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空気が読めると勘違いしているマサコ

作者: こまめ
掲載日:2026/06/05

土曜日の午後。


雨がベランダの手すりを細かく叩いていて、

リビングには洗濯物の柔軟剤の匂いが少し残っていた。


俺は自分の部屋の机を片づけながら、ちらっと時計を見た。


二時五分前。


もうすぐ健太が来る。


健太はクラスで一番落ち着いているやつだ。騒がしい男子ばかりの教室で、ひとりだけ涼しい顔して別の季節を生きているみたいな顔をしている。しかもテスト前になると、先生よりずっとわかりやすく数学を教えてくれる。

もうすぐ中間テストがやってくる。

今日はその健太に、俺が数学を教えてもらう日だ。


つまり、俺の命運がかかっている。


「母さん、今日、健太来るから」


リビングに向かって声をかけると、キッチンから母さんが顔を出した。


俺の母 マサコ


「けんたくん?」


「そう。勉強するだけだから、あんまり話しかけないでね」


「わかってるわよ。お母さん、空気読むタイプだから」


その言葉を聞いた瞬間、俺は少しだけ不安になった。


マサコは、空気は読む。


ただし、だいたい逆さまに読む。



「本当に普通でいいから。お茶出すくらいで」


「はいはい。お茶ね。任せて」


マサコは笑顔でうなずいた。


その笑顔が、妙に頼もしい。


そして頼もしいときほどマサコは危ない。


ピンポーン。


「あ、来た」


俺が玄関に行くと、健太が濡れた傘をたたんで立っていた。


「悪い、ちょっと早かった?」


「いや、全然。入って」


健太は靴をそろえて上がった。


さすが健太。


靴の置き方まで成績が良さそうだ。


「こんにちは。おじゃまします」


健太がリビングに向かって挨拶すると、マサコが急に背筋を伸ばした。


「いらっしゃい、健太くん。いつも息子がお世話になっております」


「いえ、こちらこそ」


ここまでは完璧だった。


マサコは続けて言った。


「今日は家庭教師として?」


「友達としてです」


健太が即答した。


俺は心の中で拍手した。


そう、それ大事。


時給が発生する空気になる前に止めるのは大事。


「まあまあ、とりあえず部屋行こ」


俺が健太を連れて自分の部屋に入ろうとしたとき、

マサコが小声で俺を呼んだ。


「蓮、ちょっと」


「何?」


「健太くんって、甘いもの好き?」


「知らないけど、普通に好きなんじゃない?」


「じゃあ、お茶菓子出すね」


「普通のでね」


「わかってるって」


マサコは親指を立てウインクした。


やめてくれ。


その親指は、たぶん事故の合図だ。


俺たちは部屋に入って、教科書とノートを広げた。


健太がシャーペンを持つ。


「で、どこがわからない?」


「ここ。二次関数」


「ここか。まずグラフの形をイメージして……」


健太が説明を始めた。


わかりやすい。


めちゃくちゃわかりやすい。


先生、すみません。


俺、先生より健太の授業料払いたいです。


そのとき、ドアがコンコンと鳴った。


「はい」


俺が返事をすると、マサコがトレーを持って入ってきた。


「お茶です」


トレーには麦茶と、個包装のクッキー。


普通だ。


信じられない。


マサコが普通を持ってきた。


俺は思わず感動した。

やるじゃねーかマサコ。


「ありがとう」


「健太くん、遠慮しないでね」


「ありがとうございます」


健太がクッキーを一つ取った。


マサコはにこにこしながら立っている。


……ん?


