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一歩ずつ歩みを進めていくだけで、天にこのままのぼっていけそうな心地だった。僕は今、空に繋がる階段を彼女と二人だけで歩いている気がする。
だからといって調子に乗って失敗するなどあってはならない。この階段を昇れると言う奇跡を幸運にも手にした今、余計に気が引き締まると言うもの。
王都からの脱出手段として仕込んでおいた移動用の魔方陣の上、移動しては陣を消滅させる細工を繰り返し。そうして数度目、追手が来ていないか確認しつつも証拠隠滅作業を手早く行っていた矢先。そんな僕の姿を見たエリーゼが言葉を出した。
「随分と用意周到じゃないか」
「ふふ、ありがとうございます。僕は農家の生まれの平民故、誰もが夢見る王子様のように何でもそつなくこなせることは出来ません。こういった小細工はしておくのが定石というものです」
「……”移動魔法”が使える割にはいやに殊勝なことを言うねえ。気持ち悪くはあるが、確かに。オマエは利用価値がある男だ、認めよう」
「ありがたき幸せ」
王都の学園にて、貴族令嬢として美しいドレスを纏い過ごしていた彼女が。僕が住む山野の道に近付くにしたがって、その荒れ気味の景色とは似合わない出で立ちになっていく。帰路における魔法陣の展開は、次に現れる場所に予測が立てられないようとても無茶苦茶な道順になるようにしていた。
森の中、魔力の補填剤を口にしつつ、次へ進む為の詠唱を行う僕の隣で、彼女は赤いピンヒールのまましっかりと道に立っている。流石は伯爵令嬢、僕の愛する彼女はこの程度の環境の変化にもすぐ適応出来るのか。
「これからどこへ?」
「僕の家へ。家財、衣服、生活費を工面できる環境は勿論、畑を持っておりますので食糧も安定して補給出来るかと」
「それはいい、家と金をなくしたばかりの女には、いささか都合が良すぎるくらいにはねぇ」
「お料理がお口にあえばいいのですが。何せ山奥なもので、魚がなかなか手に入りにくいのは欠点ですかね。ただ……遠くにある王都を時折見下せるくらいの距離なので、すっきりしますよ」
「……へえ。面白そうさね」
さあ、行きましょう。そう言ってまた僕は移動用の陣の展開を行い、彼女の手を引き姿を消していく。
エリーゼに褒めて貰えた。その事実だけで、この身体の疲労が全て引いていくようだと。息切れしたい気持ちを必死におさえて、何でもないような笑顔を強がって作り上げた。
僕は、生まれて身につけたこの魔法に、大きな恩恵を感じている。僕の前世の身の周りには魔法なんて存在しなかった。この世界でどんなに役に立たなさそうに見える魔法を習得出来たとしても、僕の前世の立場から見れば、少しでも魔法が使えるノア・マヒーザという自分の存在は、前世を遙かに越える成長ぶりだと喜べるものだ。
「慈愛のマトゥエルサート」世界での設定としては、魔術師の成熟ぶりは髪色や目の色の濃さを見ればだいたい分かる、という指標がある。
それは、現実のこの世界の人間にも当て嵌まる。人は、基本的に魔力を生み出す器官が体内に存在していて、そこから力を引き出せるか引き出せないかというところから魔法に触れ合うことが始まるのだ。訓練を積めば積むほど、体内に留めることの出来る魔力量も増え、規模が大きい技の使用も可能になり。そうして育まれ強くなった魔力は、人体のある一部に影響を及ぼす…それこそが、髪と瞳なのだ。
魔力量が多い者や強い者、鍛錬を積んだ者程、その二箇所の色は濃くなっていく。基本的に若年層の髪色が薄く、年配の魔術師になる程経験量に比例して色濃くなっていくのがこの世界では普通のことだ。若くしてその色が濃ければ、それは才能を秘めている証だと喜ばれる。ただ、外見でそういった判断をされやすい為、心無いものは差別の理由に色をあげることもあり。悲しいことに、そういった時代遅れの差別主義者達は、ゲームの世界でも、現実の世界でも存在してしまう。
髪や瞳の色を魔法で染め上げたりするといったことで外見での差別を少しでもなくす方法が浸透している世間が故に、僕は生まれてこのかた、そういった類の事件に直接巡り合ったことは無い。
ただ、僕として少し困っているのは。成熟してもいない、ただ自分の住まいと、兄と、彼女を守りたいが為だけに身につけられた一部の魔法だけで「才能があるのでは」と誤解されて、自分の虚像が大きくなることを恐れている。
……この大陸は、教育制度が満遍なく行き届いている地域が殆どの筈。王立学園以外にも、様々な場所に孤児院や学校の設置率が高く、例え貧民だとしても希望をすれば通学が出来る上に金銭的な支援も行き届いていて。
誤った技術の使い方では無く、生きる為に必要な魔術の利用法を正しく手解きする場所があるだけでも、このカナリア国は真っ当に次の世代の人間を育むことが当然出来るであろう。
けれど、僕は。ここまで恵まれた環境にありながらも、王都に近い場所で学ぶことを選ばず。今になるまで少しでも家計を支えられたら、という思いから労働の道を選んでいた。
王都にエリーゼがいることを願い「王都へ行きたい」と幼い頃から根城を近くに構えると言う行動に早く移していたのなら、もしかしたら、断罪の日に強行突破をしなくとも済んだ道もあったかもしれない。
しかし、当時の自分には、何も出来なかった。幼過ぎて手につくものも、他者に代わりに動いて貰えるような知恵も、余裕も何も無くて。山に籠り続けたまま、時折エリーゼの様子を伺おうとしては王都へ降りて。極稀に手掛かりは掴めはしたが、殆どが収穫無しで山へ戻る……なんてことを繰り返したのは、単純に僕の心が弱かったからだ。臆病で心配性な部分が大きく働いたのだろう、僕がここで授かった色も含めて。
