第二編 水域の覇者へ 第七話 水中の刺客と音速の刃
強化型ケンミジンコへと進化を遂げてから、数週間が経過した。幸田の生活は一変した。かつては脅威だったゾウリムシや小型のケンミジンコは、今や彼の「食糧」として日常的に狩られる対象となった。彼の体は、大型の捕食者として完全に水中世界に順応しつつあった。
しかし、幸田は満足していなかった。この池には、まだ彼より遥かに巨大で、硬い甲殻を持つ捕食者が存在する。次の進化、次の強敵を求める彼の探求心は、彼を水底のさらに深い、光の届きにくい泥質のエリアへと誘った。
幸田は、水草の根元に堆積した腐葉土の中を、慎重に移動していた。濃い水の色は、視覚による警戒を難しくする。彼は主に【危機察知(C-)】と【水流操作(D)】による水圧の変化を頼りに周囲を警戒していた。
その時、最上級の警報が彼の意識を叩いた。
『【危機察知】C-発動! 致命的脅威! 捕食距離に侵入されました!』
警告よりも早く、巨大な影が彼の正面の泥の中から飛び出してきた。
それは、水生昆虫、
ヤゴ(トンボの幼虫)
だった。体長は幸田のケンミジンコの数倍、約4センチ。全身はごつごつとした茶褐色の外骨格に覆われ、水中を素早く移動するために三対の脚と、エラのある腹部を持つ。何よりも恐ろしいのは、普段は顔の下に折りたたまれている、
伸縮自在の捕獲顎
だ。
ヤゴは、幸田の存在を明確に認識していた。その大きな複眼は獲物を見据え、一瞬の躊躇いもなく、その凶器を射出した。
ギュンッ!
水中にもかかわらず、空気を切り裂くような鋭い水流と共に、ヤゴの捕獲顎が幸田目掛けて伸びてくる。幸田は反射的に【高速移動(D)】と【念動力(B-)】を同時発動させ、体を真横にひねった。
ヤゴの顎が、彼のいた場所のすぐ後ろの泥を深く抉る。
ドバッ!
巻き上がった泥が幸田の視界を塞ぐ。
「くそっ、速い! そして、あの顎の硬さ……まともに食らえば甲殻ごと砕かれる!」
幸田は、泥の攪拌を利用して緊急回避を図った。ヤゴは泥の中でも正確に幸田の居場所を特定し、素早く向きを変えて追尾してくる。
幸田は反撃に出た。目標は、ヤゴの動きを封じること。
「【キャビテーション・ブレード】! 脚を狙え!」
ドゥン!ドゥン!
二発の不可視の衝撃波が、ヤゴの前脚の関節に直撃した。ヤゴはわずかに体勢を崩したが、その外骨格は驚くほど強靭で、ブレードはわずかな衝撃を与えただけで、致命的な損傷には至らない。
『物理防御力がキャビテーション・ブレード(C-)の貫通閾値を超過しています。』
「硬い! ミジンコやオニケンミジンコのレベルじゃない!」
ヤゴは再び顎を振りかざした。今度は幸田の回避ルートを先読みし、水草の根元へと追い詰める。退路がない。
『致命的攻撃が接近中!』
ヤゴの顎が幸田のケンミジンコの体に迫る。幸田は、回避が間に合わないことを悟った。彼は最後の瞬間、全精神力と、進化後の強化された遊泳脚の筋肉の力を、一つの点に集中させた。
「力ではなく、振動だ! 体内から音を、超音波を生み出せ!」
幸田は、前世の知識で得た、物理的な振動を極限まで高めることで、水中での破壊力を増幅させるという着想を実行に移した。彼は【念動力(B-)】で遊泳脚の微細な筋肉組織に介入し、その振動周波数を超音波領域まで高めた。
彼の体内に、誰も聞き取れない、振動周波数40KHzの超音波の
「キーン」
という音が響き渡る。
ヤゴの顎が、幸田の甲殻に接触する直前、彼の体表から、瞬時に、不可視の衝撃波が全方位へと放出された。
『【念動力】と【キャビテーション・ブレード】の複合進化を確認。』
『ユニークスキル:【ソニック・ブレード(B-)】を獲得しました!』
超音波による局所的な超振動は、ヤゴの顎が起こす水流の乱れをも利用し、その体表をかすめた瞬間に、ヤゴの外骨格のわずかな隙間と、その下の細胞組織に、連鎖的なキャビテーション・バブルを発生させた。
キュルルルルッ!
ヤゴの顎の先端が、その衝撃で粉々に砕け散った。顎は内部からの圧力でヒビが入り、無力化された。ヤゴは激痛に悶え、体全体を激しく揺さぶる。
『会心の一撃! 構造破壊ダメージ! -50%HP』
幸田は息をつく間もなく、新能力の力をさらに高めた。
「まだ終わらない! 【ソニック・ブレード】連射!」
彼は遊泳脚の振動を維持したまま、ヤゴの最も柔らかい腹部へと突進した。ヤゴは砕けた顎で反撃を試みるが、すでに手遅れだ。
キュルルルッ!
超音波による衝撃は、ヤゴの分厚い外骨格を簡単に貫通し、腹部の内臓を破壊した。ヤゴは一瞬の痙攣の後、その巨大な体を水底に沈ませた。
『捕食者ヤゴ(トンボ幼虫)を討伐しました。経験値大量獲得。』
『ユニークスキル:【ソニック・ブレード(B-)】
•【ソニック・ブレード(B-)】:体内の筋肉組織を40KHzで振動させ、体表から全方位に超音波を放出する。この超音波は、接触した対象の体表や内部に瞬時にキャビテーションを発生させ、装甲を問わず構造破壊を引き起こす。』
『ユニークスキル:【念動力】がBランクに上昇しました。』
幸田は、ヤゴの残骸の上で、その新たな力の感覚を味わった。超音波とキャビテーションの融合。これは、ミジンコ時代に得た知性の全てを具現化した、音速の破壊力だった。
「すごい。これなら、この池のどの捕食者とも戦える……」
彼の体力の消耗は激しいが、ヤゴという巨大な壁を打ち破ったことで得たものは、計り知れない。彼は、目の前の巨大な獲物を、新しい食糧として認識した。
人間への途方もない道のりの中で、幸田博は、ついに水域の食物連鎖における、明確な
「強者」
の一角へと躍り出たのだ。




