一
放課後、俺は職員室に呼び出された。
理由はわかっている。
「呼び出して悪いな」
物理教師の原が、自分の隣の教師の席を勧めてくる。丁度その席の持ち主は留守らしいので、俺は遠慮なく腰を下ろす。原は椅子を回して俺と正面に向き合い、少し前のめりになった。
来るぞ。
さて、さっそくだが永野、お前は何か部活に入らないのか?
「さて、さっそくだが永野、お前は何か部活に入らないのか?」
やっぱりだ。一字一句間違いなく、予想通り。
「お前も入学して半年。時間を持て余している頃だろ」
原は自分の言葉に納得するように頷いている。
「将来のことを考えても、部活に入ることは絶対にお前にとってプラスになる。まずは騙されたと思って、体験入部だけでもしてみたらどうだ」
原が窓の外に視線を向けた。
「そうだなあ、野球部なんていいんじゃないか? ウチの野球部は、昨年の県大会で準決勝まで進んだ強豪だ。お前が入れば甲子園だって夢じゃない」
「夏の直射日光降り注ぐ中、外を走り回るのは嫌です」
「ぐっ……、なら屋内でやるバスケ部はどうだ? お前は特別背が高いわけじゃないが、同じくらいの背で、世界で活躍している選手もいる」
「試合中、何度も誰かと身体がぶつかるじゃないですか。痛いのは嫌です」
「それなら防具を着ける剣道だ」
「臭いから嫌です」
「ひでえ! ええい、なら文化部、吹奏学部は? 音楽はいいぞ、心が豊かになる」
「この学校の吹奏楽部、生徒の暗黙の了解で女子しか入れないじゃないですか」
「芸術繋がりで美術部」
「あそこは美術部とは名ばかりのオタク部です」
原は人差し指を眉間に当て、むむむと唸る。その動作は非常に演技臭い。それから一層わざとらしく、さも名案を思いついたように手を打った。
「ああ、そうだ。科学部なんてどうだ? 屋内で、しかも活動場所の理科室は空調もある。もちろん誰かとぶつかることは無いし、臭いの出る実験では十分な換気をする。男子だって入部できて、オタク趣味は……。まあいい、とにかく科学部に入るといい。お前ほどの頭脳ならノーベル賞だって夢じゃない」
俺は大きくため息をつき、原の言葉を切る。そのまま立ち上がると、原は口を開いたまま俺を見上げる。
「先生、はじめからそれが言いたかっただけでしょう? 何度勧誘されても、俺は先生のいる科学部にも、他のどの部活にも入りません。興味、ありませんから」
鞄を持って原に背を向ける。
「待て永野。お前のような天才が、何もせず、無為に時間を浪費するのは勿体無いことだと思わないのか?」
俺はそれに対して何も答えず、職員室を後にした。
校舎から出ると、日光に目が眩んだ。
夏の一番暑い時期は過ぎたが、それでもまだまだ快適といえる温度には程遠い。額の汗を拭いながら正門に向かっていると、陸上の列に追い抜かれた。顎や指の先から汗を垂らし、正門から出て行く。学校の外周を走ってくるのだろう。校庭の方からはバットがボールを打つ音が、体育館からは靴で床を擦る音が、校舎からは長く伸びた楽器の音が聞こえてくる。
俺はその全てに背を向け、正門を抜けた。
*
少し早足で街を歩く。
これといって何か用事があるわけではない。暑いから、早く家に帰ってエアコンの効いた部屋で一眠りしたい。それくらいだ。いや、冷えた麦茶に何か軽くつまめる菓子なんかがあればなおいい。
「はあ。図書室でもっと涼しくなるまで待ってる予定だったのに」
原め。
銀縁の眼鏡で頬の膨れた、それでいて夏であろうとも不健康に肌白な物理教師が頭に浮かぶ。
もう何度目だろう。原に科学部へと勧誘されるのは。
