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エギルが語る真実

「後ろだ!」と味方の誰かが叫んだ。振り向くと、そこには今まさに斧を振り下ろさんとする敵の姿があった。


 後ろから斬りかかられる――それは初めての経験だった。背中はいつもスノッリ、お前が守ってくれたから。


 強烈な一撃に盾は割れてバラバラになり、俺はその場で尻餅を付いた。敵はもう一度斧を振り上げ、俺は腰の剣に手を伸ばしたが、もう間に合わないのは明らかだった。俺の頭を真っ二つにするだろう刃から目を逸らせずに、俺を殺す男を見上げていると、勝ち誇ったそいつの右目に矢が突き刺さった。ぐるんと左目が上を向き、振り上げた斧はどすんと落ちた。


 俺の股座(またぐら)、ぎりぎりの所に。


「大丈夫か!」

「早く立て!」


 誰かがそう叫んでいたような気がする。俺はよく覚えていない。その時、俺は――怖かったんだ。震えが止まらなかった。知っているか、スノッリ。死を意識した瞬間に感じる恐怖は真の恐怖ではない。真の恐怖は死から逃れた瞬間にこそ、心をがっちりと掴むのだ。そして魂を粉々に握り砕く。


 遠く聞こえた悲鳴は、自分のものだったかもしれない――気が付くと俺は森の中で、小さな崖の下にいた。臆病風に吹かれて戦場から逃げ出してしまったんだ。


 妻も子供たちも、お前も、臆病者の恥ずべき血が流れていると知れたらどんなに酷い扱いを受けるか。孫まで続く恥という呪いを残してしまった。それどころか、父や祖父の名まで汚してしまった。


 そこは戦場のすぐ近くで、戦いの音はまだ聞こえていた。今すぐにでも舞い戻り、この一時の恥を(そそ)いで勇者と称えられるほどの戦いをして見せなければと思った。思ったんだ。本当に。大地の神ノウスは今この瞬間も俺をご覧になっているぞ、と自分に言い聞かせたんだ。でも……立てなかった。戦場には戻れなかった。


 いつも後ろを守ってくれるお前さえいれば、俺は前だけ向いて勇敢に戦えたはずなのに。いつも後ろから俺を見ているお前の目さえあれば、俺は雄々しい戦士でいられたのに。


 お前がいないのが悪いんだと、全てお前のせいにした。


 猪にやられたのもわざとじゃないのかと。

 本当は動けるのに、戦場が怖くて動けないふりをしたに違いないと。

 最低の臆病者だと。

 お前に比べれば俺のほうがずっとましだと。


 お前を(おとし)め、恨みさえした。


 そうして砕けた自分の心を慰めているうちに戦の音は小さくなっていった。決着がついた頃合いになり、俺はやっと戦場の様子を見に戻れるようになった。立ち上がり、こそこそと戦場へ戻りかけた時だ。ばったり二人の戦士と出会った。相手はお互いに支え合っていなければ立っている事さえできないという有様で、顔は判別できないほど血まみれのどろどろだ。


 より怪我の酷いほうが血の泡を吐きながら問うてきた。「お前は誰だ」


 よく見ると、その男は片足が千切れかけている。ざっくりと裂かれた腕は使い物にならず、血のにじみ出る鎧の下は見るまでも無い。死にかけだ。武器といえば腰に付けた鋭い針のような鎧通しの短剣だけ。


「俺は……エギルだ」そしてこの二人が敵でありますようにと願った。


 この二人が相手なら戦える。俺は森の中で二人の敵を相手に死力を尽くして戦っていたのだと言える。少しくらいは傷を受けたほうが真実味もあっていいかもしれない。そうだ、脚を怪我して戻れなかったと言おう――そんな事を考えていると、相手は予想外の反応をした。


「エギル? ストールヴの息子のエギルか?」


 誰かと勘違いしていた。ストールヴなどというやつは知らん、とはっきり言うべきだったのに、俺はまごついた。


「ハーコン様、味方です。ストールヴは信頼できる男。その息子にも成人前に会った事があります。エギル、覚えているだろう。俺だ。ラグナルだ」


 驚いた。

 敵方の首長と、勇者と呼ばれた男だ。


 この二人を戦場で討ったとなればソルケルが言ったように、勇者としてその名声は北方に轟くだろう。しかしここは戦場ではなく森の中で、誰の目も無く、二人は重傷を負っている。おそらく、その傷の一つ一つが名誉あるものに違いない。


