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小説

壁の向こうのシチュー

作者: ちりあくた

 窓のサッシに溜まった埃を、指の腹でなぞる。脂を含んだ黒い塊が指紋に食い込む。それをティッシュで拭き取ることもせず、俺はスマートフォンの画面をタップした。期間限定のイベント、確率操作を疑いたくなるようなガチャの演出。派手なエフェクトが網膜を焼くが、心拍数は一向に上がらない。


「仕方ない」


 それが口癖だった。給料が上がらないのも、三畳一間、キッチン付きのボロアパートから抜け出せないのも、三十を過ぎて友人の結婚報告をミュートするようになったのも。全ては社会の構造か、あるいは運の総量の問題であって、俺の責任ではない。そう定義することで、俺はようやく呼吸を保っていた。


 そんな最中のことだった。

 湿り気を帯びた六月の午後、ある母娘が隣の102号室に越してきたのだ。


「お騒がせしてすみません。今日からお世話になります」


 ドアを叩く音に応じると、女が立っていた。俺と同年代、あるいは少し下か。使い古されたTシャツの襟ぐりが伸びている。その背後には、中学生くらいに見える少女が、重そうな段ボールを抱えて立っていた。母親の若さに比して、娘の背丈は不自然なほど高い。


「いえ、こちらこそ」


 俺は最大限に「善良な隣人」を演じた。薄笑いを浮かべ、丁寧に頭を下げる。だが視線は、彼女たちの持ち物を冷徹にスキャンしていた。ガムテープが剥がれかけた安物の衣装ケース、色褪せたカーテン。父親の影はない。どうせ男に逃げられたか、計画性のない若さの果てだろう。夜になればろくでもない男が出入りし、安っぽい笑い声が壁を抜けてくるに違いない。そう決めつけることで、自分の足元にある底なし沼を、彼女たちのそれよりも浅いのだと決めていた。


 しかし現実は、静かに俺を裏切った。


 壁は、紙のように薄かった。隣の部屋でスリッパが床を叩く音、水道の蛇口をひねる音、炊飯器が炊き上がりを告げる電子音。それら全てが、俺の部屋の一部であるかのように、うるさく響く。何より耐え難かったのは、彼女たちの会話だった。


「ねえ、今日学校でね」

「あら、そうなの。よかったじゃない」


 そんな中身のない、それでいて、潤いに満ちた言葉の応酬。ある朝、俺が半乾きのシャツを羽織り、絶望的な重さの靴を履くときもだ。壁の向こうからは「行ってきます」という弾んだ声が聞こえてくる。それは俺が、とうの昔にゴミ箱に捨てたつもりの、瑞々しい生命の律動だった。


 その音が響くたび、唯一の聖域として守ってきた「仕方ない」という城壁に、細かい亀裂が走った。俺が画面の中の数字を増やすことに腐心している間、彼女たちは現実に足をつけている。安い食材を切り、笑い、明日を疑わずに眠りについている。その事実はまるで鏡のように、俺の輪郭を冷酷に照らし出した。 俺の部屋に充満しているのは、防腐剤の匂いと、死んだ時間だけだった。


 ある夜、壁の向こうから、複数の足音と笑い声が聞こえてきた。娘の友人だろうか。


 ……俺は立ち上がった。心臓が嫌な鳴り方をしている。これは正当な権利だ。生活環境を守るための、合理的で、社会的な行動だ。


 外へ出ると、隣のドアを必要以上に強く叩いた。


「……すみません、少し静かにしてもらえませんか。響くんです」


 ドアが開くと、母親が申し訳なさそうに身を縮めた。背後で娘たちが声を潜めるのがわかった。


「申し訳ありません、気をつけます」


 彼女の瞳には、明確な謝罪と、かすかな怯えがあった。俺はその怯えを見て、得も言われぬ万能感に浸った。そうだ。俺が正しい。俺の方が、この世界のルールを理解している。


 翌日から、隣は死んだように静かになった。 足音は忍び足になり、笑い声は消えた。朝の「行ってきます」さえ、囁くような声に変わった。 俺は勝ったのだ。これで元通りの、静かで合理的な日常が戻ってくるはずだった。


