十二
原から聞き出した場所は、新幹線と電車を乗り継いで、二時間以上もかかるほど離れたところだった。海沿いの田舎町で、風に潮の匂いが混じっている。そのくせ、メモに書いた住所を目指して歩くと、すぐに山の中に入った。
左右を木々に挟まれた急な坂を登った先が、先輩が引き取られたという親戚の家だった。
玄関の前に立つ。なにやら、家の中から騒々しい声が聞こえてきた。
インターホンを鳴らす前に、険しい表情をした男が出てくる。
「いったい、どこへ……ん? 君は」
男が俺に気づく。
「あの、すみませんがこちらに……」
「君! この辺りでは見ない顔だけど、もしかしてあの子の知り合いかな!?」
「え、あの」
「あの子は、あの子はどこに行ったんだい? まさか馬鹿なこと考えてやしないだろうね?」
「ちょっと待ってください! なんのことですか?」
「何って、あの子がいなくなってしまったんだよ!」
慌てふためく男を落ち着かせ、話を聞かせてもらった。
男は先輩のお母さんの弟に当たるらしく、一人になった先輩を引き取った人だった。
「昨日までも、様子は変だったんだ。話しかけても上の空だし、突然泣き出したかと思えば謝りだしたり……。姉貴が、お母さんが死んだばかりだから、不安定になるのも仕方ないって思ってたんだけど。でも、でも、朝起きたらいなくなってたんだよ! あの子は両親どちらも自殺してるから、もしかしたらって……ああ、こうしちゃいられない、早く探さないと!」
男は立ち上がると、その場をうろうろと回りだした。
いなくなったのは今朝。先輩から俺に電話がかかってきたのも今朝だった。
そういえば、電話からは波の音が聞こえてきた。あの時、先輩はもうこの家にはいなかったのだ。
先輩はまだ、同じところにいてくれているだろうか。波の音で海の近くにいるのはわかるが、海沿いをしらみつぶしに探すというのは、時間がかかりすぎる。男の言うとおり、もしかしたらということだってあるのだ。
考えろ。
先輩はどこにいる。
先輩ならどこに行く。
先輩との一週間。
今はそれだけがヒントだ。
先輩と海には何の繋がりがあった?
そうして、俺の頭に一枚の写真が思い浮かんだ。
あれは先輩の家にオムライスを作りに行ったときのことだ。飾られていた奇妙な家族写真。俺がそれを見た途端、先輩の様子が変わった。次の日にはいつもの先輩に戻っていたからあまり気にしなかったが、今はそれが重要な情報であったと信じるほかない。
「すみませんが、紙と書く物を貸してもらえませんか?」
男に渡されたチラシの裏に、ボールペンであの写真に写っていた風景を写していく。
「な、なんだい君、こんな時に絵なんて……」
「この風景が見える場所、知りませんか?」
「ここ? うーん、……尾高岬、かな。でもそれがなんだっていうんだ」
「俺をここまで連れて行ってください。先輩はここにいるはずです」
「ここにかい? わかったすぐに行こう!」
男についていきながら、俺は俺自身を強く信じた。俺が出した答えなのだから、当然先輩はそこにいる。そうすることで、考えていることが現実に反映されるように。
尾高岬までは、男の車に乗って三十分ほどだった。路肩に車が停まると同時に外に飛び出し、海に向かって駆けた。首を巡らし、先輩を探す。
切り立った崖に、波が激しく打ち付けられて砕ける。海面まで優に二十メートルはありそうだった。
「く……」
脳裏を掠める悪いイメージを振り切り、ひたすら足を動かした。
ほどなくして、潮風に揺れるものを見つけた。
あれは、先輩の髪だ。
崖の先端に座り、遠く海を眺めている。
「先輩!」
声をかけると、先輩の肩が跳ねたのがわかった。ゆっくりとこっちに振り返る。
「ああ、とうとう来てしまった……」
先輩の顔を見て、俺は息を呑んだ。
