-09-
深い黒色の中だ。
最初にわかったのがそれだ。
扉の中に落とされたと思ったら海だった――聞く分には穏やかかもしれないが、冷静に考えればとんでもなく絶望的な状況である。目を開けたら海中で、しかも光が殆どないくらいの深度である――シオンなら、きっとそう呟いたり思ったりするのだろう。だが、それは私の役割ではない。
(二人……居た!)
マイクラフトを目視した瞬間にもう一人の力を感じ、不可視の攻撃で扉の中に叩き込まれて水面に触れる瞬間には確信できた。
いまここにある全てがその二人によって生み出された結果だ。
マイクラフトによって分断。
誰かも分からない世界によって完全に孤立。
しかし、マイクラフトには大して殺意は感じられない。
問題は、マイクラフトと共に居るもう一人の殺意が、この処刑風景を展開しているという事実だ。姿が見えないのに殺意が伝わってくるのは初めてで、それほど稀有な体験であるにも関わらず、それが殺意とわかってしまう時点で違和感を覚える。
「…………まだ居る」
暗黒の海の中であぶくが霧散する。
そいつがまだ視界に入ってこない。
だが、3人目が居るのは確信できる。
(マイクラフトと誰かが2人)
目を閉じて“深呼吸”をする。
シオンは進めと言った。
私も彼女に言い返そうとしたが、彼女の消失が思いの外早かった。
大丈夫、シオンは簡単に消えない。
「どうしてそう思うの?」
3人目の声が背後より響く。
来た。
脳裏に浮かんでいた愚者や勇気や隠者を思い出していたことが、きれいに見透かされていたみたいで不愉快だった。
確実に倒す、それが進むことで、シオンを守るということだと思う。
「……」
「……」
シオンならどうやって相手を引きずり出すだろうか。
「あなたはシオン?」
「……あるまげすと。あなたは?」
それが開戦の一声だった。
-09:Invisible Tears-
思い出したことがある。
暗黒の海で私と絡み合う彼女の姿は、人魚というものの姿、まさしくそれだ。
「私は“深酔”」
海を砕いて深酔を晒そうとしたが、闇が晴れるよりも彼女の霧散が早い。
これで何度目の対象消失だろうか。
“速い”ものならいくらでも対応しようはあるが、完全に消えてしまう相手は組みにくい。実に捉えづらい。
消える限界を知る必要性があるようだ。
取り敢えず光速で海の果てを目指してみるが――
「あなたの涙がよく分からないわ」
深酔は耳元から離れない――これはうざい。
完全に切り離すことは不可能らしい。
角度を変えて彼方から彼方を目指して急翔烈空に軌道を描くも、常に深酔は纏いつく。
これが攻撃なのかさえ分からない。それが不気味で、その不気味がまもなく空恐ろしさに変わる。
「私は常にあなたの死角に」
分からない。
わからない。
識らない。
だから、私はいつも彼女に助けられる。
シオン、彼女ならどうするだろうか。彼女を助けるためにはどうすればいいのか、分からない。
どう聞き出せばいいのかわからない。
「それがあなたの叫び?」
周囲を空間ごと吹き飛ばす。
一瞬だけ覗いた純白の空を飲み込むよう闇が復元する。
そうだ、シオンなら聞く。
深酔の執拗な追尾に失っていた冷静を取り戻す。
聞き、そして出す。
何でもいい、私はシオンじゃないんだ。何でもいいから聞くべきだ。
「……お前には何が見えている?」
この質問は当たりだった。
深酔は、間髪入れずに答えてくれた。
「あなたの始まり、あなたの変質点、あなたの願望像、あなたの“終わり”」
それは嘘だ。
私に終わりは有り得ない。
それはつまり、シオンの終わりとなる。
「思い出して悲しいのよね?」
逆に、私は自分の真核を突かれたことに悲しみを思い出した。
「そう……でも、それが正しい」
シオンは、もっと違うものだった。
それを私が教えていいのかわからないが。
しかし、深酔の仲間がそれをシオンに暴露してしまうのはよくない。
それならいっそのこと、私が告げるべきだろう。
責任を感じているのかもしれない、そんな自分がどこか虚しく悲しい。
「それがあなたの悲劇?」
断じて違うと言ってしまったことが、また胸に確かな痛みを呼び起こした。
本当の悲劇はもっと別だ。
「彼女があなたを選んだこと?」
そうでない。
