったい何をして……」
「あ、いえ、ちょっと写真を落としそうに」
先輩が俺の手から写真をひったくる。
「先輩?」
「見たのかい?」
先ほどまでとは一変、棘のある声だった。それこそ刺すように鋭く俺を睨みつけている。あまりの変わり映えに俺が声を出せずにいると、先輩は空いている手で俺の胸を押した。
「君にこんなことは言うべきではないだろう。だけど、今日はもう、帰ってくれないか」
「え……」
先輩は踵を返してソファーに腰掛けると、膝を抱えて丸くなった。そのせいで表情は伺い知れない。写真が原因なのは確かだが、それがどうしてなのか、どうすればいいのか。 俺の中に答えは無いし、待っていても先輩は動かない。
俺は釈然としない気持ちと空腹を抱えたまま、先輩の家を後にした。
*
オムライスにスプーンが突き刺さる。そして何も掬うことなく持ち上がり、再びオムライスに刺さる。
何度も、何度も。
それを写真に写った三対の目が見ていた。
やがて窓から差し込んでいた光は消え、部屋は暗闇に包まれる頃になっても、スプーンが皿を打つ音は止まなかった。
一定の間隔で、無機質に鳴り響く。
制したのはドアの開く音だった。照明が灯る。
「ただいま。灯りも点けないでどうしたの?」
女性はソファーに座った少女に首を傾げる。
「あ、お帰りなさいお母さん。えへへ、ちょっと居眠りしちゃった」
「気を付けないと、夏でも風邪ひくわよ」
「ごめんなさい」
「あら?」
女性はテーブルに置かれているものに気が付いた。
「それは何?」
「う、うん、お腹空いちゃったからオムライス作ろうと思ったんだけど……」
何も知らずにそれを見て、オムライスとわかる者など誰一人としていないだろう。皿の上には、焦げた米と卵がぐちゃぐちゃに絡み、吐瀉物にも見えるものが載っていた。
「やっぱりお母さんみたくはできないね」
「あらあら、本当に駄目な子なんだから。お腹が空いてるなら、そんなのは捨てて、私がおいしいのを作ってあげる。何が食べたい?」
「ラザニア!」
「時間かかっちゃうわよ?」
「だってお母さんのラザニア、大好きなんだもん」
「まあ! わかったわ。お母さんが腕によりをかけて、とびきりおいしいラザニアを作っちゃう!」
「やった!」
「うふふ、お母さんがいないと駄目ね……」