髪は乱れ、頬がこけている。何より、目は真っ赤に充血して、まるで血を流しているように見えた。
「もう、本当に私というやつは」
「先輩、そんなところにいたら危ないですよ」
とにかく、もっと落ち着ける場所に連れて行こうと近づくが、
「それ以上は近づかないでくれたまえ!」
先輩の鬼気迫る叫びに制止される。
「私がどうするか、言わなくてもわかるだろう?」
「……今までで、一番わかりやすいです」
しかし、このままここでじっとしているわけにもいくまい。そもそもなんのために先輩がこんなところにいたのか、その理由だって、もう訊かなくたってわかる。結果は同じだ。
「君みたく、なんでもわかればいいのだけど……。私にはもう、何をしたらいいのかわからない。何かしようにも、何もすることができない」
「それなら、これまでのように俺が手伝います」
「君では、駄目だよ」
先輩の顔が薄ら笑いを形作る。感情らしいものがまるで読み取れない笑顔だった。
「どうしてですか」
「それは……」
「話してください先輩。俺なら、先輩の求める答えが出せます。これまでだって、そうだったじゃないですか」
「君、それはあまりに傲慢が過ぎるよ。でも……」
先輩がため息を零す。
「そうだね、君なら、もしかすると」
それから先輩は、目を海に戻した。
先輩の言葉の続きを待つ。
波の唸りに、涸れた先輩の声が混じる。
「まずは私の父のことから話そう。というのも、奴こそが全ての元凶なんだ」
俺は拳を握り締めて、どんな話でも受け止めるために身構えた。だが、
「私の父はね、暴力を振るう質の人だった」
そんな俺の覚悟は、先輩のたった一言で揺らいだ。
「幼い私を、ではない。奴は何かにつけてお母さんを殴った。やれ飯がまずい、やれ風呂がぬるい、起きるのが遅い、掃除が行き届いていない、洗濯物のたたみ方が雑。理由も無く殴ることは一度も無かった。いつだって、悪いのはお母さんの方にした」
先輩が海を見ていてくれてよかった。俺はきっと、情けない顔をしているだろうから。
そんな男、誰が頼るものか。
「そうして、お母さんは壊された」
「そんな、壊されたって……」
壊されるなんて言葉、おおよそ人間に使うものではない。
「ふとした拍子に発作を起こすようになったんだ。自分の体を抱きしめて、ごめんなさいごめんなさい私が何もできないのが悪いんです役立たずな屑でごめんなさい。そんなことを一時間も二時間も呟き続けるんだよ。目はどこも見ていないし、私が何を言っても聞こえていなかった」
平坦だった先輩の声は、熱を失い始めていた。
「奴はそんなお母さんを心配するどころか、さらに役に立たなくなったと罵った。そして、こんな役立たずの妻を持ってしまって、自分はひどく不幸だなんて言うようになり、間もなく首を吊った」
「え?」
「わけがわからないだろう? どうしてお前がって私は父を恨んだけど、弱っていたお母さんは違った。そんな理不尽さえ、素直に受け取ってしまったんだ。自分が役立たずなせいでと、自らを責めた。このままではお母さんも――、私はそう思ったけど、その頃の私ではどうすることもできなかった」
何もできなくて当然だ。暴力に自殺、幼い子供に何ができると言うんだ。
「でもね、私が何もできなかったのは、私が無力だったからではない。その逆だよ。私は何でもでき過ぎた」
それから先輩は、一人の少女の名前を呟いた。
俺はその少女の名前を知っている。きっと、まだ知っている者は多くいるだろう。
その少女はかつて、世間を騒がした。
『神童』として。
小学生にして自らの宇宙論をまとめた論文が世界的に評価され、あらゆるスポーツにおいて遙かに年上の者を圧倒し、彼女の描いた絵画は万人を魅了した。
しかしある時期を境に、彼女の名前は世間から消えた。理由は不明。
どうして今、彼女の名前を?
