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嵐の夜に林を抜ける。
川を見つけた時には朝日が登っていた。
恐怖に巣食われている自身を落ち着けんと整える呼吸が、まるで他人のもののよう、無機質に感じる。
熱はどこだ。
子供のように岩陰でうずくまり、視界の外の脅威に震えていた。
アルマゲストに会いたい。
敵を倒して欲しいわけでもない。
ただ会って抱きしめるだけで、この震えは止まってくれる気がした。
なのに、ここは今だに避来心の山。
他人を絶った世界。
繰り返される閉塞の果てに組みあがった結界。誰もが自分だけを望む世界。
「だから追われているの?」
恐ろしい声がした。
聞き覚えがあるのに、背筋が凍りつくほど神経に障る声。
女の声だった。
避来心かと、最初は驚いて川に滑りこんでしまったが、違う。
もっと危ない香りの誰かが岩の上で、仁王と立ち構えていた。
「アレ、あなたを導いたことのある世界でしょ?」
最低なことに、そいつのことは理解できた。
というより、失った記憶の中から溢れてくるのが分かる。
恐ろしく、虚しく、腹立たしい。
私と同じ姿をしたそいつは“同格反転”だ。
「あなたの名前は?」
私は聞く。
彼女の弾んだ声に意識を傾ける。
これは不覚だった。
背中を切り裂かれた私を、微笑みとともに目で追いながら彼女は答えた。
「令久帰環――零求既完――です。思い出せました?」
冷たい朝日が森を焼く。
全身が濡れている私には、水面に落ち着く瞬間を理解することはできない。
いつでも人は温度に溺れる。
知識が、情が、本能が警告をし、文化文明がそれに反旗を翻し、やがて人は荒野に放り出される。
「れい、らいん……」
ついに追いついた避来心が見える。
森はすでに無いのだろう。
困惑に刃を収めているのが聞こえる。
半分沈んだ視界が赤く染まっていく。
傷は広いらしい。
熱くてしかたがない。
私からこぼれ出る赤色が恐怖を塗り重ねていく。
ここに仲間は居るかもしれないが、味方は居ない。
果たして私は何者だ。
その答えはすぐに甦ることがないのに、避来心と令久帰環のことなら理解できる。
困惑の私に、かつての師である避来心は言った。
「シオン、何と話していた? なにを感じている?」
避来心を横目に笑いながら、令久帰環は不動のまま言葉を継ぐ。
「いいえ、あなたは何も望んではいない。
何も期待していない。
前と同じ。そうでしょ、シオン?」
得物を収める避来心と、そんな彼すら見下すように笑顔を絶やさない令久帰環。
「余力はあるか?」
「ないでしょ、シオン?」
異なる流れを求める二人の言葉に私は考える。
私はどうなろうとしているのだろうか。
これが終わりか。
これは始まりなのか。
背骨に感じる熱が、極限の痛みを訴える警告だというなら、胸に感じる高熱はなにか。
「シオン……かえろうとしている、のか?」
「もう何処にも行かせませんけどね」
令久帰環の手が足場である石に触れ、川が消える。
落下。
数メートルの移動の後に、土に触れたのがわかった。
連続する痛みに思考が笑っている。
避来心も表情を崩していた。
仰向けた私の瞳に刃物が切り込む。
令久帰環の所業を私のものと勘違いした避来心が再び構えた。
「レイライン、私じゃない」
同格が反転したもの。
反転こそしているが同格のもの。
同じような、別もの。
“転じ終わって異なるもの”
避来心がそれを受け入れる前に武器が振り抜かれた。
「そうだ、私はソレを望んでいる」
だからここまで来た。
誰かに操られてここにいるのではない。
目指す途中で至っただけ。
「では、質問よ。
あなたはどうしたい?
