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欠陥少年  作者: 潮原 汐
2/11

「あー、あー、聞こえますか先輩。聞こえたら左手を上げてください」

 俺の指示で先輩が手を上げる。

「そっちは右手です。まあでも、聞こえてるのはわかりました、下ろしていいです」

 双眼鏡から目を離して青空を仰ぐ。これから行おうとすることを思うと頭が痛くなる。

悪夢のような出会いから一日。俺は校舎の屋上で、じりじりという音が聞こえそうな日差しに焼かれていた。

 相変わらず放課後の学校は騒がしい。活気溢れる喧騒にかえって気が滅入る。

「こんなところで俺は何をしているんだ……」

 言葉通りに、自分がするべきことを忘れたわけではない。むしろよく把握しているからこそ、忘れてしまいたいのだ。

 再び双眼鏡を覗いて先輩を見る。ソワソワしているのがここからでもわかる。しきりにイヤホンを付けた耳に手がいく。

「あんまり耳を気にしないでください。バレますよ」

 先輩の肩が跳ねる。

「そういう反応もです」

 今度は構えすぎてガチガチだ。

「はあ……」

 まあ、いいか。

 そのくらいなら、試験で緊張しているということで誤魔化せなくもない……と思う。

「作戦の最終確認をしましょう。と言っても、大したことではありません。俺が向かいの校舎から双眼鏡でテストを見て、携帯電話を通して答えを言います。先輩はそれを写すだけです。くれぐれもその耳のイヤホンがバレないように注意してください」

 言い終えると同時に先輩の口がパクパクと動いた。

「……返事もいりません。バレるし、そもそもそっちの声は聞こえませんから」

 先が思いやられる。

 しかし、こちらの都合などまるで構わず、教室の戸が開いて世界史の教師が入ってくる。

 俺は長く息を吐き気持ちを引き締める。どうせやるからには何事も完璧に、だ。

 教師が先輩に対して何か喋っている。先輩の困ったような表情で、あの八点の答案に対する説教だと想像できた。

 ひとしきり喋り終えたらしい教師は腕時計を見て、黒板に追試の終了時間を書く。試験時間は本試験同様に一時間。先輩の机に裏返された問題用紙と解答用紙が置かれた。

 教師が再び腕時計を見ながら口を開き、先輩が用紙を表に返す。

 俺はざっと問題を読み取った。教師も採点するのが面倒なのだろう。形式も本試験と同じ、全問選択式だった。

「先輩、始めますよ。問一の答えは――」

 それからは順調に進んだ。心配していたほど先輩が挙動不審になることもなかったし、問題の難易度も低かった。むしろあまりにもすらすらと解きすぎると怪しまれるので、その微妙なペース配分の方が大変なくらいだった。

 試験時間が残り十分を切る。問題も最後のマルバツ問題を三つ残すばかり。一息つきたくなるところだが、まだ早い。

 千里の道も一歩から。

 百里の道も九十九里をもって半ばとする。

 これらの言葉からもわかるように、人は物事の初めと終わりを特別視している。集中力というのは何かに取りかかるときと、終えるときに高まる傾向にある。これは単純で退屈な作業ほどよく当てはまり、テストの監督は、まさにその単純で退屈な作業と言える。

 試験終了間際の今、世界史の教師の集中力は中弛みを超えて、再び高い位置にあると考えられるのだ。

 俺がそのことを注意するよりも、先輩の集中力が切れる方が早かった。先輩の左手が髪に伸びる。

 そして、髪を左耳にかけた。

 露わになるイヤホン。

 高い所から落ちる夢を見たときのように、心臓がきゅっと縮まり、肌が粟立つ。

 先輩にとってそれは無意識な行動だったのだろう。イヤホンが丸見えになっていることに、まるで気がついていない。

 慌てて教師へと双眼鏡を動かす。幸い、教師の視線は下を向いていた。腕時計で時間を確認しているようだ。まだバレてはいない。先輩を驚かさないよう、焦る気持ちを抑えて努めて静かな声を出す。

「先輩、髪を直すフリをして左耳を隠してください」

 しかし指令を出しても、先輩はすぐに行動には移らなかった。何故か左右の手の平を見比べている。

 何をしているんだ。

 そう叫びそうになってしまうが、それよりも早く、俺は試験が始まる前にあったことを思い出した。先輩が、右手の挙手という指示に、間違えて左手を上げたことを。

 まさか――どっちが左か迷っている!?

 開いた口が塞がらない俺の視界の中で、教師が顔を上げる。

 まずい。

 これは間違い無くバレる。俺は手の平で顔を覆う。

 その時だった。


 ピンポンパ、ピンポンパ、ピンポンパンポーン。


 実にヘンテコな音が校内に鳴り響いた。きっと誰かが校内放送をしようとし、放送前に鳴らすチャイムのボタンを手違いで連打してしまったのだろう。

 グラウンドの方から野球部員の笑い声が聞こえる。こんなの、練習中であっても気が引かれて当然だ。

 ということはもちろん。

 俺は期待を込めて双眼鏡を覗き直した。

 やっぱりだ

 教師の視線が、先輩から黒板の上のスピーカーに移っている。

「よし!」

 教師同様に呆けた顔でスピーカーを見上げる先輩に指示を出す。

「先輩がペンを持ってる手が左手です!早く直して!」

 先輩がハットした顔で自分の手を見る。左利きの先輩が、ペンを持っている左手を顔の高さまで上げて頷く。そうして、ようやくイヤホン丸出しの左耳を隠した。



「先輩に対してこういうことを言うのは失礼だと重々承知の上で言わせてもらいます。あなたは本当に大馬鹿だ」

「はっはっは、何を今更」

 試験後に合流し開口一番放った俺の言葉を、先輩は実にあっけらかんとした態度で笑い飛ばしたのだった。



「ふっふー、ふっふふー」

「あらあら、今日はなんだかとっても楽しそうね?」

「わかる?」

「簡単よ、鼻歌なんて歌っちゃって」

「えへへ」

「ご機嫌なのはいいけど、ほっぺにご飯粒ついてるわよ」

「え? 取って取って」

「もう、しかたないわね。はい」

「ありがとう」

「どういたしまして」

「……ねえ、お母さん」

「なに?」

「大好き」

「あら、どうしたの急に」

「なんとなく」

「うふふ、そう? お母さんもあなたのこと、大好きよ」

「わーい!」

「食事中なんだから、あんまり腕を振り回さないの」

「だって、うれしかったから」

「じゃあ、しかたない、かな」

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