答えは出ていても、信じられなかった。
少女と先輩が同じ名前であっても。
「信じられないだろうけど、間違いなく私だよ」
俺の心を読んだように、先輩が答えた。
「何でもできる私が、役立たずだと思い込むお母さんに何が言えるかな。いや、言うことはできる。でも全ては皮肉にしか聞こえないじゃないか。お母さんはみるみるうちに衰弱していったよ。このままでは、このままでは。そればかりで私の頭はいっぱいだった。そんな時に、私は高熱を出した。疲弊しきったお母さんに看病させるのは申し訳なかったけど、そんな気持ちはすぐに消えたよ」
ふっと、自嘲するような声が聞こえた。
「私の世話をしている間、お母さんは一度も発作を起こさなかったんだ。それで私がするべきことがわかった。私はそれから、『できない人間のふり』を始めた」
背筋がぞくりと冷えた。
何もできない先輩がふりで、神童と呼ばれた先輩が本性であるならば、俺が一緒にいる理由は、どこにある?
「前日までは当たり前にできたことが急にできなくなったのに、お母さんはまるで気づかなかったよ。或いは気づいていながら、都合のいい方を選んだのか。ともかく、私の作戦は成功した。役に立っているという実感が、お母さんの生きる支えになったんだ」
先輩は右手を日にかざした。
「代償は大きかったけどね。私はできることが当たり前過ぎて、できないことをよく理解していなかったんだ。それはね、生き地獄だよ」
先輩は自分の体を抱いて、肩を震わせた。
「私に与えられていた賞賛と羨望は、疑念を通過して、嘲笑と罵倒に変わった。お前は馬鹿だ。お前はのろまだ。お前は不器用だ。お前は、駄目な人間だ。永野龍太郎君、人間にとっての一番の苦しみはなんだと思う?」
突然振られた問いに、俺はしどろもどろになった。
「えっと……痛み、ですか」
「私が思うに、それはきっと『恥』だ」
「恥?」
「そう。生きる意志というのは、自尊心によって支えられている。自分を信頼し、尊び、生きていてもいい存在だと許す。その自尊心を、恥は殺す。そして揺らぐ。生きる意志が」
どきりとした。今にも丸まった小さな先輩の背中が、遥か下方の海に落ちるのではないかと。
「この苦しみはいつまで続くのだろう。もう限界だ。やめてしまおう。でも、そう思ったときには、既に手遅れだった。君の知るテストで赤点を取る私、料理のできない私、体力の無い私。それらは嘘偽り無い私だ。長くできない人間のふりをしていた私は、いつの間にか本当にできない人間になっていたんだよ」
一際強く、波が崖にぶつかった。
「もう、いくら願っても、戻れない。清水のように澄んでいた思考は濁って、自在に動いた体は錆びたブリキ人形のようにぎこちない。何もできない私は、諦めるしかなかった。全部、お母さんのために捨てたのだと、そう自分に言い聞かせた。でも、もう一度だけ、あの頃のように戻りたい」
先輩が振り返る。風で乱れた前髪が目を隠していて、先輩の気持ちが読み取れない。
「そんなときに出会ったのが君だ」
「俺、ですか」
「君がいかに天才か、その噂は聞いていた。だから君と初めて会ったときに、君ならもしかするとって思ったんだ。そして君は実際、私の想像以上だったよ。この私に、再び名誉を与えてくれた。そのせいで、私は欲張ってしまった。一度のつもりが、二度、三度。これはその罰だったのかもしれない」
「首を吊ったお母さんの下には、あの時の答案用紙が落ちていたよ」
あの時の答案用紙。
俺が、カンニングで満点を取らせた答案用紙だ。
先輩のお母さんはそれを見て、何を考えただろう。
それが自殺のきっかけだとするならば、
「君のせいだ」
風が先輩の髪を巻き上げた。血走った目が俺を射抜く。
「君のおかげで名誉を取り戻し、君のせいでお母さんを失った。私は……私は君をどうしたらいい?」
口は空気を求める魚のように動くのに、声はまるで出てこなかった。
直接的でなくとも、俺が先輩のお母さんを殺した。その事実が俺の体を支配していた。
「私には、君が必要だ! 君は私に夢を見せてくれる。でも、君といれば、私は君を憎むだろう! 君は私に現実を見せつけるから!」