それを持たないと永遠が待っているわよ」
ここが途中なら、私にも始まりがあった。
それはいま、彼女の言葉によって思い出すことができた。
「私は“ヒトとナレ”という言葉を聞いた」
最初はそれの意味するところが全く分からなかった。
しかし、変化した。
すでにアルマゲストに出会ったことで、ある推測が生まれている。
「個別の私たちは、局限化された世界の中で選ばれようとしている」
令久帰環は首を傾げ、続きを求めてきた。
避来心は慎重に言葉を聞き分けている。
尋常じゃない速度で修復を始めた体に気付く。
やはり、私は只の生命体とは言えないようだ。
少なくとも、私が記憶を失っている間に過ごしていた世界では、ただの人間にこれだけの治癒能力を観測したことはない。
「誰もが“人に成れ”という本能に到達しようとしている」
その道の途中で、我々は何かに気付いていくのだ。
避来心だって、元々そうだったのかもしれない。
我々は違う結末を見た。
そこから新たな、次なる結末へ重ねてきたものを足場にしていく過程が、必ずしも同一でないというだけ。
これを何と言えばいいのか、今はまだ分からない。
だが、そうすることには意味があるのだと確信できる。
「その為に、避来心を追い抜き、巡星と共にここまで来た、というの?」
と、令久帰環はため息をこぼす。
「えぇ、その通り」
避来心は眉間にしわを寄せ、周囲の音を殆ど断ち切る。
世界を割ろうとしているのが分かった。
ここで唯一の異質が彼だ。
恩を実感できない自分に驚きつつ、それ以上に実感しずらい決着の到来に、続く言葉を失った。
「……行け、シオン」
避来心は再び孤立を抜いた。
ざわめく森の声に、令久帰環は拍手で怒りを示し、避来心の排除を考え始めている。
怒れる右手にざわめく黒き球体は、ここにあるすべてを飲み込み、まとめて潰し消してしまう、殺意そのものだった。
しかし、
「行かせていただきます」
その一言で私の戦いは始まった。
最初に静寂が消えた。
強烈な摩擦音と共に始まる令久帰環の吸奪は、空気を震撼させ、水を蒸発させ、空を暗黒に染め、森や岩を砕いて雷を生み、避来心の世界を粉々に砕いていく。
だからこそ、彼は得物を抜いたのだ。
多くのモノを絶つ力、否定力。
思い出した。
避来心の、彼の源泉は「恐怖」だ。
「俺の世界を受け取れ。君が君自身を思い出したなら持てる」
私にそれを完全に理解することはできない。
だが、私は恐怖を知る。彼の世界の神髄を受ける。
刀身の冷たさこそ核だと知りつつ、体の真ん中を貫いた恐怖に、私の世界は明確に令久帰環への拒絶を叫んだ。
「ちょうどいいじゃない。
私はお前が許せない、お前も私を受け入れない。
それが私たちの大切なもの。どれだけ話し合おうと、優しく包み合おうと、私たちの関係は丸を知らない」
雷が爆ぜて避来心の居た場所を曇らせる。
恐怖はあった。
飲み込まれまいと地面に指を立てて這う私に、避来心はその全てを託した。
何かを恐れる己を中心に組み立てて、成立を果たした世界の姿を。
嵐よりも酷い令久帰環の黒い暴力に屈しない私を、まるで励ますかのようにそれは現れた。
(刀……!)
それを理解するのは簡単だった。
自分に向けられた瞬間に脅威へと変わり、恐怖を連想させるに十分な、武器。
しかし、避来心を手にとると、恐怖は勇気へと変わった。
私には過ぎたもののような気もするが、冷静よりも令久帰環の事態が深刻だったから、使わざるを得ないのだ。
今ではすべてが暗黒に飲み込まれていた。
光さえ例外ない。
だが、私には令久帰環がしっかりと見えていた。
その輝く輪郭に向かい、渦巻く暗黒は収束して、より一層に視界を煙らせているはずなのに。
山も消え、川も消え、避来心も人の形を失って、このまま時に任せれば私も消えていなくなる予感に苛まれ始めている。
「ここが決着点よ! 消えるのはあなたか未来か!」
濃密な圧縮が生み出す雷を切る。
閃光が令久帰環という世界を考えさせる。
こいつが何ものなのか、私の本能がひとつの事実だけは理解して認めてくれた。
条件である。
私が、避来心に追い詰められたから、こいつは現れたのだ。それがこいつが現れた理由だ。
(前に!)