他の誰でもなく、私を選んだことに彼女の選択は間違いと映るかもしれない。
だが、本当の間違いは“私が見つかってしまった”ことだ。
この宇宙の片隅で記憶に埋もれていたはずの私は、願いを持った彼女と出会うべきでなかった。
私は一人で潰れているべきだったのだ。それが誰にも障ることない在り方だったろうし、記憶という私に相応しい在り方だった。
「彼女の以前を、本当は覚えているのね?」
錐揉みしながら進んでも深酔は常に背後で語るだけだが、私もそれに食いつく。
当然だ、離してたまるものか。
忘れようとしていたこともあり、忘れていたこともあり、全力で拒んでいた本当を、実のところ私は記憶している。
だからこそ、彼女を偽る自分が悲しい。そんな私だから、彼女は選んでくれたのだろうという予想もある。だからこそ、今度は私が彼女を助け導くのだ。
「純生:記憶(record)
それがあなたの本来の名前。
どうして“あるまげすと”に?」
手を伸ばしても届かない、ばたつかせた足も触れはしない、彼女の呼吸さえ感じられない。
だが、
「どうして?」
彼女が与えてくれた始まりの合図である。
私が彼女を救う印に他ならない。
あるいは約束とも言える。
「アイズ?」
遅れるな深酔。
まだ、足りない。
それがお前なのだろう。
在り続けることの悲しさの中で辿り着く、忘却とは違う境地。酔いたいほどに、忘れたいほどに、それでも話してはいけない、離れてはいけない過去の証明。逃れられない深みを増した追憶。
「……常に死角に居たお前なら知っているのでは?」
私とシオンの秘密。
逆転していた天地。
圧縮された二つの世界。
無由の彼女と孤毒の私。
見ているはずだ、それがこの深出の始め。
「……深酔。始まりの名を“死角(Eyes)”。お前は何を見て変わり果て、誰に遣われている?」
振り向いて探す。
声は聞こえているハズだ。
が、見つかったのは氷の塊。
少し理解に窮したが、それが彼女だった。
(“創意”の手か?)
黒海が割れる。
ようやく覗いた白の中に深酔が浮き彫りになって探す手間が省ける。
予想通りであり、憂慮すべき事態だ。
「……なるほど、これがお前の敵意だったのか」
おそらく私は正解を言い当てた。
それは創意だろうか、確証はないが誰かに仕組まれていたのだろう。
こちらから纏わり付こうとした深酔は完全にその存在を、輪郭の意味を氷の中に消失していた。こちらから聞き出そうとすれば自ら存在を断つ、そんな引き金を仕込まれていたらしい。
間違いなく目的は足止めだ。その上で、私とシオンの目的を聞き出すこと。
してやられたと言わざるをえまい。
急ぐ理由ができたことを素直に喜ぶべきか、怒りを覚えるべきか。
(死角――自分の過去そのものを死核としていた。やっぱり、知っていたか)
凍りついた彼女を服の中に吸い込み、出口の見当たらない檻の中を急ぐ。
おそらく黒幕は確信を持っていない。
だから、私たちをすぐに消さないのだ。
「……それとも、この状況で何かを創り出すつもりか?」
不安でも安堵でもない感覚に胸を満たされながら先を進む。
シオンの匂いがする方角へ。
その先にこの迷宮の主もいるだろう。
加えて、未知の一人も。
だが、シオンの願いは邪魔させない。
彼女を救い出す。
だからこそ、疑天へ飛ぶのだ、全てが潰える前に。
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純白が途切れる。
深酔が消えてから間もなくのことだった。
多核世階の通路に私は戻っていた。
「おかえり、そして行ってらっしゃい」
とても早かった。
私が一度呼吸を乱すのとほとんど同時に、マイクラフトの攻撃が私を叩き飛ばした。
その先にはまた扉があり、見えない世界が広がっていた。しかし、
(さっきよりも多核世階に近づいていた!)
その距離感に、多核世界の表情も少しだけ曇っていたように見えた。偶然かもしれない、違うのかもしれない。
だが、近づくことができて、多核世階から余裕を奪うことができるのなら、シオンとの再会も決して遠くないだろうし、不可能じゃないハズだ。
私は進む。
シオンがいま、どのような状況に置かれているのかという不安をひとつ、頭に抱えて。