第十三話 炎の軌跡と一メートルの飛躍
【空間把握(C)】を獲得した幸田博にとって、目の前の世界は一変した。岩や木々、水面といった物理的な実体だけでなく、それらを包み込む「空間の歪み」と「次元の壁」が、視覚ではなく、彼の精神に直接流れ込むようになった。それは、世界が格子状のグリッドで構成されているような、幾何学的な感覚だった。
幸田は、この新しい能力の習熟に、全ての時間を費やした。彼の目標は、単純な
転移
ではない。彼は、次元魔法の基礎を、既にあるチートスキルである【炎の抱擁】に組み込むことを考えた。
「炎は、体から放たれた後、ただまっすぐ飛ぶだけだ。だが、もし、炎が飛ぶ空間そのものを捻じ曲げられたら?」
それは、幸田が火魔法を習得した当初からの夢だった。【空間把握】は、その夢を叶えるための鍵となった。彼は、まず【炎の抱擁】の制御に【空間把握】の感覚を統合することから始めた。
初めのうちは、火炎は少し揺れるだけで、すぐに軌道が乱れて消えてしまった。しかし、ミジンコ時代から培った彼の知性と集中力は、この難題を短期間で克服した。
ある夜、幸田は、陸地で獲物を待つ大型のハチドリほどの巨体を持つスズメバチを標的にした。スズメバチは、その極めて速い飛行速度と、猛毒を持つ針で、水辺の生き物にとって恐怖の存在だった。
幸田は、意識を集中させた。炎を体から放つ瞬間、
「空間の歪み」
の感覚を、火炎の放出経路に重ね合わせる。
ヒュンッ!
火炎は、幸田の口から斜め上に向かって放たれたが、空中で突如、直角に曲がり、高速で飛行するスズメバチの左翼の付け根に直撃した。
「ジィィィ!」
スズメバチは、飛行のバランスを失い、羽を焦がしながら地面に落下した。幸田は間髪入れずに、再び火炎を放つ。
今度の炎は、放出直後は速度が遅かったが、空中で急加速し、螺旋を描きながらスズメバチの頭部を貫いた。
『捕食者大型スズメバチを討伐しました。経験値獲得。』
『ユニークスキル:【空間把握(C)】がC+にランクアップしました!』
「成功だ……! これが、【炎の抱擁】と【空間把握】の融合、『フレイム・トレース』!」
彼の火炎は、もはや直線的な攻撃ではなかった。それは、三次元空間を自在に駆け巡る、意思を持つ炎の軌跡となった。これによって、幸田は空を飛ぶ敵に対しても、絶対的な優位性を持つに至った。
炎の制御に成功した幸田の意識は、いよいよ最終目標である自己の転移へと向かった。
転移の難しさは、炎の軌道を曲げることとは比較にならなかった。炎の軌道を曲げるのは、空間の一部を微細に歪ませるだけで済むが、自己を転移させるには、自分自身の存在を、ある空間から引き剥がし、別の空間に再構築する必要がある。
幸田は、安全のため、水辺の岩の上で修練を続けた。ターゲットは、目の前にある、わずか1メートル先の石の上だ。
「空間……歪み……座標……」
彼の脳裏で、【空間把握】のグリッドが激しく渦巻く。彼は、岩の上から、1メートル先の座標を、全神経を集中させて認識し、そこへ自らを「ねじ込む」イメージを繰り返した。
一週間が経過した。幸田は、毎回の試行で、全身を激しい吐き気と脱力感に襲われた。体が数ミリ揺れるだけで終わったり、意識だけが目標地点に飛んでいったりと、失敗の連続だった。その度に、S-ランクの【再生】が彼の消耗しきった体力を素早く回復させたが、精神的な疲労は溜まっていった。
そして、満月の夜。
幸田は、最後のエネルギーを振り絞り、自身の存在の輪郭を握りしめた。彼の体と、周囲の空間との間に、わずかな「ズレ」が生じる。
「いけ……! 座標は、1メートル先……!」
バチッ!
次の瞬間、幸田のいた場所から、彼の体全体が弾けるような音と共に消失した。
彼の周囲を覆っていた空間のグリッドが、激しく乱れ、一瞬の静寂が訪れる。
そして、1メートル先の石の上で、幸田の体が再構築された。
ドンッ!
彼は目標地点に到達したが、その着地は極めて乱暴だった。まるで、高速でぶつかったかのように、全身を激しい衝撃が貫き、その場に倒れ込んだ。
『ユニークスキル:【空間把握(C+)】がB-にランクアップしました!』
『【転移】成功! 距離:1.02メートル。』
『体力の消耗:-99%HP! 致命的な精神的疲労!』
幸田は、地面に体を横たえたまま、全身の細胞が歓喜するのを感じた。
「成功……した……。転移……この体で……!」
わずか1メートル。しかし、それは、ミジンコから始まり、人間としての帰還を夢見る幸田にとって、この世界と前世の世界を隔てる、次元の壁を打ち破るための、決定的な一歩だった。
彼は、水陸両用の幼生として、ついに次元魔法の領域へと足を踏み入れたのだ。