回転する暗黒宇宙の流れに飛び乗り、刀の柄を両手で強く握り締める。
私は、選択を迫られていた。
ただそれだけだ。
存在を諦めようとしていた。可能性を捨てようとしていた。
それでも、逃げ出した。
矛盾がそいつを呼んだのかもしれないが、私には選択がこいつを現したように思えてならない。
「そう、私は令久帰環! 終わりと始まりを分かつ同格世界!」
輪郭は揺るがない。
殺意の繰り返す正面衝突が物理の時を迎える。
雷は炎に、闇は観衆に、渦流は罵声に変わって、紫電が相双眸を輝かせて、もはや緑の世界をすべて飲み込んだ選択を前に後退はない。
暗黒の中心に在る令久帰環は、避来心にも劣らぬ恐怖を叩き付ける存在だった。
手にした恐怖がなければ、彼女の選択に屈していただろう自分を用意に思い描ける。
「お前は行けない」
「勝手に決めるな」
頭に血が上っていくのを感じた。
なぜ、私の選択を他人が好き勝手に握っているのだ。
私の選択は、私の未来は、誰のものでもいいはずがない、それは私が責任を持つべき決断点だ。
暗闇が固くなり、渦流は加速する。
絞り消すつもりだろう。
私の世界を摩擦する気だろう。
たしかに、私一人なら消されていたかもしれないが、私には分かりやすい過去が手中にある。
この選択は、私一人の世界が織り成すものではない。
渦巻く引力の果てに、令久帰環は回り来る私に両手を突き出す。
対して私は思いのままに刀を握り締め、肩に刀身を乗せて振りかぶった。
擦り切れるよりも早く、私が令久帰環に到達する。
二つの世界の激突。
それは、激しくも静かに、令久帰環の破砕という形で幕を閉じかけた。
両手を切り裂く恐怖の感触は、避来心の世界の川の中に似て冷たく、流動的な柔らかさを持っていた。
ふと、その感触が心の隅に小さな疑問を呼び起こした。
アルマゲストは、いつもこんな感触を味わっているのだろうか。
怒りは変色する。
恐怖に歪んで笑う令久帰環の終わりが見える。
それなのに、私は言い知れぬ不安に揺らごうとしていた。
「そう、私は常にその先に居る」
抵抗する彼女の世界が告げる。
掌に侵食した恐怖が、まっすぐに手首へ、腕へと進む。
選択を迫る時こそ、彼女は蹂躙を始めるのだと。
肘から破壊の星を流しつつ、胸を突き破り、核を貫いて背中の表層を難なく突き破って、ようやく令久帰環という世界を割る。
「お前がそれを失った時、それを強制させてやる……」
暗黒が変化する。
反転した白闇の中で、声のみになってしまった同格反転と、右手の避来心の感触だけがここに世界があったという全てを物語るのだが、長く流れ続けていけばそれを思い出すことは稀になっていくだろう。
それでも私は、進まなければいけないと思う。
前進を始めたのは他の誰でもない私自身で、それは意思だ。
「意思が、私にはある。アルマゲストを助けなきゃ」
再びこの閉じられた世界を終わらせるために出口を探す。
最果てを感じさせない無限の白を、恐怖を握り締めて進む。
これが私の決定だ。
令久帰環の残した痛みも、手にした恐怖も、ここで終わることに比べれば全てありがたく、嬉しい。
私も戦えるという証明は終わった。
あとはアルマゲストと一緒にこの世界を出て行くだけだ。
→NEXT:同格反転【重想非数】
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扉を抜けると、多核世階の回廊に戻った。
ここがまだ一番下から二階目だということは理解できた。
やることは一つ。
角を右に曲がって、坂の上に陣取る多核世階を目視。いますぐに倒す。
「おかえり、シグナル!」
恐怖を肩に、決意で前進する。
あと一段。
回廊の左右には目も触れない。
「しかし、また行ってらっしゃい!」
最後の一飛びの最中だった。
体の自由に違和感を覚えたと思うと、またあの目に見えない攻撃が背後と横から襲ってきた。
決定打は不可能。
それを理解すると同時に、全力の抵抗を振る。
辛うじて多核世階の横を過ぎることが叶う、そんな軌道を飛びながら、私の一手は彼の首元をさらう。
「もし、また戻ってこれたら褒めてやろう!」
坂を上りきった、最上階の左の回廊。
その先の世階。
悔しさはなかった。
もう一度、この世界を切り抜けて多核世階へ仕掛ける。
不安は、それまでにアルマゲストがやられないかということだ。
アルマゲストの強さは知っているが、ここにはとんでもない世界や、未知の敵も控えていた。
(無事で会いたい、会うんだ、アルマゲストに!)