「エギル?」


 ラグナルは片目が潰れ、もう片方の目も血まみれで、よく見えていないようだった。


「あ、ああ……まさかあなたほどの勇者がこれほどの傷を負うとは思っておらず……驚いてしまって……」


 俺は、咄嗟(とっさ)にそんな事を言っていた。


「よせ。勇者と称えられても俺はただの人間で神ではない。傷も負えば、死にもする。だが今はまだ……もう少し、せめてハーコン様の安全を確保するまでは大地の神にお目こぼしを願いたい」


「と、とにかく、こちらに。一時落ち着けそうな場所があります」


 俺は誤解を解こうともせず、挑戦しようともせず、ストールヴの息子を演じた――。


 つい先ほどまで自分が隠れていた崖下に二人を案内し、ラグナルが地面に横たわるのを手伝うとハーコンが言った。


「助かる。エギル……だったな」


「いえ、戦場に到着するのが遅くなってしまい恥じ入るばかりです」


「いや、お前が遅れてくれたおかげで我らは助かったのだ。お前と出会わなければ俺もこの森で魔獣か狼の餌になっていただろう」


 崖下に背を預けてハーコンは一息ついた。見ると傷だらけで、鎖帷子(チェインメイル)はざっくりと破れているが、致命傷というほどではないようだった。ラグナルが身を挺して雄々しく戦った結果なのだろう。まさしく勇者として。


 どうしていいか分からず間抜けのように突っ立っていると、ハーコンが再び口を開いた。


「エギル、蜂蜜酒はあるか」


「ええ、もちろん。どうぞ」俺は手持ちの蜂蜜酒を渡そうとしたが、ハーコンは首を横に振った。


「いや、俺ではなく、ラグナルに飲ませてやってくれ……最後に」


 俺は勇者の傍らで彼の頭を支えてやり、ゆっくりと口に蜂蜜酒を注いだが、ラグナルはもう飲み込む力さえなく、蜂蜜酒は口元から溢れて地面に流れ落ちるだけだった。


「どうだ、エギル。ラグナルは……」


「〈大地の館〉へ向かわれたようです」俺はそっと彼の頭を地面に下ろした。


「埋葬してやりたいが、夜になる前にこの森を出たい。遺品をまとめてくれ。俺はほんの少しだけ……休む。エギル、この場所をよく覚えておいてくれ……何か、目印を……」


 言われたとおりに、腕輪やブローチや指輪などを集めて血塗れのマントで包んだ。終わってからハーコンを見ると座り込んだまま眠ってしまっている。


 その瞬間だった。

 悪魔が俺に囁いたのは。


 ――今ならハーコンを殺れる。


 俺はゆっくりと立ち上がって、足元に横たわるラグナルを見下ろす。


 ――ラグナルは俺の腕の中で死んだ。これは嘘ではない。


 目を閉じているハーコンに、ゆっくりと忍び寄る。


 ――そしてハーコンも殺した。俺は逃げたのではなく、この時のためにここへ潜んでいたのだ。嘘ではない。嘘にはならない。


 剣を抜く、さりさりという音がいつもより大きく聞こえる。


 ――神がそう導いたのだ。ラグナルが勝手に俺をストールヴの息子と勘違いしたのだ。これは嘘ではない……嘘では……だけど


 ……誰も見ていないよな?


 あっさりと、吸い込まれるように剣先がハーコンの胸に入った。ハーコンは目を見開き、驚いたような顔で俺を見る。俺は思わずニヤリと笑う。


「お前は誰だ……」


 背後から声がした。振り向くと、死んだはずのラグナルがそこに立っている。


 剣を抜き取ろうとしたがびくともしない。見るとハーコンが剣を掴んでいる。そしてもう一度ラグナルを見た時、勇者はすでに目の前にいて、鎧通しの短剣を俺の腹に突き刺していた。


 俺は痛みに叫んでラグナルを突き飛ばし、すでに死んでいるハーコンの胸から剣を抜いて倒れた勇者の首に突き立ててやった。ラグナルは悲鳴も上げず、ぐっと口を引き結び、視線だけで殺せそうなほどに俺を睨みつけたまま死んだ。


 その瞳に映っていたのは呪われた臆病者、恥ずべき殺人者。

 俺は自分が何をしたのか理解した。

 ラグナルの目は全てを見抜いているようだった。俺を呪っていた。


 甲高い悲鳴が口から溢れ出るのを止められず、立ち上がることもできないまま地面を這いずって、俺はそこから逃げ出した――。


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