スノッリの焚火(1)
月の無い闇夜の森で、スノッリは焚火の面倒を見ていた。小さな野営地を囲む木の幹は炎に照らされて赤々と、まるで夜の帳を支える柱のようである。
降り積もった雪は何もかも、音さえも、覆い隠してしまう。圧倒的な暗闇と静寂に、この野営地だけが飲み込まれずにいる。
どんな獣でもじっと身を潜めるような、そんな冬の夜だ。
だからといって警戒しないわけにはいかない。一括りに魔獣と呼ばれている怪物どもが姿を現すとしたら、こんな夜こそ相応しいと思える。ドルイドからもらった魔獣除けの守り石があるとはいえ、それを信じるほどスノッリは迷信深くなかった。
それに守り石は人間にも効果がない。
闇夜に乗じて忍び寄る野盗の類を防いではくれない。
首を伸ばして周囲を見回すと、見張りが持っている松明の灯りがぽつりぽつりと木々の合間に浮かんで見えた。まるで森を彷徨う死者の魂のようだ。
気温のせいではない別の寒気がして、スノッリはここを野営地に選んだ事を後悔した。そもそもここは野営などすべき場所ではない。森の向こうにはいわくつきの古戦場〈骨の湿原〉があるのだ。
北方世界のほぼ中央にあって、古の時代から何度も戦場となってきた場所である。三歩行けば人骨が見つかる、と言われるほどたくさんの戦士がそこで命を落としてきた。
亡霊など子供だましのおとぎ話に過ぎないが、だからといって気分の良い場所ではない。なのになぜ、自分は今日ここで野営すると決めたのか。頑固に反対を押し切ったのか――はて、その理由は何だったか。
炎の爆ぜるパチンという音が、ふいに湧き起こった疑問からスノッリを現実に引き戻した。集めた枝からなるべく乾いている物を選んで炎にくべ、長い枝を突っ込んで火をかく。
パチパチと火花が舞い上がって周囲を一際明るく照らし、影が揺らめいた。
その時、木々の間に人影を見たような気がしてスノッリはぎょっとした。東のほう――〈骨の湿原〉があるほう――にじっと目を凝らすと、そこには確かに誰かいる。
その姿を見て、スノッリは驚きのあまり声も出せなかった。
ただ目を丸くしているしかできなかった。
だから、先に口を開いたのは来訪者のほうだ。
「スノッリ……お前、スノッリか?」
闇の中から現れたのはスノッリの兄エギルだったのだ。
細長い鼻当てが付いているだけの飾り気がないつるりとした兜。膝上まである鎖帷子。革のブーツに手袋。母が二人のために織ったマント――そして何より生まれた時から一緒だった兄だ。見間違えようがない。
返り血に汚れて、盾は無く、腰の鞘に剣も無い。ただ、左脇腹には深く刺さった短剣がそのままになっており、出血が左脚まで黒く染めている。
「エギル……兄さん」
スノッリは慌てて立ち上がると不自由な右足を引きずって駆け寄り、ふらつく兄を受け止めた。その身は氷のように冷たく、血の気の無い顔は不気味なほど真っ青だ。
「お前、どうしてこんなところに……」
まるで亡霊でも見たような顔をして問うエギルに、スノッリは何も答えず、兄を焚火に導いた。そして火のそばに座らせる。
「兄さん、腹を……刺されたのか」
エギルの左脇腹から生えている短剣の柄を見ながらスノッリは呻いた。鎖帷子を貫通している。鎧通しの短剣だ。抜けば出血多量で死に至るだろうが、刺さったままでもいずれはそうなる。
「ああ、そう、そうだった……さっきまでは死ぬほど痛んだが、ここに来て楽になったような気がする」
スノッリは何と言えばいいかわからず、まじまじと兄を見た。盾と武器を失くしている以外は戦のために〈骨の湿原〉へ向かった時のままだ。当たり前だが。
「お前のほうこそ、脚は良いのか?」
ぼそぼそとエギルが聞き返し、スノッリは膝をさすりながら答える。
「まだ時々痛む。今日のような寒い日は特に」
「ああくそっ、あの猪め……無理をすると良くならないぞ。しっかり治しておかないと次の戦も俺一人で行くはめになっちまう」
スノッリは思わずエギルの左脇腹を見て、すぐに視線を逸らし、黙ったまま何度も頷いた。おそらく与えられた時間は長くない――スノッリは思い切って尋ねることにした。
「……エギル。戦の話を聞かせてくれないか」
兄は即答しなかった。焚火を見つめるその横顔は彫像のように固く強張っている。しかしやがて、エギルは頷いた。
「なるほど。さては、戦の行方が気になってここまで来てしまったんだな。脚の怪我を押してまで……いいだろう。話してやろう」
そうしてエギルは武勇伝を語り始めた――。