思い出質屋
路地裏の突き当たりに、その店はひっそりと佇んでいた。
看板には『思い出質店』とだけ書かれている。
男は震える手で、古びたドアノブを回した。
カランコロン、と乾いたベルの音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、年齢不詳の店主が穏やかな声で迎えた。
男は帽子を目深に被り直すと、掠れた声で言った。
「……質に入れたいものがある」
「はい、どのような思い出でございましょう?」
「妻との……死んだ妻との、全ての記憶だ」
男は独り身だった。
妻を病気で亡くしてから、生きる気力を失い、借金だけが膨らんだ。
明日の食費にも事欠く有様で、ついに一番大切なものに手を付ける決心をしたのだ。
店主は男の頭に奇妙なヘッドギアのような装置を被せると、少しの間目を閉じた。
「……素晴らしい」
店主が感嘆の息を漏らす。
「これほど鮮明で、純粋な愛に満ちた記憶は滅多にありません。
感情の解像度が非常に高い。査定額は……百万円といったところでしょうか」
「ひゃ、百万円!?」
男は目を見開いた。形のない思い出に、そんな大金が。
「ええ。今の世の中、
リアルで美しい『他人の体験』は娯楽として需要がありますから」
男は契約書にサインをした。
装置が微かに唸り、男の頭から光の粒のようなものが吸い出されていく。
施術が終わると、店主は厚みのある封筒を差し出した。
男は金を手に入れた。
だが同時に、心の中にぽっかりと巨大な穴が開いたような感覚に襲われた。
店を出て、男は豪遊しようとした。
だが、出来ない。
旨い酒を飲んでも、高級な肉を食べても、味気ない。
なぜなら、それらを「美味しいね」と言い合う相手、
その面影すら思い出せないからだ。
妻という存在がいた事実は知っている。
だが、彼女がどんな笑顔で笑い、どんな声で自分を呼んだのか、
その核となる温もりが消え失せていた。
(俺は、なんてことを……)
金はある。しかし、今の自分は空っぽだ。
男は翌日、再び質屋のドアを叩いた。
「買い戻したい!」
男はカウンターに金を叩きつけた。
しかし、店主は困ったように眉を下げた。
「お客様。一度市場に流れたデータを回収するには、コストがかかります。
買い戻し額は三倍の三百万円になります」
「そんな……!」
そんな金、あるわけがない。
だが、男は諦めなかった。
「必ず……必ず作って来る!」
それからの男の生活は、修羅のようだった。
工事現場で汗水垂らして働き、夜は警備員として立った。
プライドを捨て、空き缶拾いもした。
過労で倒れそうになった時、近所の食堂の女将が余り物を分けてくれた。
工事現場の仲間が、不器用な励ましの言葉をくれた。
かつて孤独だった男の周りに、いつしか人の輪が出来ていた。
必死に生きる男の姿は、周囲の人々の心を動かしたのだ。
三年が経った。
男の体は随分と痩せたが、
その目は以前のような濁った色ではなく、強い光を宿していた。
男は分厚い札束を店主の前に置いた。
「三百万円だ。数えてくれ」
店主は数えもせず、微笑んで金を受け取った。
「確かに。……本当に、よく頑張られましたね」
店主は再びあの装置を取り出し、
小瓶に詰められた光の粒――妻との記憶のデータ――を男の頭へと戻していく。
その瞬間。
男の脳裏に、鮮やかな色彩が蘇った。
はにかむような妻の笑顔。紅葉した並木道。
繋いだ手の温もり。初めて交わした口づけの甘さ。
それらが奔流となって流れ込み、男の目から涙が溢れ出した。
「ああ……洋子……」
男は泣き崩れた。
空白だった穴が埋まっただけではない。
この三年間の苦労、人々との触れ合い、
それら全てが、妻との思い出をより一層輝かせていた。
店主が優しく語りかける。
「皆さん、そうするんですよ。一度手放した思い出を取り戻すために必死に働く。
その苦しくも『必死に生きた時間』こそが、
掛け替えのない新しい財産になるんですけどね。
それが分かったら、お金に困っても、もうここには来ないことです。」
男は涙を拭い、深く頷いた。
この満ち足りた気持ちがあれば、もうこれからの人生、何があっても生きていける。
男は店主に深く一礼すると、光の射す出口へと向かって歩き出した。
その背中は、希望に満ち溢れていた――。
プツン。
唐突に、視界が暗転した。
美しいエンディングテーマも流れず、
無機質な電子音と共に『COMPLETE』の文字が空中に浮かぶ。
「……ふぅ」
薄暗い部屋の万年床の上で、老人がVRヘッドセットを外した。
散らかった部屋にはカップ酒の空き瓶やコンビニのゴミが転がっている。
老人は大きく伸びをして、凝った首を鳴らした。
視線の先にあるモニターには、
『Play Time: 04:32:15』という数字が並んでいる。
「評価が高いから買ってみたが」
老人はあくびを噛み殺しながら、コントローラーを放り投げた。
「まあ、悪くない話だったな。まるで一人の人間の人生を丸ごと体験したようだ」
老人が三年かけて築き上げた血の滲むような努力も、魂の救済も、
彼にとってはただの四時間の暇つぶし映像に過ぎない。
ふと、枕元に置いてあるフォトフレームが目に入った。
そこには、上品そうな老婦人が優しく微笑んでいる写真が飾られている。
老人は眉を顰め、その写真を手に取った。
「……誰だ、この婆さんは」
老人は首を傾げる。
画面の中で見た「最愛の妻」と、
手の中にある写真の人物が同一人物であることすら、もう分からない。
ただ、見知らぬ他人の写真が部屋にあることが、
無性に不気味で薄ら寒く感じられた。
「気持ち悪いな」
老人は呟くと、何の躊躇もなく写真を額縁から引き抜き、
足元のゴミ箱へと放り込んだ。
くしゃり、と乾いた音がして、
笑顔の老婦人がゴミ袋の闇へと消えるのを、その濁った目が追っていた。




