三
「あの、永野君?」
昼休み、教室の隅にある自分の席で弁当を食べていると、クラスメートの女子に話しかけられた。
「なに?」
返事をすると、彼女は小さく一歩後ずさりした。
「え、えっとね、二年生の先輩が呼んでる」
そう言って彼女が指差した教室の出入り口にいた人を見て、ため息を我慢することはできなかった。
「じゃあっ、伝えたからね」
礼を言う暇もなく女子は去っていく。そのままクラスの女子集団に混じると、皆に頭を撫でられたりしてなぐさめられていた。俺は食べかけの弁当をしまい、教室を出た。
「やあ永野龍太郎君。ご機嫌いかがかな?」
「先輩は実に良さそうですね」
「おや、わかるかい?」
「そんな晴れ晴れとした笑みでもって『鬱だ、死にたい』なんて言う人間はいません」
「ふむ、それもそうか」
「では」
俺は廊下を歩き出す。
「待ちたまえ、どこへ行くんだい?」
「昨日のテストの話をするなら、人のいないところの方がいいでしょう」
「む? 私はまだテストのことだなんて一言も言っていないはずだけど、どうして?」
「先輩が俺を訪ねてくるのに、それ以外の用事がないからです」
昼休みの校舎には至るところに人が溢れていて、二人きりになれる場所は少ない。俺は少し考えて階段に足をかけた。この学校では、下級生ほど上の階の教室を割り当てられている。だから一年生の教室がある階より上には、屋上しかない。
重たい鉄扉を開けてくぐると、真上から降り注ぐ日光が肌を焼いた。薄灰色のコンクリートの照り返しに目が眩む。
「君はなかなかの不良のようだね。昨日に続いて今日までも、二日続けて立ち入り禁止の屋上に上がるとは」
先輩は手でひさしを作りながら空を見上げる。
「誰のせいですか、誰の」
「さてね」
「まったく……。もういいです、そんなことよりさっさと話を済ませましょう。まあ、どうせ昨日の答案が返ってきたから報告にきたんでしょうけど」
「む」
先輩が口を尖らせる。容姿や口調は大人びているくせに、仕草はどれも幼い。
「確かにそうだけれど、そこはわかっていても黙っているものじゃないかな」
「そうですか。ついでに答案の点数も、先輩が望んだ通りに百点だとわかっているですが、それも黙っていた方がいいですか?」
俺が答えを教えたのだ。間違えているわけがない。
「もう!」
先輩が俺を睨みつけるが、それすらもおもちゃを取り上げられた子供が拗ねているようにしか見えなかった。
「では、話は終わりですね」
俺は数歩進んで屋上を囲う、胸ほどの高さの柵に肘を置いた。
「いや、話はまだ終わりじゃないよ」
「何があるっていうんです?」
「永野龍太郎君」
改まって呼ばれた名前に、俺は思わず振り返っていた。そうして俺の目に映ったのは、深く頭を下げる先輩だった。
「ありがとう」
「やめてください。カンニングの手伝いで礼を言われても、なんだか複雑です」
「でも君のおかげで私の長年の夢が叶ったんだ。ありがとうなんてありきたりな言葉では、感謝しきれない」
「大袈裟に過ぎます」
「私はそうは思わない」
「はあ……、そうですか」
こんなことで張り合ってもしかたない。
「そうなのだよ」
頭を上げた先輩は、その勢いで胸を張った。自信満々に言うことだろうか。俺は長く息を吐き出しながら背中を柵に預ける。
「よいしょ」
先輩が隣に並んだ。
「なんですか? 用は済んだでしょう?」
「君は何か、して欲しいことはないかい?」
質問に返ってきたのは、焦点のずれた質問だった。
「ありません」
「せめて考えるくらいしてみたらどうだろう」
「そんなこと聞いて、どうするつもりですか?」
「なに、言葉で感謝を表しきれないから、行動に頼ろうと思ってね。さあ、何でも言ってみたまえ」
どうやら善意からの言葉らしいが、嫌な予感しかしてこない。
「そうですか。じゃあ、早くどこかへ行ってください。俺はもう、先輩とは関わりたくありません」
「つれないこと言わないでくれたまえ。それに、君が私の礼を拒否したら、私のこの気持ちはどこに向ければいいんだい?」
「どこへなりとも」
「なら巡り巡ってもう一度君の下へ」
「だから、俺にはしてほしいことなんて何も無いんです!いい加減に」
ぐー。
「ん?」
「あ」
終わりの見えない言い争いの間に入った音に、俺と先輩はぴたりと喋るのをやめた。
