第九話 究極の進化と、神の恵み
タガメとの激闘から数日。幸田は、その巨大な残骸を食糧とし、回復と経験値の吸収に努めた。A+ランクの【再生】スキルは、文字通り彼の生命線を保証したが、一度の使用で全身が脱力するほどの消耗を伴うため、連発は不可能だった。
タガメの捕食を終えた瞬間、幸田の意識に、まばゆい光と共にシステムからの通知が流れ込んできた。
『全スキルランク合計値が進化条件を達成!』
『緊急警告! 進化プロセスが開始されます!』
周囲の水流が幸田の体に集まり、体を光の繭が包み込む。ケンミジンコの外骨格が、内側から激しい熱と圧力によって溶解を始めた。
「グアアアアッ!」
声にならない叫びが、幸田の意識を叩く。これまで経験した進化の痛みとは、比較にならない壮絶さだった。
『外骨格溶解開始! 構造破壊進行中!』
『神経系統の再構築を開始! 激しい苦痛を伴います!』
硬い甲殻が溶けるとき、それは皮膚を剥がされるような痛みではない。皮膚、神経、筋肉が、同時かつ別々の方向へ、強引に引き裂かれ、組み直される感覚だ。背骨が形成され、胴体が伸びる。遊泳脚だった組織が溶解し、新たな四肢の原型へと変化していく。
「う、うそだろ……骨が、内側から生えてくる! 熱い、焼けるように熱い!」
彼の全身は、もはやケンミジンコの体を保てていなかった。光の繭の中では、元の外骨格がドロドロの液体となって水中に溶け出し、幸田の核となる組織だけが、無防備な肉塊として脈打っている。体表は薄い膜に覆われているに過ぎず、防御力はゼロに等しい。
『警告! 進化プロセス中:全防御機能および移動能力が停止します。』
『無防備状態(0%HP):物理的干渉により即座に死亡します!』
幸田は、激痛に意識を失いかけていたが、システムからの警告が恐怖となって彼の意識を繋ぎ止めた。今の彼は、水中で漂う、ただの大きな餌だ。
その時、
【危機察知(C-)】
が、全身の感覚器官が停止した状態にもかかわらず、本能的なアラートを発した。
『【危機察知】発動! 絶望的脅威接近中!』
水面が、巨大な影に覆われた。水鳥か、あるいは巨大な魚か。その影は幸田の真上でぴたりと動きを止めた。水底から見上げる幸田の視界には、日光を遮る巨大な黒い輪郭と、獲物を狙うための強烈な水流の乱れだけが感じられた。
ゴボッ……
捕食者が水面から突入しようとしている。幸田は、肉塊の状態で、もはや【再生】スキルを発動する生命力さえ残っていなかった。動けない。叫べない。ただ死を待つのみ。
「くそっ、こんな理不尽な形で……ここで終わるのか!」
その瞬間、運命のいたずらが、この場を支配した。
ブゥウウウ……
突如、水底の泥の奥深くから、微量のメタンガスが気泡となって噴出し始めた。それは、水底に堆積した有機物が腐敗する際に発生する、この池ではごく日常的な自然現象だ。幸田の無防備な肉塊は、その気泡の列に包まれた。
水面で獲物を狙っていた巨大な捕食者(推定されるのは、アオサギの嘴)は、不意に湧き上がった泡の群れと、それに伴う泥臭いガス臭によって、一瞬だけ警戒心を抱いた。
ゴポッ……ゴボッ……
泡が絶え間なく続く。アオサギは、このエリアが「獲物のいない危険な場所」だと誤認したのだろう。獲物に飛び込む一瞬の躊躇いの後、巨大な影はゆっくりと水面から離れ、別の場所へと飛び去っていった。
『危機回避完了。偶然の環境的要因(メタンガスの発生)により、捕食者の興味が逸れました。』
『神の恵み(Divine Luck)を獲得しました。』
幸田の意識は、安堵と脱力で完全に途切れた。間一髪。神に見放されなかった、ただの幸運だった。
それから数十分。光の繭の中で、肉体の再構築は劇的に進んだ。細いながらも強靭な骨格が組み上がり、皮膚が形成され、ケンミジンコの構造は完全に消滅した。
光が収束したとき、水底に横たわっていたのは、体長約2センチ。頭部にはエラがあり、胴体からは三対の「外鰓」がフリルのように揺れ、細く力強い四肢の原型が形成された、
イモリの幼生(サンショウウオ型幼生)
だった。
『進化完了。種族:水陸両用の幼生(Salamander Larva)。』
『HP、防御力、そして【再生】能力の効率が飛躍的に向上しました。』
『水陸両用の移動能力(水泳/歩行)を獲得しました。』
幸田は、新しい体で初めて息を吸い込んだ。水中の酸素だけでなく、水面から取り入れるための肺の原型まで感じられる。四肢を動かすと、ケンミジンコの遊泳脚とは比べ物にならない、しなやかで力強い筋肉の感覚があった。
「両生類……ついに水域を越えた。そして、この新しい体は、水陸両用だ!」
無防備な状態を偶然のラッキーで乗り越え、幸田は、水域の支配者から、水と陸の境界を生きる、さらなる高次の捕食者へと進化を遂げたのだ。彼の異世界でのサバイバルは、新たな局面を迎える。




