4
学園の案内係の目を盗み。今日だけは、誰も近付けないように小細工されたそこへ向かう。彼は足音をわかりやすいように立てながら戸を開いた。彼こそ同じく、今日だけは存在感を強める為に、彼女に会う為に向かって来た。
予想通りのことが起きて、予想通りの結末になる直前に。その運命を変える為に、体重をかけて一歩踏み出した。
「でしたら、僕がそのお方を花嫁にしたいと、今叫んでもよろしいのですね?ご婚約は破棄されたようですので」
そうして台詞をひとつ、青年はここへ落とした。
× × ×
たどりついた。ようやく、新たな始まりに。
滅多に着ない一張羅を汚さぬようヒールブーツで山道から下って来たと言うのに、この両足は崩れ落ちない。焦げ付いて治らない火傷のような恋、というものは。例えただの農夫だとしても、人一人である僕をここまで何とか成長させてくれるものらしい。
まるで初めて自分の足で歩けることに気付いた赤子のように。今、僕という人間の内側も外側も、興奮が覆っている。この現実のノア・マヒーザは、今、この瞬間、生きている!脅迫的なまでに生を実感しているのだ!
心臓の拍動の五月蝿さでさえもとても愛しい。自分が求め続けた人が、自分が生きる理由の人が、……浅ましくも、自分がもしも救えたのならと考えてしまった人が、そこにいるのだから。
紺色の瞳の中、深海のようだと兄に褒められたこの色の中に、消えること無く踊り続けるだろう真紅の炎色をした彼女をずっと、入れていたい。
「な、何者だ!ここは人払いをしていた筈ッ!」
ああ、そうだ。いけない。このままずっと彼女に見惚れていたいけれど、それは今の状況が許してくれないのだった。
相当短い数秒が、長く感じる。不思議な時間の流れに包まれているような心地であった。
少しは回復した体力で、精一杯の虚勢と。それに、最高に見栄っ張りなかっこつけで今この時だけは完璧に演じなければいけない。あの悪女、エリーゼ・リースが”試しに傍に置いてやってもいい”と、判断するに足りる男を!
冷や汗は隠した。声に震えは無い。緊張、無し。
むしろ、実際に彼女をこの目で見た燃えるような高揚感を抑える方が今は大変だと悟る。そう、僕はせめて、助けたい、助けたかった。どう足掻いてもシステム上誰も助けられないゲームアプリの世界とここは違う、夢を通して貴女に惚れた、そんな大層単純な男であっても少しの助けになれるのなら。その想いで昨日も今日も明日も、いつだって生きる理由のひとつに彼女はなっていたのだ。
この手が願い叶わず空を切ることになろうとも、それは全ては僕の自己満足で努力不足と言う大前提は変わらずある。責任の所在は此処だと開き直れば、先ずは前世で予見されていたこの場を掻き乱す一手になった確信を抱いた。最悪、彼女だけでも、この場から逃げて貰えたのなら、それはどれだけ喜ばしいことだろう。
息を吸い、息を吐く。そんな当然のサイクルでさえ不規則になりかけている自らを叱咤する。今のチャンスは、ここ一度だけ。一世一代の大博打でハッタリも仕掛けられないようなら、自分は男を辞めて仕舞えばいい!
今立つまでの過程が脳を走馬灯のように駆け巡り、数瞬先の未来の道は全くの予測がつかなくなってきた。
失敗しようがしまいが部外者が乱入を果たした時点で今後大ごとになる未来はこの場にいる誰もが避けられない筈。どうにかこうにか手に入れたこの機会、逃すわけにはいかないのだ。
悪女を断罪するという浅ましい目的で使用されていたそこへ、唐突に現れた一人の青年。
さあ、世界に介入する権利も無い男が、悪女を愛する謎の青年役へと格上げする場面だ!僕の前世よ、そしてこの世界に今も生きることを許して下さるカナリア女王陛下よ!どうか最大の御慈悲を!
ノア・マヒーザ、と。
自らの名を名乗り、ついにエリ-ゼ・リースの前にて話し出すことを許された彼は。大勢の人間を気にしない素振りで、ただ、悪女と呼ばれた女だけを目に映していた。
(……嗚呼、間に合って、本当に良かった!)