入学式が終わってすぐ、いきなり職員室に呼び出されて勧誘されたのが一回目。
二回目はその翌日だった。
他の教師に相談したところ、しばらくは何も無かった。しかし、それも二週間で終わって三回目の勧誘があった。
確か十回目まで数えていたのは覚えている。それ以上は阿呆らしくなって数えてもいない。むしろ、よくもまあ諦めないものだと、逆に感心してしまう。
だからといって、科学部に入ることは絶対にありえないのだが。
俺は息を吐いて気持ちを切り替える。考えても疲れるだけだ。
「さっさと帰ろう」
いつの間にか俯いていた顔を上げる。日差しで暖められた道路には陽炎が立っていた。 遠くの建物の輪郭はうねうねと歪曲し、ガウディさながらの建築様式を呈している。
車は虚構の水溜りを、飛沫を上げることなく走り抜ける。
そして人は、脚を複雑骨折しながらも歩く。
そんな景色を見ていると、一際大きく揺らめいているものがあることに気がついた。
髪の長い女子高生だ。
着ている制服から、俺と同じ学校の生徒だとわかる。彼女は両手を大きく広げ、右へ左へゆらゆらと、やじろべえのごとく揺れている。揺れの原因はその足元だ。彼女は歩道の縁石の上を歩いていた。
「おいおい、子供みたいなことするなよ」
見ていてひどく危なっかしい。同じことを小学生にやらせたって、もっとうまくやるだろう。いったい、どれだけ平衡感覚が無いというのか。
「おっとっと」
歩道側に大きく傾ぎ、彼女の声が聞こえてきた。よく通る、少年のような声だ。
「ふっふっ」
彼女は腕をぐるぐると回してバランスを取る。左足が浮き、今にも縁石の上から落ちそうだ。
終わったな。
俺がそう思ったときだった。彼女の横をトラックが走り抜ける。それによって起こった風は、彼女が倒れそうなのとは反対方向に、彼女の体を引っ張った。
「お」
彼女は片足立ちのまま、何度か微調整をする。そして窮地を何とか持ち応えたのだった。 俺はそこまで見たところで彼女から興味を失う。横を通り過ぎ、家路を急ぐ。
「わ!」
すぐに後ろから彼女の短い悲鳴が聞こえた。なんとなく振り向いた俺の目に映ったのは、車道に倒れそうな彼女と、それに向かってくる車。
頭は真っ白になったが、体は動いた。
振り返り、一歩足を踏み出す。すかさずまっすぐ伸ばされた彼女の手を、力まかせに引いた。彼女の足を支点に回り、二人でもつれるように歩道に倒れる。
思考が冷静さを取り戻していく。体中から送られてくる信号を脳が処理する。
眩しい。
背中が熱い。
鼓動が速い。
呼吸が落ち着かない。
体が重い。
「私は、どうなった?」
耳が彼女の声を捉える。それもかなり近くだ。遅れて日光に眩んだ目が慣れていく。
見えたのは青空だ。どうやら俺は仰向けに倒れているらしい。どうりで背中が熱い。状況を確認するべく、目が動く。次に見えたのが艶やかな黒髪だったことで、俺は現状を理解した。
俺は助けた女性の下敷きになっている。それも、抱き合うような形でだ。
慌てて上に乗った女性の肩を両手で押し上げる。上半身が離れたことでようやく彼女の顔が見えた。 「なにかな?」
目が合う。
俺は勤めて冷静に言った。
「すみませんが、降りてもらえませんか?」
彼女の顔がぼっと赤く染まる。
「む、確かにその方がよさそうだね」
彼女が俺の体から降りる。俺は体を起こし、土を払いながら自分の手や足を確認する。どこも怪我はしていない。さらに思考を巡らす。
問題は?
女性と過度の接触があった。
なぜ問題に?
女性は異性からの過度の接触を嫌う。
どうして問題が起きた?
車に轢かれそうになっていた彼女を助けたから。
こちらに非はあるのか?