万能では無い。何も、これ一つあれば全てがうまくいくなんて夢のように凄い能力はこの体には存在しない。
僕がこの世界で身につけた色は、深海のように濃い紺色。森の緑とは違う、海と同じ色。
僕は何故か、碌に魔法の勉強も出来ない程小さい頃から濃い色を宿して産まれてきた。それは才能がある証、将来の伸びしろが大きい証、と喜ばれるべき事象だったことだろうが、少し成長した頃になるとこの色が怖くなったのを覚えている。山奥に住んでいる農夫と言う一般市民には、この色が酷いプレッシャーになってしまったのだ。
この恐怖心が植えつけられたのは、前世を把握して夢に見るよりも以前のこと。前世が関係無い所で刻まれた苦い感覚と思い出だ。
最初は僕も色んな人に自分の色彩を褒めて貰えることに「将来はいい魔術師になれるかも」と楽しみにしていたものだったが。少し経てばわかったのだ、自分のこの紺色は宝の持ち腐れ以外の何者でも無いと。出来る仕事は確かにある、農家はとにかく力仕事、男手として精一杯体力が尽きるまで動き回り手伝うだけでも体は出来上がっていく。
けれど、魔法に関しては15を過ぎるまで、僕はまともに使えることが無かったのだ。と言うのも、途中で前世の現代を思い出してしまったせいも相俟って、この世界の人々が持つ無意識の魔力の放出の仕方というものが、まるで分からなくなった時期があり混乱したから。
元々この世界の生まれのノアという人格はきちんとあるから良いものの、記憶だけでなく、魔法と関係ない世界で育った感覚というものが、前世の夢を通して記憶に変換されて流し込まれると見ていられない状態だった。
兄が魔法を使う度、真似してみても出来なかった。僕の中に「魔法なんてありえない」「前世の現代日本ではこんなこと出来なかった、魔法なんて想像の世界だ」という感覚が、魔力を生み出す器官に異常をきたした。一言で言うなら、メンタル面の問題で魔法が全く使えなくなったのだ。
大きな足枷、僕にとっては前世の情報自体は助かるが、このような事態になることは当然望んでもいない。
この世界での常識を、前世での感覚が勝手に非常識だと訴えてきて。身体の中で勝手に喧嘩を始めてしまうのだ。
魔法を使おうとしても家族と同じ感覚が掴めず。この世界を乙女ゲームとして見ている者の記憶や、エリーゼの情報、エリーゼに対する恋心を手に入れた代償に長らく簡単な魔法すら使えない才能無しになっていたのだ。
幼少の頃、自分の色彩に重圧を感じ。少年期の頃、自分の前世を夢に見て、より魔法が使えなくなり。そうして今になるまでは必死に今と前世の感覚のズレを修復することだけに奔走していた。スキップが苦手で出来ない人間に、目の前でやって見せても出来ない人は全く出来ないのとよく似ている、巻き舌等もそういったものに近いかもしれない。周りの人が無意識に行っていることの一挙一動を、一々思考しながら同時に遂行しなければならないことがどれほど大変か、この数年は思い知った。
魔力を器官から引き出すだけでも難しい上に、大きな魔法は幾つも使えない。小さい魔法を展開する感覚を短くして行ったり、補填剤を使用して無理矢理連続使用したりと、才能の色を持ちながら凡才にしかなれないことが辛かった。
不安感がどろどろに混じりあい、それでも足掻いて手に入れた自分のスタイルが今の僕を作り上げている。凡才は凡才なりに、しっかりかっこつけて最大級で頑張れば問題ない、というプラス思考にようやく浮上出来てからは行動も早くなった。それまでは何も出来ない自分が情けなくて、王都からの教育支援制度の手紙が学校に通える頃合に送られてきた時も、当時はこの色をしている才能無しの僕を見ないでほしい、という怖さの方が打ち勝ってしまったからこそ…どこの学校にも通わず家族から教わった日常で使える小さな魔法や、時折城下にくだり買ってくる魔法を記した本で広く浅く知識を拾い集めるしかなかった。地味で、どうしようもなく時間のかかる方法であったけれど。エリーゼを思い出し、いつか本当に会いたいと、前世ではなく僕が会いたいのだと思い直してはやるしかないと覚悟をした。
今はまだ、彼女を迎えに行くにはひどく力不足すぎる。いつか、いつかこの紺色の姿を晒して彼女の前に立てる自信が来るその日まで、不恰好でも努力をするしかないと覚悟をしたからこそ。楽観的でありつつも悲観的に、彼女がこの日に世界から捨てられる日を用意周到に待ち構えていた。だから、この恋は妄執とも言えるのかもしれない。
「エリーゼ様、少しだけ過ぎたことを言ってもいいですか?」
「ああ?」
「真紅を引き立てるのに、紺色って、ぴったりだと思いません?」
あの頃より、僕は少しだけふてぶてしくなって。少しだけ勇気を持てるようになって。
……とても、強がりを言えるようになって。そして、それを強がりだけでは終わらせたくないという強欲な覚悟を秘めることが出来るようになったのだから。
「――上等。アタクシの目を見てそんなことを平然と言える奴は、初めてだ。オマエ、本当に妙な奴だが……面白い男だ」
またエリーゼが、僕に向けて笑いかけている。口角を上げて、僕だけに。心臓を大きく揺さぶられる様を僕は微笑みで誤魔化し、彼女の手を引き続ける。
僕のマトゥエルサートは、このひとだけだ!
そう、山道のさ中。叫び出したくなる衝動を抑えつけて、幸せを毎秒刻み付けていた。