真昼の今、見学希望者に混じりまんまと学園内に侵入を果たしてからの第一の目的は、この礼拝堂に辿り着くことだった。
悪女エリーゼ・リースは、ヒロインによって断罪されるのでは無い。ヒロインを慕う攻略対象の男キャラクターに断罪される訳でも無い。
彼女は、この日。ヒロインと悪女の対立関係に無遠慮に割り込んだ、ネームドキャラクターでもない、今まででしゃばったことも無い舞台装置のような存在であるモブキャラクター達に、勝手に断罪されてしまう。その物語の流れを知っているからこそ、無理にでも乱入するしか無かった。
彼女の引き際が潔かったこと、それが更なる人気に繋がったこと。……エリーゼの行動はほぼ一貫して乱暴に描写されてはいたが、その根本には「ヒロインと決着をつける」という芯があったからこそ、良さを持つ悪役令嬢として愛されていたのだ。かつてのプレイヤーであった者しか知りえない情報を覗き見たが、あのゲームアプリの台本では、ヒロインと悪女の間に確固たる因縁があり、その決着をつける前に邪魔されるイベントがこの断罪騒動である。
ヒロインは、この騒動を通し、自らがもっと前に積極的に出て、他者に誤解を与える前に率先して行動すべきであった、と猛省し。ヒロインの弱気な態度に成長を促すエピソードとして消化されていく……それが、僕の前世が見た、エリーゼ・リースの終わりの描写。
そのように終わらせてたまるものか。現実の世界とあの夢の記憶は、絶対同じにさせてはならない。僕はただ恋焦がれる貴女に、別の道を選べる時間を作りたいだけ。
この分岐点を見事変えられたのなら、僕もきっとあの「記憶」を、ただの「予知夢」として今度こそ、自分自身にも踏ん切りがつくのだろうか。
「エリーゼ様、お迎えに上がりました。突然のことで大変申し訳ありませんが、貴方様を僕の花嫁に致したく」
……まるで、大舞台に初めて出演したみたいだ。
オペラの劇中シーンのようだと、礼拝堂に集結している面々を見て思う。そして、その視線の殆どを自分が奪っていることが何だかおかしくもあった。
僕は異物だ。ただ、「この世界に似た場所の情報を見たことがある」こと、そして「彼女に愛を向けること」以外に関しては平凡な実力しか持たない市民。
今日この日に突撃しようだなんて、他人が聞けば気が狂ったと一言目に言われるぐらいな行動。こんなことをしなければ、誰も僕にそんな面があると気付くことすら無いままだったろうに。
しかし、知って貰わなければ困るのだ。今は自分を異常で異端な異物で、関わりたく無いと思えるような不穏な者だと思って貰わなければ、困るのだ。
現に自分に視線を向けて、誰だ?と。あの悪女に別の縁があったのか?と、細波のように少しずつ会話をする音が聞こえてくるだけで、もっと疑え、もっと僕だけに集中しろ、と焚き付けるように内心煽ってしまった。
役立たずの異物、それを無理矢理良い方向に捉えるのであれば。僕は、ノア・マヒーザは。今この場で唯一のイレギュラーな存在となれる者。彼女を勝手に断罪する者達にとっても、彼女自身にとっても。だからこそ、努めれば、きっと。少しだけ、僕の存在の分だけ、未来がずれる。あの予知夢の通りにはならない、そんなことを実現出来ると過信するしか無かった。
「皆様の言葉に対して異は唱えません、しかして彼女が決して悪で無かったとも訴えることはございません。僕は、悪と呼ばれる彼女だからこそ、愛したいのです」
最初に瞳の中に閉じ込めたのは、全生徒が簡単に入るくらいに広く、天井も高いこの礼拝堂内部の全景だ。夢で見た場所、その記憶が本当に当たっていたことを示す現実の映像。躊躇することなく僕は一歩踏み出し、この世界の中にまた沈みこむ。
今まで歩んできた17年間の先に、まだ見ぬ世界の深さを改めて今日から刻まれていくのだ。
ざわざわと騒ぎ出す生徒達。
何回だって見た、この場面の記憶の夢。断罪に参加している生徒の中には、エリーゼ・リースの異母兄姉も混じっている。ヒロインのヒイロの正確に同情的故に「エリーゼを学園から追い出すことが彼女の為になる」と身勝手に思い込んで行動している者のみならず。愚かにも、彼女を、テキスト一行だけで婚約破棄してしまう、彼女の元婚約者もここにいる。