まだいる。


「母さん?」


「何?」


「勉強するから」


「あ、そうだった」


マサコは一歩下がった。


そして、なぜか健太に向かって言った。


「うちの蓮、よろしくお願いします」


「はい」


「厳しくして大丈夫です」


「いや、そんな」


「泣かせてもいいです」


「母さん?」


「泣いたらティッシュあります」


「母さん、出てって」


マサコは、あらと言って部屋を出ていった。


危なかった。


健太は笑いをこらえながら、ノートを指さした。


「いいお母さんだな」


「今のどこ見てそう思った?」


「なんか、明るい」


「明るさの方向がたまにまちがってるんだよ」


健太は小さく笑った。


それからしばらくは、ちゃんと勉強が進んだ。


俺は奇跡的に、二次関数の頂点の出し方を理解しかけていた。


人は成長する。


俺だってやればできる。


そう思った、その瞬間。


またドアがコンコンと鳴った。


嫌な予感が、雨音より大きく聞こえた。


「……はい」


ドアが少しだけ開いて、またマサコが顔を出した。


「ごめんね。ちょっと聞いていい?」


「何?」


「健太くん、コーヒー飲める?」


健太が答える。


「あ、飲めます」


「ブラック?」


「はい、大丈夫です」


マサコは目を丸くした。


「大人ねえ」


「いえ、そんな」


「蓮なんてまだカフェオレで背伸びしてるのに」


「母さん」


やめて。


俺の個人情報バラさないで。


「で、何?」


俺が聞くと、マサコはスマホを見せてきた。


「これ、どういう意味?」


画面には、マサコとママ友のLINEが映っていた。


そこにはこう書いてあった。


『今日の夕飯、テキトーでいいよね』


母さんは真剣な顔で言った。


「テキトーって、どのくらいテキトー?」


「知らないよ」


「おにぎりだけはテキトー?」


「たぶん、そういう意味じゃない」


健太が控えめに言った。


「あの……気楽なものでいい、みたいな感じじゃないですか」


マサコは深くうなずいた。


「なるほど。気楽なもの」


そして俺を見た。


「じゃあ、夕飯は焼きそばでいい?」


「いいよ」


「具、何がいい?」


「普通で」


マサコは少し考えた。


「普通って、キャベツ?」


「キャベツ、豚肉、にんじんとか」


「わかった。健太くんは?」


「えっ、僕もですか?」


「食べていくでしょ?」


健太が俺を見た。


俺は首を横に振った。


やめてくれ。


友達を巻き込まないでくれ。


健太は少し笑って言った。


「あ、今日は大丈夫です」


「そう? 残念。健太くんのぶん、心の中で作っておくね」


「心の中で?」


「うん。具だくさんにしておく」


健太はついに吹き出した。


俺も笑ってしまった。


マサコは何が面白いのかわからない顔で、

部屋を出ていった。


扉が閉まる。


沈黙。


そして健太が言った。


「心の中の焼きそば、ちょっと食べたい」



それから一時間。


雨は弱くなり、窓の外の空が少し明るくなった。


健太のおかげで、俺は問題集を三ページも進めた。


すごい。


俺としては国民栄誉賞レベルの進歩だ。


「じゃあ、最後にこの問題やってみて」


健太が言った。


俺は真剣にペンを走らせた。


途中で少し詰まったけど、なんとか答えまでたどり着く。


「できた」


健太がノートを見た。


「合ってる」


「マジで?」


「うん」


その瞬間、俺の中でファンファーレが鳴った。


人類はついに二次関数を倒した。


俺が小さくガッツポーズをしたとき、またドアが開いた。


マサコだ。


しかも、今度はなぜか小さな拍手をしている。


「おめでとう」


「聞いてたの?」


「聞こえたの」


「どこから?」


「できたのところから」


一番気持ちいいところだけ持っていかれた。


母さんは俺のノートをのぞき込んだ。


「すごいじゃない。蓮、数学できる子みたい」


「みたいって言うな」


「健太くん、ありがとう。おかげでこの子、人間に戻れました」


「俺は何だったの?」


「春休み明けくらいから、ちょっと消しゴム寄りだった」


「分類が雑すぎる」


健太は肩を震わせていた。


マサコはさらに続けた。


「健太くん、今度から週一で来てくれる?」


「え?」


「お礼は出します」


「母さん」


「麦茶とクッキー」


「安い!」


「あと、心の中の焼きそば」


健太は机に突っ伏した。


「だめだ、無理……」


笑いすぎて声が出ていない。


俺はため息をついた。


でも、正直ちょっと楽しかった。


マサコは天然だ。


言葉の選び方も、タイミングも、たまにおかしい。


だけど不思議と、部屋の空気を暗くはしない。


むしろ雨の日のじめっとした感じを、勝手に日なたへ持っていく。向日葵のような母さんだ。


迷惑ではある。


かなり迷惑ではある。


でも、俺の大好きな母さんだ。


健太が帰る時間になって、玄関まで送った。


「今日はありがとな」


「いや、こっちこそ面白かった」


「勉強しに来たんだよな?」


「うん。でも、心の中の焼きそばが一番記憶に残ってる」


「忘れてくれ」


そこへマサコが紙袋を持ってやってきた。


「健太くん、これ持っていって」


「え、いいんですか?」


「クッキーの残り。あと、焼きそばの材料を少し」


「材料?」


何故だかとても不安になった。


紙袋の中をのぞいた健太が固まった。


俺も見た。


中には、キャベツが半玉入っていた。


「母さん、なぜキャベツを渡した」


「心の中だけじゃ足りないかなと思って」


「現実に出してくるなよ」


健太はキャベツを抱えて、笑いながら靴を履いた。


「ありがとうございます。家で焼きそばにします」


「うん。心を込めてね」


「はい」


健太が帰ったあと、俺はマサコを見た。


「母さん」


「何?」


「今日はありがと」


母さんは嬉しそうに笑った。


「よかった。お母さん、空気読めるから心配いらなかったでしょ」


俺は何も言わなかった。


自信持って言えるが読めてはいない。


でも、読めていないまま、なぜか正解に近いところへ着地する。


それがマサコなのだ。


その日の夜。


夕飯は焼きそばだった。


具はキャベツと豚肉。


ちゃんと普通だった。


俺は安心して一口食べた。


マサコが言った。


「どう?」


「うまい」


「よかった。健太くんのぶんも、心の中で大盛りにしておいたから」


俺は箸を止めた。


やっぱりマサコは、今日も天然だ。


でもまあ。


マサコはそれぐらいがちょうどいいのだ。

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