接触もやむを得ない事態だった。よって無し。
結論はこうだ。
堂々と胸を張り、速やかにこの場を離れる。
「じゃあ、俺はこれで」
「いや、待ちたまえ」
立ち上がり、颯爽とこの場を去ろうとするが、女性に手を掴まれてしまう。
「何か?」
振り向きながら頭は次の作戦を練り上げる。面倒なことになったら、適当なことをまくし立て、それにより相手が混乱している隙に逃げよう。俺は彼女に掴まれた手に力をこめて立ち上がらせる。道路に女を座らせ、見下ろしながら話をする男なんて、悪目立ちし過ぎだ。
彼女は俺の手を離してお尻を払うと、こほんと咳払いをした。
「助かったよ。ありがとう」
感謝の言葉と共に、深々と頭を下げられる。
「いえ、礼なんていいですよ」
口調こそ個性的だが、冷静で正しい判断のできる人らしい。心配していた面倒なことにはならなそうだ。肩の力が抜ける。
「あんなことしてたら危ないですから、気をつけてくださいね」
「ああ、そうするよ」
「じゃあ、今度こそ俺はこれで」
「本当にありがとう」
手を降る彼女に別れを告げ、俺は再び家に向かって歩き出した。しかし、
「よっ」
直後聞こえてきた声に、足が止まる。
「ははっ、まさかな」
振り返ればそのまさかだった。
女子高生がまた縁石の上で揺れていた。
「ちょっと何してるんですか!」
思わず引き返してしまう。俺の問い掛けに、彼女は首を傾げた。それから、さも当然のことのように答えた。
「何って、縁石渡りだが」
「それは見ればわかります」
「ならどうして訊くんだい?」
彼女の首がさらに大きく傾く。
「俺が訊きたいのは、たった今死にかけたばかりなのに、どうしてまたそんなことしているのかってことです! さっき俺の気をつけてって言葉に、あなた何て答えました?」
彼女は曲げた人差し指と親指を顎に当てて考える。
「……たしか、そうするよ、だったかな」
「それのどこが気をつけてるんですか!」
「ちゃんと転ばないように気をつけているよ」
駄目だこの人。何かが飛んでいる。
「とにかく、危ないですから降りてください」
彼女の手を掴んで引き寄せるが、
「さっきといい、君はなかなか積極的だね」
「なっ……、さっきのは不可抗力です!」
「君が私の手を引き、体を重ねたのは事実だろう? それに今も、こんなに強く私の手を握っているじゃないか」
「これは、そうじゃなく、て」
反射的に手の力が緩んだ。当然、反対方向に手を引いていた彼女は、俺という支えを失い、またもや車道に倒れていく。
「おお」
「うわっ!」
慌てて彼女の手を握り直す。そこからはさっきの繰り返し。
足を軸に回転し、歩道に二人で倒れる。それも、今度は彼女を下にして。
「まさか私も、白昼堂々これほど大胆に攻められるとは思わなかったよ」
彼女の息が耳にかかる。そのあまりの熱さに、俺はバネ仕掛けの玩具みたく飛び退いた。
「そ、そんなつもりは……!」
「ふっ」
「ふっ?」
「ふふっ! あっはっは!」
いよいよ俺は変人と出会ってしまったらしい。彼女は俺がよけても歩道に寝そべったまま、腹を抱えて笑い始めた。
「何、笑っているんですか?」
「ははっ、いや、すまない。ただね、噂で聞くよりずっと人間味があるなあと、そう思ったんだ。永野龍太郎君」
「……俺の名前、どうして?」
彼女は何度も深呼吸を繰り返し、ゆっくりと立ち上がる。ブラウスの土埃を払いながら言う。
「君は自分が有名人だと自覚していないのかい? 我が校で、君の名前を知らない者はいないよ。何と言っても、百年に一人の天才だからね」
それから彼女は、おもむろに俺の手を掴むと、大股で歩き出す。
「来たまえ」
「ど、どこに行くんですか!?」
「大丈夫、警察には行かないよ」
「その言葉だけじゃ、安心するには不十分過ぎます」