そいつの口から婚約破棄が間違いなく告げられた後。ならば僕はと、礼拝堂で進む会話を外で盗み聞きしながら、そのタイミングで姿を現した。お前がいらないとあまりに不躾なことをするのなら、僕は彼女を求めて、僕には要ると、必要だと叫ぶのだ。
かつん、かつん。自重を支えながら動く足は、ヒールブーツで美しい音を立てながら優雅に歩き距離を近づけて行く。
断罪の舞台の真ん中に強引に立たされた、彼女の前に向かって行く。弱く情けないことを自覚しながらも、幸福を誤魔化すことが難しいのか微笑む男の顔のままで。
彼女の眼下まで訪れた時、一礼の後にすっと跪いた。
「……知らぬ顔だな。問おう、オマエはアタクシに、今何と言った?」
凛とした、はっきりと聞き取れる真っ直ぐな声。耳を確かに貫くこの波形。僕は、これからずっと、彼女の全てに恋をし続けるのだと理解させられた。
ああ、ああ。こんなにも、心を揺らす音だったのか。この世界で初めて耳にする彼女の声だけでもこんなに、胸が締め付けられる程に愛おしい。
「お迎えにあがりました、と。ただそれだけです。僕自身が勝手に貴女様に好意を持ち、このようにしただけ。ただ貴女様に一時を作る為に現れた、都合の良い怪しい男でございます」
「ハッ。良い性質はしているようだね」
「ええ。自負しております。――この場で利用に値する男、と思って頂ければ、恐悦至極にございます。……今は」
利用。その言葉に、彼女の。エリーゼの眉根がほんの少しだけ寄せられ。すぐに表情が変わった。
にたり、という音がお似合いだ。口角を上げ、何者も恐れるものは無いと不適な笑みを漏らしている。…少し開いた口の中では、彼女の内で並んだ牙のような歯が尖った造形をしていた。彼女の秘めた凶暴性を表すに相応しい、歪な美しさ。
「気に入った、ふざけた野郎だ。アタクシを花嫁に、とぬかすだけはある。無謀なまでの優男だね。ならば、アタクシをここから連れ出す権利をやろう。それでオマエの褒美になるかい?」
「……!そうですね、僕の命ひとつでは足りない程の価値のある褒美に思えます!」
ぱっ、と、幼さを残す笑顔を見せてしまい。慌てて素を隠した。僕のその変化でさえ、喜劇を見るかのような目をしたまま。エリーゼが、祭壇から降りてくる。
誰も、まるで理解出来ない会話と展開。別にいいのだ、お前達に理解が届かずとも、彼女が今から僕の手を取ってくれるのなら。理解出来るのはたった二人だけで十分。
「どこの青二才か知らないが。悪女と呼ばれたこのアタクシを取るのなら、覚悟は生半可では無いだろう?」
「覚悟も無しに恋する方を攫う男は、笑い話にさえもされませんよ。…僕の、僕だけのマトゥエルサート」
ざわ、と。また周囲が騒がしくなる。
誰に何を言われようと、罵られようと。今の僕は、二人だけの世界に彼女が敢えて入ってきてくれていることに気付いていた。
そりゃあ。先程婚約者に捨てられたばかりの女の目の前に、突如「マトゥエルサート」と呼びかける…これほど都合のいい「逃げ道」として利用出来る男が現れたのなら、周囲は逸脱し切ったこの展開についていけなくなることだろう。
エリーゼの伸ばした手を、下から掬い上げるように優しく取り。その手の甲に軽く口付けを。
この人は。もう誰にも渡したくない。そんな強い欲がこの身体を動かす糧になってくれる。
「それでは皆様、乱入者はこれにて去りとうございます。…神聖な礼拝堂で、このように心貧しい行為をしていたことを女王様に口外されたくなければ。僕達二人の背中をただ、黙って見送ることですね」
座席から立ち上がり動揺する生徒達に向かって、告げる。カナリア女王を聖とする彼らにはよく浸透していく言葉であろう。
彼女の手を引き、そして。あろうことか僕はこのまま。堂々と、学園の門を出て行こうとしている。自分がしたことに一切の後腐れも無く。ただ、彼女を連れ出すことだけを考えたとても自分勝手な行動だと自覚はあるが。
夢にまで見た、エリーゼの手を僕が引いている。
今はそれ以外のことなど考えてはいけないと、神様にお墨付きを貰ったかのような足取りの軽やかさで、動き出す。逃げ出すのでは無い、今まで普通に歩いていた延長かのように自然に、二人は消えていく。
ノア・マヒーザと名乗った青年が、断罪された悪女エリーゼ・リースを連れて逃げたという情報が階級関係無しに流れたのは。時既に遅く、二人がそのまま王都を脱した頃合であった。