 だが、音が消えたことで、別の「毒」に俺は気づいてしまった。


 仕事帰りの午後八時。コンビニの袋を提げて階段を上る。 廊下に「それ」は漂っていた。 部屋に入り、鍵をかけ、チェーンをかける。それでも、「それ」は容易く侵入してきた。


 匂いだった。


 複数の野菜が溶け合い、乳製品のまろやかさが熱を帯びて膨らむ、あの独特の芳香。 それは単なるシチューの匂いではなかった。誰かが誰かのために火を使い、時間をかけ、温かい皿を囲むという、「生活」そのものの結晶だった。


 俺は机の上に、半額シールの貼られたカツ丼のパックを置いた。プラスチックの蓋に付着した水滴が、蛍光灯の光を反射している。割り箸を割り、冷えて固まった米を口に運ぶ。舌の上で、人工的な調味料の味が広がる。 噛めば噛むほど、それは砂を食んでいるような感覚に近かった。


 隣からは、カチャカチャという小気味いいスプーンの音が聞こえてくる。


「熱いから気をつけて」


 そんな、たった一言の、湿り気を帯びた声。


 胃のあたりが、急激に冷えていくのを感じた。 壁一枚隔てた向こう側には、白い湯気が立ち上る鍋があり、色鮮やかな野菜が踊っている。そこには血が通い、明日へと続く継続性がある。 一方、俺が今咀嚼しているのは、消費されるためだけに作られ、捨てられるのを待っていた残骸だ。


 俺を殺そうとしているのは、貧しさではなかった。 壁の向こうにある、圧倒的なまでの「生」の気配だった。 あちら側にある温もりが、こちら側の真空をより鮮明に、残酷に定義してしまう。


 俺は、箸を持ったまま動けなくなった。シチューの匂いは、容赦なく俺の鼻腔をくすぐり、肺の奥深くまで侵食してくる。 それはもはや暴力だった。排除できない、拒絶できない、幸福な他者の実感が、俺という存在の空虚さを抉り出していく。


「あ」


 声にならない音が、喉の奥から漏れた。 指先が微かに震え、割り箸が指の間を滑り落ちた。プラスチックの上に落ちて、乾いた音が静まり返った部屋に、やけに大きく響いた。


 視界の端で、スマートフォンの画面が明るくなった。ログインボーナスの通知。新しいキャラクターの実装。 俺はそれを見ようとして、首が動かないことに気づいた。 首の筋肉が強張り、呼吸の仕方を忘れたかのように、胸が浅く上下する。


 胃の底から、せり上がってくるものがあった。 それは悲しみでもなく、怒りでもなく、もっと無機質な、何かが決定的に壊れた音だった。 奥歯がガチガチと鳴り始める。寒くはない。むしろ、体温は異常に高く感じられた。


 俺はゆっくりと立ち上がった。 足の感覚が心許ない。まるで他人の足で歩いているような、浮遊感。 台所のシンクに向かい、蛇口を全開にした。 叩きつけられる水の音が、隣の幸せな食卓の音をかき消してくれることを願って。


 しかし、水しぶきの中にさえ、あの甘い匂いは混じっていた。 俺はシンクの縁を強く掴んだ。爪がステンレスを引っ掻き、不快な音を立てる。 そのまま、膝が折れた。


 床に手をつき、四つん這いになる。 目の前には、さっき脱ぎ捨てたばかりの、黒ずんだ靴下が見えた。 俺の、どうしようもない、代わり映えのしない、明日も続いてしまう人生の象徴。


 思考がぷつりと途切れた。 言葉が消えた。 「仕方ない」という万能の呪文さえ、もうどこにも見当たらない。


 壁の向こうでは、まだ、温かな食事の時間が続いている。 俺はただ、冷たい床に額を押し当て、自分の内側から溢れ出す、熱すぎる何かに耐えていた。

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