「ふむ、では……」
彼女は空いている手で携帯電話をいじる。
「ついて来なければ警察を呼ぶ。痴漢に押し倒されたと言ってね。君は、今よりもっと有名人になりたいかい?」
「そんな、冤罪だ!」
「はっはっは」
俺の言葉は彼女の笑い声にかき消された。
*
「アイスコーヒー二つ」
注文を受けたウェイトレスが、形ばかりの礼をして下がる。
俺は彼女に手を引かれるままに、近くにあった喫茶店に連れて来られていた。
「いったいどういうつもりですか?」
テーブルを挟んで妖しい微笑みを返される。
「君はやっぱり積極的だね」
「ふざけないでください。まさか茶化すためだけに、ここまで連れてきたわけじゃないでしょう?」
「ふふ、まあそう焦らなくてもいいじゃないか。まずはゆっくりと自己紹介くらいさせてくれたまえ」
「必要ありません」
「なんだい、つれないな」
無理やり連れてきておきながらとんだ言い種だ。
彼女は頬杖を突いて息を吐く。切れ長の二つの目が、まっすぐに俺に向いた。
「しかたない、それなら単刀直入に言おう」
一拍の間を置き、彼女は目的を告げる。
「君、私を手伝ってくれ」
俺はそれを聞いて、思わずため息を零していた。原の部活勧誘の次は、女子高生の手伝いか。
「ではこちらも単刀直入に、嫌です」
答えなんて、考えるまでもない。彼女は俺の答えに一度、深く頷いた。
「そうか」
しかし、
「それで私が何を手伝って欲しいかだけど」
彼女は一方的に話を続けようとしていた。
「あの……人の話聞いてますか?」
「ああ、聞いているとも」
「なら、もういいでしょう? 俺は手伝いなんてしません。帰ります」
「待ちたまえ」
俺が出口に向かうため、彼女の横を通ろうとすると、白く細い腕がそれを阻んだ。彼女は再びスカートのポケットから携帯電話を出すと、三つの番号を押す。
「君はさっき、私に何をした? 私はただで体を売るほど安い女ではないよ」
彼女は自分の体を抱き締める。
「今や街ですれ違い、異性と肩がかすっただけでも訴えられる世の中だ。ましてや君は世間に名の知れた天才少年。さて、どうなるだろう?」
「……脅すつもりですか」
「さて、ね。ただ、とりあえず席に戻ったらどうだい? 立ち話は疲れるだろう」
俺は舌打ちと共に席に腰を下ろした。ウェイトレスがコーヒーを持ってくる。それをグラスに刺さっているストローを使わず、一気に半分ほど呷った。口中に苦味が広がる。
「俺に何を手伝わせたいんです?」
「その切り替えの早さも、君の才能の一つなんだろうね、っと……わかったわかった。本題に入るよ。だからそう睨まないでくれたまえ」
無理やり連れて来られた挙句、脅迫まがいのことまでされて、それでもなお笑っていられる人間がいるなら、そいつはとんでもない大馬鹿野郎だ。
「さて、では本題だが、先週何があったか思い出してみてくれ」
「先週?」
記憶を探る。手伝いを要求してきて、この質問。俺個人の情報を訊いてはいないだろう。かといって、俺に彼女が先週何をしていたかなんて知る由もない。であれば、探るべきは俺と彼女の共通点。それは一つしかない。同じ学校の生徒であることだ。学校で先週行われたこと。
「中間テストですか」
彼女が指でテーブルを叩く。
「正解。では、次にこれを見てくれ」
彼女は空いた席に置いた鞄から、一枚の紙を出しテーブルに置いた。一番上にはこう書かれている。
世界史中間考査試験答案用紙。
そして、俺はその紙のある一点において、目を見張らざるをえなかった。
右上に設けられた点数記入欄。そこに収められた数字に。
「……これ、十点満点ですか?」
「はっはっは、そんな馬鹿な。君は十点満点の中間テストを受けたことがあるのかい?」
「馬鹿はあなたの方だ! なんだこの『八点』って!」