「とにかく俺は」
それが失敗だと気づき慌てて口を開くが時すでに遅し。先輩は先輩はイタズラ坊主のような笑みを浮かべていた。
「永野龍太郎君、おなかが空いているようだね」
先輩の言う通りだった。さっきの音の正体は、俺の腹の虫が空腹を訴えたものだ。
「……弁当、まだ食べている途中だったんですよ」
「それは悪いことをしてしまった。テストを手伝ってくれたお礼と一緒に、昼時に呼び出してしまったお詫びもしないといけないね。そうだ!」
「その思い付きは口にしなくても結構です」
「私の手料理を振る舞おう」
「結構と言ったでしょう……」
「永野龍太郎君、どれだけおなかが空いていても、何も口にしてはいけないよ。授業が終わり次第、私の家で君が一番に望むことを叶えてあげよう」
先輩は俺の話になんて全く耳を貸さず、一人でどんどん予定を立てていく。このままではまずい。
「盛り上がってるところに水を差すようですが、行きませんよ」
「はっはっは、遠慮しなくたっていい。親も帰って来るのは遅いし、気兼ねなくくつろいでくれて構わない」
「ますます行きたくなくなりました」
「それはまたどうして?」
「理由はさっきも言いました。これ以上先輩と関わりたくないからです。どうせろくなことにならない」
「何を根拠に」
「カンニングを手伝わされるなんていうのは、そう思うに足る出来事だと思います」
「む」
短く唸る先輩。これで諦めてくれたのならどれほどいいだろう。しかし、そう簡単にいかない人であることは、既に経験済みだ。
今度はどう出てくる?
固唾を飲んで先輩の動向を窺う。
「……永野龍太郎君、どうしても嫌だと言うのかい?」
「ええ、どうしても嫌です」
先輩の声は落ち着いている。むしろ落ち着き過ぎて気持ち悪いほどだ。
嵐の前の静けさ。
そんな言葉が脳裏をよぎった時だった。
急に先輩の頭の位置が低くなった。先輩の背が縮んだわけでも、逆に俺が大きくなったわけでもない。先輩がジャンプするためにしゃがんだのだと頭が理解した時には、先輩の二つの目が俺を見下ろす高さにあった。
「君はこれでも嫌だと言うかい?」
柵の上に腰掛けた先輩が口の端を吊り上げる。
「そんな馬鹿な……」
行動があまりに突飛過ぎる。
「君が嫌だと言うのなら、私はここから飛び降りる」
「じ、冗談でしょう?」
口ではそう言いながらも、先輩が素直に「はい、そうです」なんて言うとは全くこれっぽっちも思えなかった。そして、それは正しかった。
「さて、どうかな」
先輩は柵から手を離して、左右に大きく広げる。
「私はとても満足しているんだ。君のおかげで長年の夢が叶ったのだからね。未練といえば、その恩人に何の礼もできなかったことだが、恩人自らに拒まれたのだからしかたあるまい」
「ぐっ……そうきますか」
「永野龍太郎君、せめて最期にもう一度だけ言わせてくれ。どうも夢を叶えてくれてありがとう。短い間だけでも君といられてよかったよ」
どうしてこんなことになってしまったんだ。
人気が無いところとして屋上を選んだのが間違いだったのか。
それとも、先輩の呼び出しに素直に応じたこと?
泣き落としに負けてカンニングを手伝ってしまったこと?
縁石から落ち掛けた先輩を助けたこと?
そもそもあの時間に帰るはめになったのは、原のしつこい勧誘のせいだ。
科学部になんて、何があろうとも絶対に入ってやるものか。
俺は額を押さえて頭を振りながら、そんな八つ当たりのような決意をした。
「……行きます」
「ん ?もっと大きな声で言ってくれないかな。よく、聞こえるように」
「行きます! 行かせていただきますよ! 先輩の家に! 先輩の手料理を食べに!」
やけくそになって叫ぶ。ただでさえ晴れ晴れとしていた先輩の顔が、よりいっそう輝いた。
「そうか! 来てくれるか! はっはっは――」
朗らかに笑う先輩。
俺はそれに既視感を覚えると共に、諦めた。
「うわわっ!?」
胸を反らしすぎた先輩が、柵の向こうへと倒れていく。俺は手を伸ばして、ぐるぐると宙をかく先輩の腕を掴むと、力いっぱい引いた。
先輩の体が落ちる。
屋上の方へ。
俺を下敷きにして。
少しの間を置いて、耳元で先輩が囁く。
「君はつくづくこうするのが好きみたいだ」
「誰のせいですか」