先輩の叫びが、俺の中の柔らかな場所に突き立てられ、抉り、じくじくと痛んだ。
「今の私の頭じゃあ、この矛盾は解決できない。どうしたって苦しむとしか思えない。私はもう、苦しむのは嫌だ……」
言葉尻が波の音にかき消される。その中で、先輩の口が動いた。
声が聞こえなくとも、その五文字が何を示すのかは容易に知れた。
さようなら、だ。
先輩が深く背中を丸める。頭が体の陰に隠れ、次の瞬間にはその体も崖の下に消えた。
次の瞬間、俺の体を浮遊感が包んだ。
目が先輩を捉える。先輩の向こうには、激しくうねる波。
俺は崖の淵を蹴って加速した。
それからは全てがゆっくりと流れた。
目を見開き俺を見る先輩が近づく。手を伸ばし、掴み、抱き寄せた。
そして全身を襲う衝撃。
水底へと沈んでいく体を置き去りにして、意識だけがどこかへ飛んでしまいそうだった。一層腕に力を込める。歯を食いしばり、閉じていた目を開く。潮に翻弄される体。上下もわからなかった。
頭は真っ白なようでいて、冷静な指示を出す。
小さく息を吐き出し、泡の上る方向を見極める。泡は足の方へと上った。すぐさま体を反転させて、脚を動かす。
苦しい。
海面はまだか。
水の中にいるはずなのに、火に炙られているように背中が熱い。
海面に近付いているはずなのに、視界は暗くなっていく。
力が抜けていく。
だが、絶対に諦めてやるものか。俺ならできる。
ここでできなくてどうする。
夢中で水を蹴り続けた。
「君……、起きたまえ!」
「……んっ……、は!」
先輩の声に体を起こそうとするが、想定外の重みに再び倒れてしまった。
重みの正体を探るべく胸元を見ると、先輩と目が合った。何度目だっただろう。こうして先輩の下敷きになるのは。重なる肌から、先輩の熱と鼓動が伝わって来る。
生きている。
先輩が生きている。
俺はその実感をもっと感じたくて、先輩の背中に手を回した。
「永野龍太郎君、君は」
「俺は頼りないですか?」
何か言いたげな先輩を制して、俺は問いかける。
「……いや、君は頼れる。でも、君を頼ったら、君を憎む気持ちはどこへ向ければいい」
「俺へ、です」
「だって、それじゃあ!」
「矛盾なんてありません。憎みたいなら憎んでください。俺が受け止めます。何かしたいなら言ってください。俺が手伝います。もっと、俺を信頼してください」
「そんなの……、そんなの……!」
「俺ならできます」
「でも、全部私の我が儘じゃないか。君は、それでいいのかい? 疲れてしまわないかい?死ぬほど、辛くならないかい?」
「これは俺の我が儘です。俺は、先輩に頼って欲しいんですよ」
先輩の真っ赤な目が潤んだ。海水に濡れた頬を、雫が滑る。
「君……、その言葉に、責任を持ちたまえよ」
「ええ」
先輩は俺の胸に顔をうずめて泣いた。
「約束の物です」
俺が差し出した紙をひったくった原は、それを目を開いたり細めたり、電灯に透かしたりしながら入念に確認した。
「間違いなく、これは科学部への入部届! 遂に、遂に永野が手に入った……!」
感極まった様子の原は放っておき、俺は出口の方に向かう。そして、一番出口に近い、自分の担任の前で止まった。
「どうした、永野」
疑問符を顔に浮かべる担任に俺は言った。
「今までお世話になりました。俺、転校します」
「な」
『なんだって!?』
驚きの声は、職員室全体で発せられた。
「永野!」
原がつんのめりながら駆け寄ってくる。
「お前、どういうことだ! 科学部に入るっていう約束は?」
「約束なら果たしてますよ。俺は今、科学部の部員です」
「だが転校って……」
「別におかしくはありませんよ。入部するまでが約束で、その後のことは約束していませんから」
「さ、詐欺だ!」
それから俺の転校の話は、思いの外面倒なことになった。
校長と理事長がわざわざ俺の家に押しかけて来て、両親に土下座してまで考え直すよう頼まれた。
しかし、俺の意志は変わらない。
俺は転校する。
ようやく自分のしたいことができたのだ。
数日後、俺は最後まで恨めしげな目を向ける原に見送られて新幹線に乗った。
海沿いのあの町へ。
先輩に会うために。