思わず敬語を使うのも忘れてしまうほどに絶望的な点数だ。しかもこの答案用紙、マルバツと四択問題だけで記述式の解答は無い。鉛筆を転がしたってもっと良い点数が取れるに違いない。
「うむ、いかにも。私は馬鹿なのだ。学年平均が九十点である簡単なテストでさえ、二桁にも満たない点数を取るほどのな」
彼女は余裕を湛えた笑みを浮かべる。
「そんな自信満々に言うことじゃないだろ……」
驚きと呆れで、さっきまで感じていた怒りがどこかに飛んでいってしまった。
俺は一つ息を吐き、冷静になった頭で考える。彼女は俺に何をさせようとしているのか。
「つまり、酷い点数を取ったせいで追試を受けないといけないから、勉強に付き合ってほしいと、そういうことですか?」
「おお! これだけでそこまでわかるなんて、さすがは天才だ」
「やめてください。こんなの、誰だって予想できます」
「そうかい?」
「そうです」
「ふむ……。まあ、とにかく君の言ったことでほぼ正解だよ」
「ほぼ、ですか」
「ああ」
彼女は答案用紙を半分に折る。
「確かに、私は世界史の追試を受けなければいけない」
開き、今度は上の角二つを折る。
「だから、君に手伝ってもらいたいと思っている」
はじめに付けた折り目でまた半分折る。
「しかし、それは勉強じゃない」
「は?」
用紙を外側に開くように折り、できたのは紙飛行機。彼女はそれを俺に向かって軽く放る。テーブル一つ分の短い飛行の末、俺の胸に当たって落下。制服のシワに引っかかって止まる。紙飛行機から視線を戻した俺に、彼女はイタズラを思い付いた子供のような笑みを向けて言った。
「カンニングだ」
「なっ、カン、ニング……!?」
「そう、カンニング」
胸を張って大きく頷く。
「君に勉強を見てもらう。それも良い案だけど、時間が無いのだよ。試験は明日だからね。君が教えるということに対していかに優秀な才能を持っていたとしても、この私を一日で合格点に導くことは無理だ」
彼女は力強く言い切った。
「でも、カンニングなんて」
「はっはっは、ずるいとも、卑怯だとも、いけないことだとも」
「わかってるならやめましょう」
「いや、やる」
「何故です?」
「それわね、最大のチャンスだからだよ」
再び彼女は鞄に手を入れて、数枚の紙を出す。それらは全て、中間テストの答案だった。一様に酷い点数が付けられている。
「私は馬鹿だ。そんな馬鹿な私には、夢がある。それは、テストで百点を取ることだ!」
目の前に指が突き付けられた。
「入学試験全教科満点だった君には理解できないだろう。しかし百点というのは、カンニングしてでも取りたいと思うほど価値あるものなのだよ」
「いやいや、それほどのものですか?」
「それほどのものだ!」
「仮にそうだとしても、俺はカンニングなんて手伝いませんよ」
「何? おいおい、まさかこれを忘れたのかい?」
彼女が携帯電話を振る。俺はそれに対して、携帯電話を振り返した。
「忘れてませんよ。ただ思い出しただけです」
「ほう、何をだい?」
「優先通報番号を、です」
彼女が首を傾げる。よし、掛かった。
「いいですか、国内で一日に警察へかかってくる電話の数は二万を超えます」
「そんなにかかってくるのかい?」
「ええ。そして、それらは万引きやひったくりといった軽犯罪から、傷害、殺人などの重犯罪まで様々です。イタズラや間違いも少なくなく、警察はそれら一つ一つが、どの程度の問題であるか判断しなければなりません」
「それは、いかにも大変そうな話だね」
「そう、大変なんです。そこで少しでも判断を楽にするために考えられたのが、優先通報番号です」
俺は右手の三本の指を立てて見せる。
「一般に知られているのはイチ、イチ、ゼロの三桁の番号ですが」
次に左手の指も三本立てる。
