第二話 ゾウリムシ大群との知恵比べ
ヒドラを撃退し、わずかながらにスキルアップを果たした幸田だったが、それはすぐに次の飢餓感によって打ち消された。ミジンコは常に食糧を濾過しなければならない。しかし、彼のいる水域はすでに危険な捕食者によって荒らされており、安全に濾過摂食できるエリアは限定されていた。
幸田の目の前には、広大な藻類の群生地。しかし、その群生地の入り口は、およそ千体近いゾウリムシの群れによって完全に塞がれていた。
ゾウリムシ(Paramecium)は、ミジンコよりも小さいが、その運動能力は遥かに高い。体表の繊毛を波打たせることで、彼らは猛スピードで突進し、不規則な軌道で群れを形成する。単体では恐れるに足らないが、彼らの大群は、水流を乱し、空間認識を麻痺させる「ミクロの嵐」だった。
『【危機察知】D-発動! 中度の脅威群接近!』
ゾウリムシの群れは、まるで液体の壁のように、絶えず形を変えながら回転していた。
「突破しなければ餓死する。だが、正面から突っ込めば、あの渦に巻き込まれて細切れにされるだろう……」
幸田は前世の経験を呼び起こした。大規模なデモ隊の動き、流体力学の基礎、そして満員電車の乗降の隙。それらはすべて、「群れの動きの法則」に類似する。
幸田の複眼は、ゾウリムシ一匹一匹ではなく、彼らが作り出す水流のパターンを追った。ゾウリムシの群れは、完璧に統率されているわけではない。個体同士が衝突を避けようとする本能と、餌場への引力、そして周囲の刺激によって、動きは周期的なパターンを持つ。
分析(0.5秒):
1.群れの進行方向は、僅かに右斜め。
2.進行方向の先端で、繊毛が起こす水流が一時的に弱まる「デッドゾーン」が発生している。
3.このデッドゾーンは、約2秒ごとに、群れの最前線が隊列を入れ替える瞬間に生じる。
幸田は、この「デッドゾーン」を狙うことに決めた。彼の【高速移動】の持続時間は短い。一瞬の加速で、水流の壁を突破し、群れの中心部に到達しなければならない。
「技術系サラリーマンの知恵、見せてやるぞ!」
幸田は深く息を吸い込むように体内のエネルギーを集中させた。
『【高速移動(E-)】臨界加速!』
デッドゾーンが発生した瞬間、幸田は光の矢のように突っ込んだ。彼は、水流が最も弱い群れの先端部を、ゾウリムシの体一つ分の隙間を縫って通過した。
しかし、突破は困難を極めた。群れの中に入ると、繊毛が起こす激しい水の攪拌が、彼の体を激しく揺さぶる。いわゆる流体力学でいうところの乱流である。カルマン渦もいたるところに発生している。甲殻がゾウリムシの体と何度も衝突し、激痛が走った。
『物理ダメージ:-0.1%HP、-0.2%HP、-0.3%HP……』
幸田は、ヒドラとの戦闘で得た【尾棘アタック】を、防御に転用した。尾棘をわずかに振動させ、自身の周囲に微弱な水流のシールドを形成する。小さなカルマンの渦列を大量につくることになり、それは、ゾウリムシの繊毛による衝突をわずかに逸らす、苦し紛れの技だった。
群れの中心部を通り抜けるのに、約5秒。幸田にとっては、数分の拷問に等しい時間だった。彼のHPは半分以下に削られていた。
群れを突破した幸田の意識に、システムが語りかけてくる。
『戦闘終了。経験値獲得。』 『生存戦略に基づく【高速移動】の特異な運用を確認。』 『ユニークスキル:【高速移動】がEにランクアップしました。』 『新スキル:【水流操作(F)】を獲得しました。
•【水流操作(F)】:体表の運動器官を制御し、自身の周囲の微細な水流を操作する。防御、攪乱に利用可能。』
幸田は、藻類群生地の安全な水草の裏で、安堵の震えを覚えた。体力の消耗は激しかったが、ヒドラの毒とは違い、ダメージは回復可能だ。そして、何よりも、ゾウリムシの群れとの知恵比べが、彼に新たな活路を与えてくれた。
【水流操作(F)】。これは、狭い水中の世界で、彼の人間としての知性を具現化するための、大きな一歩だった。
幸田は、無限に広がる微小な世界で、次なる進化への一歩を踏み出した。