「優先通報番号はさらにもう三桁の数字を足したものです。この番号からの通報は、その名前の通り通常の通報よりも優先的に処理されます」
「そんなの聞いたことないけど」
「当然です。誰もが知っていたら、こぞって優先通報番号を使って通報するでしょう? その方が早く処理してくれるんだから」
「ふむ」
「ですから、この番号は警察関係者と、正しい判断ができると警察に認められた少数の人間しか知りません。俺はその内の一人というわけです」
携帯に六つの番号を打つ。
「あなたが俺を痴漢で通報するというなら、俺は優先通報番号を使って、あなたに脅迫されていると通報します。もちろん、警察は俺の話を優先して聞いてくれます。つまり、あなたが私を脅すつもりで通報するというなら、それは全くの無駄です」
俺はわかりやすく、「無駄」という言葉を強調して言った。さっきまでの自信が嘘のように彼女の表情から余裕が消える。
なんて騙されやすい人だろう。こんなもの、ただのはったりだというのに。
優先通報番号なんて、もちろん存在しない。
しかし事実なんてどうでもいい。自分の前にいる人間が、もはや脅威でなくなった。大事なのはそこだけだ。
「帰ります」
今度こそ俺は家に帰るべく、席を立ち伝票を掴んだ。彼女の横をすり抜けて、レジへ向かう。騙した詫びに、コーヒーの代金はまとめて支払った。
店を出ると熱気が体を包んだ。ものの数秒で額に汗が滲む。相変わらず陽炎は低いところでのたうち回っていた。こういうところにいると、地球温暖化という言葉が浮かぶ。メディアによる洗脳だ。洗脳を解く方法はただひとつ。自分の部屋のエアコンを最強にして、ベッドに転がること。自然と俺の足は大股になった。
タッタッタッタ――。
足音が耳に届く。
俺のじゃない。別の誰かが走る足音が、背後から。
嫌な予感がした。
そしてそれは、衝撃になって背中に訪れる。
「いたっ」
続いて腹部に締め付けられるような圧迫感。
何より背中に押し付けられた柔らかな二つの存在に、俺の体は硬直した。振り向かずともわかる。俺を追いかけてきた先輩が抱きついているのだ。
「ちょっと、何してるんですか!」
「……助けて」
「え?」
「私を、助けてくれ……永野龍太郎君……」
震える声に、鼻をすする音が混じる。
もしかして、泣いている?
「えっと、先輩?」
「う、うああああん」
俺の言葉がトドメだったように、先輩は大声を上げて泣き出した。たちまち通行人の視線が集まる。中には俺に白い目を向けながら、何やらひそひそと話をしている者もいる。
「わああ、なに泣いてるんですか!?」
「だって君が手伝ってくれないから」
「当たり前でしょう。カンニングなんて卑怯な真似、誰が手伝いますか」
「卑怯でもなんでもいい! 私は百点を取りたいんだ!」
「そこまで百点にこだわらなくても……。赤点を回避できるくらいには、勉強に付き合いますから、とりあえず離してください」
「嫌だ!百点がいい!」
一段と強く抱きしめられる。当然そうなると背中に当たるものも、激しく存在を主張してくる。
顔が熱い。
大声で泣き続ける先輩に、刺すような視線を向けてくる通行人。
カンニングよりもずっと卑怯だ。
「あーもう! わかりました、手伝います。手伝いますから」
「本当か? 本当に手伝ってくれるのか?」
「本当です。だからいい加減に離してください」
「そうか、そうか」
先輩は最後に大きく鼻をすすると、ようやく俺の体に回した腕をほどいてくれた。深呼吸を繰り返し、顔の火照りを冷ます。
「なあ」
「はい?」
「手伝うって、嘘じゃないんだな?」
「嘘じゃありませんよ。そんなことしたら、また俺にしがみついて泣き喚くんでしょう?」
「うむ」
これ以上なくきっぱりとした返事に、俺はため息をつくしかなかった。